#14
聖夜が出て行って、応接室には芽榴と翔太郎、有利、そして風雅が残った。
応接室の張り詰めた空気が少しだけ解けて、それと同時に有利が困った顔で口を開く。
「琴蔵さんと、そういうことに……なってたんですね」
有利と来羅にはちゃんと言っていなかった。おそらく勘のいい来羅は颯と風雅の様子で察してくれていたかもしれない。
けれど有利は、聖夜から芽榴とのことを初めて聞く形になってしまった。
「ごめんね。……昨日、言えたのに」
「いえ、わざわざ言いにくいと思いますし……それに、楠原さんから聞くより、あの人の気持ちごと直接聞けたほうが、納得できたのかもしれないって、今は思います」
有利はそう言って、芽榴に笑いかけた。
「あの人は、楠原さんのことに関しては、本当に僕たちなんかよりもずっと頼りになる人ですから……僕は、楠原さんの選択を否定はしません」
有利らしく優しい声で言って、彼は風雅に視線を向けた。
「ここは、もう好きに使っていいだろう。俺たちは先に失礼する」
芽榴と風雅を気遣うように、翔太郎は告げる。そして、応接室から出て行く前に、翔太郎は芽榴に視線を向けた。
「あの男の言葉を聞いて……貴様の気持ちが、少しだけ理解できた気がする」
翔太郎はそれだけ伝えると、有利とともに応接室を出て行った。
そうして、芽榴と風雅は2人きり。
流れる空気は再び重く、張り詰める。
先にその緊張の糸を解いたのは、風雅の方だった。
「みんな、なんであんなに聞き分けいいんだろ」
風雅は掠れた声で、笑っているとも泣いているとも言えない、複雑な顔をして芽榴を見つめた。
「ごめんね、芽榴ちゃん。オレはあの人の言葉を聞いても、やっぱ納得したくない」
どうしようもないと、自分で分かっているのだろう。風雅はもう一度「ごめんね」と口にした。
「あの人に会いたくなかった。会ったら……絶対オレは、負けたって思い知るって分かってたから」
「蓮月くん……」
風雅は苦しそうな表情を浮かべたまま、芽榴に近寄って、芽榴の頰に触れた。
「オレのせいで……泣いたの? 芽榴ちゃん」
聖夜の言葉で、風雅は気づいたのだろう。
芽榴が昨日、風雅を傷つけたことで泣いてしまった事実に。
「オレなんかのために泣いてくれるなんてさ、やっぱ芽榴ちゃんはずるいよ……。どうしたって、好きになっちゃうじゃんか」
芽榴のことを好き。その気持ちから、風雅はどうしても逃げられない。
逃げられないようにしたのは芽榴。
でもそれを、風雅は後悔してはいなかった。
「あの人に言われた通りだよ。オレがあの人の立場でも、芽榴ちゃんを繋ぎ止める。……芽榴ちゃんがそばにいてくれるなら、オレのこと好きじゃなくたってかまわない。今だって、そうだから」
「私は……」
「言わないで。分かってるから。……オレが同じこと言ったって、芽榴ちゃんは頷いてはくれない。その重要なとこ分かってないから、あの人は幸せなバカだよ……」
風雅はそう言いながら、目に手を当てた。
「あー……泣きたくないのに。ほんと……オレも、幸せなバカになりたかった」
「蓮月くん……ごめ」
「ダーメ。絶対にそれ言わないで」
風雅は、芽榴の「ごめんね」の言葉を塞ぐ。
指の隙間から溢れる涙は、芽榴のために流すにはもったいないくらい綺麗だった。
「オレ、わがままだからさ。……芽榴ちゃんがオレ以外の誰かを好きになるなら、誰が相手でもやっぱ嫌なんだよ。簡単には認められない。それがオレの好きの気持ちだから」
聖夜じゃなくても、芽榴が選んだのが、たとえ役員の誰かでも。風雅はその芽榴の選択を拒んで受け入れられない。
