#17
颯との約束を果たすため、テストは万全の状態で受けた。
いつもよりも多くの時間を費やして勉強し、テスト中も隅々まで見直しをした。
絶対に大丈夫。
その確信とともに、芽榴はこの学園で受ける最後のテストを終えた。
テスト最終日のその日、芽榴は学校が終わるとその足で聖夜の部屋へと向かった。
オートロックを解除してもらい、芽榴は聖夜の部屋の扉前に立つ。もう一度、聖夜の部屋のインターホンを鳴らそうとすると、芽榴の指が触れる前に扉が開いた。
「え……」
「一週間とちょっとぶり〜。ようこそ〜、聖夜の部屋へ」
緩い喋り方と、軽いノリ。もちろん、芽榴を招いたのは聖夜ではない。
「簑原さん……」
「うっわ、なにその、嫌そうな顔」
扉を開けたまま、慎は楽しげにケラケラと笑っている。
どうやら慎も聖夜の家に遊びに来ていたようだ。
「まあ、あがれよ」
まるで家主のような言い方だ。
本当の家主が見たら即座に彼の頭を叩いていそうだが。
「あの……」
「聖夜なら、シャワー浴びてる。朝まで仕事してて、さっき起きたんだよ」
どうやら聖夜が忙しくしているタイミングで来てしまったらしい。昨日一応確認した時には「待ってる」と言ってくれたのだが。
それも聖夜らしいため、芽榴は眉を下げることしかできない。
慎に通されて、芽榴は聖夜の部屋へあがる。
暖房がきいていて、部屋の中は暖かい。芽榴は着ていたコートとマフラーを脱いで、適当なところへ置いた。
「ちょうどよかった。俺、コーヒー飲みたかったから淹れてよ。聖夜もそろそろ出てくるだろうし、3人分な〜」
部屋に来たばかりの芽榴に慎は遠慮なく注文する。
芽榴はため息を吐きながらも、文句を言わずにキッチンへと向かった。
他人の家のキッチンを勝手に使うのは気がひけるものの、聖夜も芽榴がくるたびにコーヒーを淹れさせるため、この部屋のキッチンはすでに慣れ親しんでいる。
「あ、そうだ。聖夜から楠原ちゃんのチョコもらった。……ありがとな」
聖夜の部屋で、聖夜のチョコを作り直したとき、ついでに慎の分も作って、聖夜に渡してもらっていたのだ。
慎が素直にお礼を言ってくれたことに、少し感動しつつ、芽榴はカップを棚から取り出した。
「いえ……直接渡せなくてすみません」
「本当だよなぁ〜。前日に会ったのにさ」
「……前言撤回します」
「ははっ、怒んなってー。それより……」
慎はキッチン越しに芽榴と向かい合うようにして、立つ。
感情の読めない笑顔を浮かべて、彼は明るい声音で言った。
「俺の言った通り、ちゃんと聖夜のこと選んだんだ?」
「……別に、簑原さんに言われたからじゃないです」
「あっそ?」
慎は探るような視線を芽榴に向ける。
聖夜のそばにいたいとは、思っていた。けれど、それを聖夜と約束するに至ったのは、慎の言葉があったから。
慎の言う通りなのだが、彼に感謝するのはなんとなく不服だった。
「まぁどっちでもいいけど。あんたが聖夜のものになったなら安心安心」
慎は目を閉じて、安堵するように息を吐く。
まるで自分のことのように、慎は聖夜の幸せを喜んだ。
でもほんの少しだけ、その笑顔が寂しそうにも見えて、芽榴は慎に声をかけようとしていた。
「みの……」
けれど、別の方向から、芽榴の声を遮るように、別の声がかぶさった。
「慎、さっきから何ごちゃごちゃ言ってんねん。うるさ……」
シャワーを浴び終えて、タオルで体を拭きながら、聖夜がこちらへ顔を出した。
まだ慎しかいないと思っていたらしく、聖夜は芽榴の姿を見て驚いた顔をする。
