32 早退と千里眼
「うざい、重い、どいてー」
見事に三拍子揃ったわね、とそれを聞いていた来羅は笑う。
「来羅ちゃん、笑い事じゃないですー」
三拍子を言った張本人である芽榴は盛大に溜息をついた。そして背後で自分に抱きつく人物を見てもう一度言葉を紡いだ。
「蓮月くん。本当に私はもう大丈夫だから。とにかく自分の仕事してー」
「今日はオレ、一日芽榴ちゃんの足になるって決めてるから!」
「はい、そーやって仕事サボらないー」
「そうじゃないよ!」
「うん、そーだねー」
「芽榴ちゃん!」
芽榴は風雅の申し出を一刀両断し、自分の隣の席に大量の書類を分け与えた。
今日も相変わらず不自然な仕事量だと芽榴は思った。
「風ちゃん。いい加減離れなさいよ。下手な言い訳して抱きついてるのがバレバレよ。颯が治療したんだから、折れてないならもう殆ど完治してるはずよ。分かってるでしょ?」
来羅が紅茶を飲みながら笑う。体育祭時の来羅の姿も好きだが、やはり可愛らしい姿の来羅は見ていて癒される。
「神代くんって流石だねー。医師免許持ってるんじゃないかと疑うよー」
芽榴は本当に感心したように言った。あれだけの痛みが昨日圭と歩いたときにはすでに殆ど消えていた。今日は足の違和感すらない。自分の治癒力がすごいのか、それともやはり颯の治療が素晴らしかったのか。芽榴はそんなことを考えていた。
「でも、芽榴ちゃ……! ヒッ!」
突如、風雅は芽榴から飛び退く。すると、芽榴の顔の横を凄まじい勢いで万年筆が飛び去った。
「わーお」
芽榴は驚いたような声を出した。しかし、顔や目はさほど驚いていない。
「ちょ……っ、翔太郎クン! 芽榴ちゃんに当たったらどうすんのさ!?」
風雅が万年筆の発射地点である翔太郎を指差して叫ぶ。
翔太郎は眼鏡のブリッジを押し上げ、鼻を鳴らした。
「それはない。貴様ただ一人を狙って投げたからな」
「いや、それも問題だからね! オレに当たったら……」
「狙ったのだからそうなっても仕方あるまい」
「翔太郎クーン!」
風雅と翔太郎のやり取りを、来羅はクスクスと笑いながら、芽榴は呆れながら聞いていた。
「蓮月。貴様には本当に呆れる。貴様が抱きつけば、ほぼ完治しているとはいえ、それこそ楠原の足に負担がかかるだけだろう。そんなこともわからないか、馬鹿めが。いいか? それでも楠原の手助けをしたいと思うなら藍堂を見習え」
翔太郎は自分の隣の席で黙々と仕事をこなす有利を見た。有利は芽榴の負担が軽くなるようにといつもの倍以上の速度で仕事をしている。
「藍堂くーん。仕事くらい私できるからー。ていうか、これはどっちかというと手の負担だからね。足関係ない」
芽榴はそう言って有利の仕上げている途中の書類を奪った。
初等部の後援会予算案と書かれたその書類作成は元は芽榴の仕事だ。いつのまにか有利に奪われていて、翔太郎が言ってくれなければいまだに気づかなかったかもしれない。何せこの仕事量だ。一つ消えても分からない。
「ですが……最後に楠原さんが倒れたのは僕の責任ですから」
やっと顔をあげた有利は目を伏せていた。
有利が止めていれば芽榴の足は悪化しなかったかもしれない。有利はどうやらまだそんな風に思っているらしく、この行動も責任を感じてのものだろう。
今日は早々と生徒会を切り上げたいと思っていたため、有利が自分の仕事までしてくれるのは確かに助かるが、道理ではないと芽榴は思った。
「まー、藍堂くんがそう思いたいならそれでいーけど。とにかくこれは生徒会の仕事。公私混同はしてはいけませんっていうのでどー?」
芽榴が人差し指をたてて、問いかけるように言う。しかし、その声にはどこか言い聞かせるような強さがあって、有利は頷いた。もちろん納得していないと言わんばかりの顔をしていたが。
「まったく風ちゃんも有ちゃんもそこまで心配しちゃうと逆にるーちゃんが気を使うっていうのに」
「まったくだ」
二人の言うとおり。あまり気を使われると逆に気を使う。
少なくとも、芽榴は過保護を見せない来羅と翔太郎に感謝する。あと、今日も変わらない仕事を提供してきた颯にもだ。
「あ、今日は私早く帰るからー」
芽榴は思い出したようにそう言った。すると約一名、もはや一匹と数えたほうがいいのではないかと思う人間が抗議の声をあげた。
「なんで!?」
「うん。もし怪我を心配してるんだったらその反応はないかもねー」
「え、いや、えっと……あー!! だってオレ芽榴ちゃんとできるだけ長く一緒にいたいんだ!」
芽榴は半目で風雅を睨んだ。来羅は堪えきれず噴き出し、翔太郎と有利は大きな溜息をついた。
「まーいいや。蓮月くんなんて知らないから」
「芽榴ちゃん、ごめんね! でも、心配してるのも本当だから! ただやっぱり一緒にい」
「うざい」
芽榴はきっぱりと言い切った。風雅はわーんと泣きながら有利に縋り、有利は仕方なく風雅を慰めていた。
うざいと言った本人はそれを見て楽しげに微笑んでいるのだが。
「楠原。たまに貴様を恐ろしいと思う」
「褒め言葉として受け止めるねー」
芽榴はそう言って今仕上げた書類をトントンと揃え、来羅に振り返った。