「だって、オレが誰よりも芽榴ちゃんのそばにいて、芽榴ちゃんのこと笑わせて、それなのに芽榴ちゃんに選んでもらえないってさ……もう本当にどうしようもなくて、言い訳もできなくて……なんでオレはオレなんだろ。……芽榴ちゃんに好きになってもらえる人間に、なれないんだろ」
風雅の声が切なくて、溢れる涙がどんどん質量を増していて、堪えきれずに芽榴の目からも涙が溢れていた。
「違うよ……蓮月くん」
風雅を選ばない芽榴が、どんな言葉を吐いても気休めにしかならない。また風雅を傷つけて、苦しめるだけ。
それでも、風雅に自分を蔑んでほしくはなかった。
「蓮月くんは、とってもいい人だよ。いい人すぎて、こっちが心配になるくらい」
「……じゃあ、どうして、芽榴ちゃんは、オレを好きにならないの?」
風雅は涙でぐちゃぐちゃの顔を露わにする。
胸が押しつぶされそうなくらい、苦しい。けれどその顔から、目をそらすわけにはいかなかった。
もう、曖昧な言い訳はできない。
風雅にはみんながいる。風雅は大丈夫。
そんな言葉じゃいけない。今ならわかる。
芽榴が聖夜を選んだ、本当の理由は――。
「蓮月くんには、私の重荷まで背負わせられないから」
これから芽榴が背負う荷物を、風雅には背負わせられない。
もちろん、誰にも背負わせる気はない。
けれど東條家の存在は、芽榴に背負いきれなくなるほどの重荷になりえるもの。
もしそれを背負いきれなくなったとき、芽榴は風雅に一緒に背負ってほしいと思わない。
芽榴の重荷を理解して、受け入れられるのは、聖夜だけ。
聖夜のそばにいてあげたい。
でももし、芽榴が崩れた時に、聖夜にそばにいてほしい。
東條家と芽榴をもう一度つないでくれた、聖夜なら、これからの芽榴を支えられる。
それが芽榴の答え。
好きという感情が分からなくても、その気持ちだけは明確だった。
「芽榴ちゃんの、バカ。……それじゃあ、食い下がれないじゃんか」
涙で風雅はそれ以上言葉を話せなくなる。
代わりに、彼は芽榴のことを抱きしめた。
芽榴の抵抗をさえぎって、「何もしないから」とでも言うように、彼はふるふると首を横に振った。
「蓮月くん……」
風雅の背中に、手は回さない。
ともすれば「ごめんね」と言ってしまいそうな唇を噛み締めて、芽榴は別の言葉に変えた。
「好きになってくれて、ありがとう。……蓮月くんが好きになってくれたから、私も変われたよ」
風雅が好きになってくれたから、今の芽榴がいる。
風雅の気持ちは、決して無駄なものじゃない。
芽榴にとって、風雅の「好き」の気持ちは、むしろ誰よりも特別な思い。
「ありがとう。……ありがとう、蓮月くん」
ごめんね、の代わりに何度もそう告げた。
風雅は、まだきっと納得しきれてはいないだろう。
けれどもう、昨日のように、自分の気持ちを押しつけることはしなかった。
「オレのほうこそ、ありがと……。こんなときまで、優しくしてくれて……ありがと。やっぱり……好きだよ」
それでも、答えを求めない「好き」を昔と変わらない声で、伝えてくれる。
口には出さないけれど、そんな風雅のことが、芽榴もやっぱり大好きだった。
「このまま振り向いてもらえなくても、あの人のものになっても……オレはやっぱり、芽榴ちゃんが大好きだよ」
これだけの愛情を向けられても、芽榴の気持ちは友達以上にはならない。
それをもう、風雅も分かっているから。
「芽榴ちゃん。もう答えなんて求めないから。困らせるようなことはしないから。だから……好きでいることだけは、許して」
それが、風雅の最大の譲歩。
そう告げる風雅は、芽榴の大好きな笑顔を、再び芽榴に向けてくれた。