「なんや、もう来てたんか。おい、慎。芽榴が来たならはよ言えや、ボケ」
「えー、居留守使わずに通したこと褒めろよ」
「当たり前やわ。……って、あ……」
慎に文句を言ったのち、聖夜が静かに声を漏らす。
芽榴は聖夜から目をそらしたまま、彼の声にだけ耳を傾けていた。
それも仕方ないことで、聖夜は上半身裸のまま。下半身もタオルを巻いただけ、というとんでもなくラフな格好でいるのだ。
聖夜もそのことに気づいたのだろう。
「悪い。服着てくる」
そう言って、聖夜は急いで風呂場へ戻った。
聖夜の足音が消え、芽榴が大きく息を吐き出すと、慎がおもしろいものを見たかのようにケラケラと笑い始めた。
「……なんですか」
「え? だって、別にもう聖夜の裸なんて見慣れてるだろ? それなのに恥ずかしがってんの、おもしれえから」
慎はバカらしいとでも言いたげに笑っている。けれど、芽榴は意味がわからず首を傾げた。
「私、あの人の裸見るの、初めてですよ」
「……は?」
「いや……だって、見る機会なんてないじゃないですか」
「見る機会って、聖夜と付き合ってんだろ?」
慎にそう問われて、芽榴は慎の言いたいことを察した。
そのこと自体が恥ずかしくて、芽榴の頰が薄く色づく。
「その……『付き合う』とかにはなってないと、思います」
「は? あんた、聖夜のこと選んだって」
「それは、その……聖夜、くんのそばにいるって約束したんですけど」
前回この部屋に来た時、何度も練習したけれど呼び捨てには慣れきれなくて、なんとか譲歩してもらった「聖夜くん」という呼び方。
やはりそれも、慣れない響きで、むずがゆくなる。
「……聖夜のこと、名前で呼ぶようになってんのに?」
「それは……そうしろって、このあいだ練習させられて……」
「でも付き合ってない、と?」
そういうふうに、誘導されて問いかけられると、芽榴でさえ首を傾げたくなる。
たしかにしている行動はカップルと変わらない気がした。
「ほぼ付き合ってるのと変わらない状態なのに……聖夜はお預けくらってんの? うけるんだけど。つーか、本当に何もないわけ? さすがにキスくらいしただろ」
この手の話が好きなのか。慎は次から次に質問を重ねてくる。
対する芽榴は、慣れない話にどんどん顔を赤くしていた。
「それは、その……1回だけ、いろいろあって」
「1回!? 嘘だろ、まじか! それ本当に聖夜? あの聖夜が、好きな女を前にして何もしないとかありえねぇ〜。あっはは……っと!」
笑い声をあげながら、慎は徐に顔を横にそらす。
すると、慎の頭を殴ろうとしていた聖夜の姿が芽榴の視界に入った。
「芽榴に余計なこと言うな、バカ」
「ちぇー。聖夜が黙って見ててくれりゃ、俺が楠原ちゃんに聖夜の喜ばせ方を教えてやったのに」
「芽榴がそばにおるだけで、俺はめちゃくちゃ喜んでるし。余計なお世話や。……もうさっさと帰れ」
聖夜は顔面に不機嫌と書いて、慎に文句を告げる。けれど慎はそれすら楽しそうに受け入れ、帰ろうとはしない。
「俺も一応、ちゃんと用があるんだって」
「……なんや」
「舞踏会参加しろって、学園長からの伝言〜」
「拒否。……んで、帰れ」
聖夜は芽榴の淹れたコーヒーをその場で受け取ると、ソファーに腰かけた。そして芽榴に隣に座れ、というようにポンポンとソファーを触る。
「なに、俺に座ってほしいの? 聖夜ちゃんはかわい……」
「ほんまにぶっ殺す……」
「はぁ……簑原さんもコーヒーどうぞ」