「来羅ちゃん」
「なぁに?」
芽榴が来羅のもとに歩み寄ると、来羅はパソコンに会計を打ち込んでいるところだった。キーボードを打つ手が見えないほど、カタカタと打ち込んでいる。
その早さを維持しながら芽榴に振り返る来羅のパソコン技術は強者としか言いようがない。
「あのさ、ラ・ファウスト学園について何か情報あるー?」
芽榴が尋ねると、来羅はキーボードを打つ手を止め、その手を顎に持っていき少し考えていた。
「日本一のセレブ学校。家からの寄付金の額で生徒の優劣が決まるっていう典型的な格差社会。そこのトップを行くのが東條グループと並び立つ日本の基盤、琴蔵財閥の息子っていうのが大筋かしら」
来羅の説明を聞いた芽榴は「じゃあ、生徒のことについて詳しく分かるー?」と尋ねた。
「まぁ、ラ・ファウスト学園でも上位にいる生徒なら分かるわ。ちょっと待って」
来羅はそう言って引き出しからUSBを取り出した。
来羅がパソコンにそれを突き刺すと、生徒のデータらしきものがでてきた。顔写真と軽いプロフィールが書かれている。
「ちょっと見せてー」
芽榴は来羅からマウスを受け取り、それを一気にスクロールした。目的の人物は確かにその中にいた。
「うん、ありがとー」
「今ので全部読んだの?」
「まー」
百人分のデータを秒単位で見終わったと言う。来羅は改めて芽榴の能力に感心するのだった。
「でも、どうして?」
「今日、ラ・ファウスト学園に見学行くからー」
「え!?」
芽榴の言葉に反応を示したのはもちろん風雅だ。しかし、来羅や翔太郎、そして有利も目を瞬時に見開いた。
「芽榴ちゃん、転校とか絶対反対だからね、オレ!」
風雅が飛んできて再び芽榴に抱きついた。真正面から受け止めたため、風雅の胸に顔が押しつぶされ、口を開きにくい。
芽榴は何とか顔を少し横にずらして喋り出した。
「違う違う。弟の友人の付き添い……みたいなー?」
語尾が疑問系になってしまう。付き添いたいと言ったのは芽榴だ。どちらかと言えば節介焼きという言葉が近いか。と、そんなことを考えている芽榴に、有利が興味津々に尋ねてくる。
「楠原さんって弟がいるんですか?」
「うん、まー」
「なかなかイケメンよ」
来羅が笑った。どうして来羅が知っているのだろうと芽榴は首を傾げた。しかし、すぐに思い当たった。ナンパ事件のときに圭がいたのだから知ってて当然なのだ。
「じゃあ、オレも着いて行く!」
「なんでー?」
芽榴はおとなしく抱きしめられたまま尋ねる。
「だって芽榴ちゃんがラ・ファウストのボンボンに何かされたり、気に入られたりしちゃったら……っ!」
風雅はそこまで言ってまた芽榴から飛び退いた。
「わーお」
今度は定規が目の前を通過して行く。芽榴と風雅を引き離すようにそれを放ったのはやはり翔太郎だ。
「翔太郎クン! マジで何考えてんのさ!?」
「それはこちらの台詞だ。ストーカーで通報してやりたいほどに楠原が不憫でならん」
「ストーカー!? 誰の話!?」
「貴様だ! 馬鹿が!」
風雅と翔太郎が机を挟んで口論を始める。同じ机にいる有利は頭を抱えていた。
そんな3人に肩を竦めながら、芽榴は来羅のほうを向き直った。
「ね、来羅ちゃん」
来羅は首を傾けて芽榴の呼びかけに再び反応する。その仕草だけでも可愛すぎるくらいだ。
「ボイスレコーダーって持ってない?」
「持ってるわ。はい、ここにあるのはちょっと大きいけど」
来羅がそう言って芽榴に渡してくれたボイスレコーダーは芽榴が知るボイスレコーダーと比べても十分小型なのだが。
芽榴はハハハと笑ってそれをありがたく受け取る。
「じゃ、私は仕事終わったから行ってきまーす」
芽榴が小声で来羅にそう告げると、来羅は行ってらっしゃいと笑った。
芽榴は廊下を歩く。
颯に挨拶をして帰るべきかと一瞬悩んだが、颯のいる職員室は正反対の方向にあるため、考えるのをやめた。
すると、芽榴の行く廊下の壁に見知った人影がもたれかかっているのが見えた。
「テレポートしたのー?」
芽榴は困ったように笑った。
そこには颯がいるのだ。
「職員室に戻るのは面倒。勝手に帰ることは明日侘びればいい。そんなところかい? 芽榴」
腕を組む颯が横目で芽榴を見た。芽榴は肩を竦めてペロッと舌を出した。
「えっと、今日は仕事全部終わらせたんで早く帰ります」
芽榴が言うと、颯はククッと笑った。他の役員と同等の仕事を与えたはずなのに芽榴は一人でさっさと全部仕上げてしまった。芽榴のほうこそ流石と言うべきだ。
「芽榴。確かに君はすごいけど、宣戦布告はあまりよくないよ」
「神代くんは千里眼でもあるのー?」
「近いものはあるかもしれないね」
芽榴は少し目を見開く。颯の笑顔は嘘か本当か見抜けない。
「気をつけるんだよ」
「何が?」
「僕の勘だ」
「それは恐ろしーね」
芽榴は颯の横を通り過ぎる。
「行ってきまーす」
ヒラヒラと手を振りながら、芽榴は小さくなっていく。颯は芽榴の後姿に手を伸ばした。
「……芽榴」
颯の目にいったい何が映っているのか。
それは颯にしか分からないのだ。