芽榴は聖夜と慎のあいだに割り入るようにして、慎にコーヒーカップを差し出す。すると慎は満足そうに「サンキュー」と笑い、逆に聖夜は眉間のシワをさらに濃くした。
「まあ、冗談はさておき。聖夜が舞踏会に毎年参加してないのは分かってるけどさ……。今年は楠原ちゃんもいるんだし、一緒に行けばいいじゃん。楠原ちゃんからもなんとか言って」
「……舞踏会って、ラ・ファウストであるんですか?」
「そ。学園の生徒間の親交を深めようって趣旨の。……で、学園の顔である聖夜には参加してほしいわけ。まあ、今までも聖夜が押し切って参加してないんだけど」
「せやから今年も参加せん。……誰が楽しくて、つまらん女と踊らなあかんねん」
聖夜が唇を尖らせながらぼやく。聖夜はダンスが嫌いだ。
おそらく舞踏会に参加しない理由は、それだろう。ただのパーティーならまだ、聖夜も耳を傾けたかもしれないが。
「頼むよ。聖夜がいいって言うまで、俺が学園長にいろいろ言われんの。まじでめんどくせぇんだって」
「知らん」
「……えぇー。せっかく、楠原ちゃんのキメキメの姿見られるチャンスなのに」
「は?」
「パーティーなんだからめかしこまないとだし? 聖夜好みの楠原ちゃんが見れるんだぜ? んでもって、自慢し放題」
そんなことで聖夜の意見が変わるはずがない。と、思っていたのだが、芽榴の予想に反して、聖夜はまんざらでもかい様子だ。
「お前は……舞踏会行きたいか?」
聖夜は芽榴に選択を委ねるみたいに、尋ねてくる。
正直なことを言えば、ラ・ファウスト学園に関わりたくない。だからどちらかというと行きたくないのだが、横方向からの威圧的な「行きたいって言えよ」という視線が痛い。
もし「行きたくない」と言ったならば、何をされるか分からない。
「あはは、興味はありますねー。せっかくだしー」
完全に棒読み。
けれど芽榴が行きたいと言えば仕方ない、と聖夜は口にして、拒否の一点張りだったら舞踏会への参加を決意した。
「ははっ、楠原様様だな」
単純すぎる聖夜の行動に、やれやれと言いたげな顔をしつつも、慎はやはり楽しげだ。
そして、本当に用件が済んだため、帰り支度を始めた。
「もう、帰るんですか」
「なに? いてほしいの?」
「お前は邪魔や」
「楠原ちゃんに聞いてんのに」
これ以上は聖夜が本格的に不機嫌になると思ったのだろう。慎はケラケラと笑い声をあげ、玄関へと向かった。
「んじゃ、またな」
軽快なあいさつを残して、慎は聖夜の部屋を出て行った。
慎が出て行くと、芽榴はどっと疲れが押し寄せてきて大きなため息を吐く。
「うるさいやつがやっと帰ったわ。……せっかく来てくれたのに、悪いな」
聖夜は芽榴を気遣って、そんな声かけをくれる。芽榴が首を横に振ると、やわらかい笑みを浮かべた。
「テスト終わったん?」
「はい、無事に終わりました」
「……敬語」
「あ、えっと……うん」
意識をしないと、すぐ敬語に戻ってしまう芽榴に、聖夜は困り顔だ。けれど素直に直そうとする芽榴を見て、どこか嬉しそうにしている。
「なら、今日からまた電話してもええ?」
その問いかけは、まるで「ずっとしたかったけど我慢してた」とでも言っているような気がした。それがなんとなく嬉しくて、芽榴は笑顔で頷く。
「にしても舞踏会かぁ。ほんまに嫌いなんやけどな」
「……ダンス、踊りたくない?」
「そりゃあな。でもそれ以上に、親交を掲げとるからって近寄ってくるやつらがうるさい。……それ相手にすんのが、ほんまは一番嫌」
聖夜は目を細める。その瞳に微かに影が差して、芽榴は心配そうに表情を曇らせた。
でも聖夜はそれにすぐに気づいて、「そんな顔すんな」と芽榴の頰を引っ張った。
「痛い……」
「ははっ。……でもまあ、お前がおるんやったら、だいぶ楽しめるやろ」
「一緒に行くの、私でいいの? 他の人の方が……」
「お前がダメやったら、誰もダメやろ。芽榴がいい。そこは自信持てよ」
聖夜は迷いなく告げてくれる。けれど、最上級のお嬢様が集う場所に行くのは、どうしても億劫になってしまう。
芽榴がかつてはその立場にいた人間で、これからまたその立場に戻るのだとしても、それでも今の自分が、聖夜の隣に並んで恥ずかしくない人間かどうか、悩ましいところだ。
そんな芽榴の不安を読み取って、聖夜は芽榴の頭に手を乗せた。
「少なくとも、俺の中ではお前が一番かわいいよ。それじゃ足りん? 自信には、ならんか?」
「それは……。それだけで、十分……」
芽榴がごにょごにょと言葉を返すと、聖夜は声を出して笑った。
聖夜は「かわいい」も「好き」もたくさん芽榴にくれる。それほど想ってくれているのだと、芽榴にもちゃんと分かるほど。
だから、やっぱり、慎がさっき言ってたことが気になってしまう。
「……どした?」
黙ってしまった芽榴に、聖夜が問いかける。
芽榴は自分の考えていたことをどう言葉にしたらいいのかわからず、その代わりに顔を真っ赤にしてしまった。
「何、顔赤くしてんの。……やらしい」
「別に、変なこと考えてたわけじゃない……よ」
「へぇ? じゃ、なに考えとったん?」
煽るわけでもなく、聖夜は真面目な様子で聞いてくる。
単純に、芽榴の考えていることを知りたそうに、芽榴のことをまっすぐ見つめてくれる。
その瞳を見ていたら、やっぱり分からなくなった。
「……聖夜くん、は……無理してるのかなって」
小さな声で言うと、聖夜は「……慎か」とため息を吐きながら、恨めしげに彼の名をつぶやいた。
「まあ……当然キスはしたいし、もちろんその先も。でも、まだ俺らはそれ以前の問題やん。まずこの関係が進展するかも分からん」
「……ごめんなさい」
「ちゃうちゃう。お前を責めとるんやなくて……。このあいだみたいに強引にキスすることはできるし、お前の気持ち無視すれば、正直なんでもできる」
聖夜の言うとおりだ。聖夜がその気になれば、芽榴のことをどうにでもできる。そういう場面は今までだってたくさんあった。
「でもそれじゃ嫌なんよ。一回無理やりにキスしとるから余計に思う。……次は、俺のすることでお前にちゃんと喜んでほしいから」
今この瞬間も、聖夜は芽榴のことを抱きしめて、キスをしたいと思っている。でもそうしないのは、芽榴の気持ちごと、自分のものにしたいから。
「せやから絶対無理せんで。慎に煽られたからって、俺に気遣って、投げやりにならんといて」
「それで、いいの?」
「ええよ。……そっちのほうが、きっと嬉しいしな」
それだってきっと、聖夜は無理しているのだと思う。
けれど今はまだ、その聖夜の優しさに甘えていたい。
芽榴が安心して強張った表情を崩すと、聖夜も目尻を下げた。
「んでさ、俺さっき起きたばっかやから腹減った。……なんか、作って」
「私の手作り?」
「ダメか? 芽榴の作ったもんが食べたい」
普段はクールに、無愛想にかまえているのに、芽榴の前でだけはこんな甘えた姿を見せてくる。
聖夜はよく芽榴を「かわいい」というけれど、芽榴からしたらそういう聖夜の方がよっぽどかわいく見えるのだ。
「……ずるいなぁ」
ポツリとつぶやいて、芽榴は再びキッチンへ向かった。




