#12
夕飯を食べ終えて部屋に戻ると、おのずと風雅の顔が頭に浮かんだ。
せっかく重治が作ってくれたご飯もちゃんと味わえずに、圭にも具合が悪いのではないかと心配されて。
「何やってるんだろ……私」
残り僅かな時間を後悔のないように過ごしたいと思っていた。
そのために、自分で正しいと思う選択をしたはずだった。
けれど颯の怒った顔や、風雅の悲痛に満ちた顔を思い出すと、聖夜を選んだことを後悔しそうになる。
こうなることを分かっていて、聖夜のことを選んで、絶対に後悔しないと思っていたのに。
こんな気持ちは聖夜にも、失礼だ。
「最低だ……」
ドアを背に座り込むと、机の上に置き去りになっているスマホが着信を知らせるように震えていた。
聖夜からの着信。
そう分かると、余計に伸ばす手が重く感じられた。
けれどせっかく聖夜が電話してくれたのに、出ないのは申し訳ない。
震えそうな声を、深呼吸で整えて、芽榴は机まで歩いた。
「……もしもし」
『もしもし……って、風邪でも引いたか?』
芽榴の声を聞いた瞬間に、聖夜は芽榴の鼻声に気づいてしまう。些細な変化にもすぐに気づいてくれるのは嬉しいけれど、今は気づいてほしくなかった。
「あはは……ちょっと、今朝から鼻声で」
『昨日少し送るの遅なったもんな。悪い』
聖夜に嘘を吐いて、気を遣わせている。
こんな嘘を通しても、ただ聖夜に気を遣わせるだけ。かといって、今日のことを伝えても聖夜を心配させるだけなのだ。
「いえ、琴蔵さんのせいじゃないですよ」
『……今日はちゃんと体あったかくして寝りや』
「はい、ありがとうございます」
『……それで、さ』
聖夜は遠慮がちに、言葉を続ける。言葉を選んでいるのか、声は小さくて、聖夜にしてははっきりしない物言いだった。
『チョコ……ちゃんと、あいつらに渡せたんか』
少し不機嫌な声で尋ねてくる。けれど今はその話題にあまり触れてほしくなくて、芽榴は話を早く切り上げるべく短く返した。
「はい、ちゃんと渡せましたよ」
それだけ伝えれば、その話題は続かないと思っていたのだが、聖夜は話を展開させてしまう。
『そか。……めちゃくちゃ喜んだやろな。……なんか腹立つ』
聖夜が誰のことを想像していってるのかはわからない。もしかしたら役員みんなのことを想像したのかもしれない。
けれど、聖夜の声を聞いたら、どうしても颯と風雅のことを思い出してしまって、芽榴の心がキュッと苦しくなっていった。
二人とも喜んでチョコを受け取ってくれた。本当なら、そのまま笑顔で今日を終えることができたのに。
『……芽榴?』
「え、あ……はい。みんな、喜んでくれて」
いつも通りに答えようとしたのに、思ったよりも声が震えてしまった。風邪を引いた鼻声でもこんなに声は震えない。
『なぁ……もしかして、お前泣いとる?』
「そんなわけないじゃないですか。泣く理由なんて、ないですし」
芽榴が泣くわけにはいかない。そう思えば思うほど、心とは裏腹に目から涙が零れ落ちていく。
大好きな人たちに悲しい顔をさせてしまったことが、その原因を分かっていて変えられない自分の心が苦しい。
『本当か?』
「……本当ですよ」
『じゃあ、今すぐ窓の外見て』
その言葉に、芽榴は目を見開いた。まさか、と思って慌てて窓へと向かい、下を見下ろす。
『ほらな……嘘つけ。ひどい顔しとる』
電話越しに呆れた声が聞こえる。窓の外、家の前に佇む聖夜がその言葉を告げるよう口を動かしていた。
「なんで……」
芽榴は考えるよりも先に、足を動かしていた。
スマホはベッドの上に置いて、厚手のパーカーを羽織ると、急いで部屋を出た。
「芽榴姉? え、ちょ、どこ行くの!」
「家の前! 気にしないで」
圭の言葉にもまともに返せないまま、芽榴は急いで玄関から出て行く。
寝る前の、適当すぎる格好も気にしないまま、芽榴は寒空の下に飛び出した。
「……よう」
静かな、聖夜らしい挨拶。白い息が、互いの口からもれていた。
「なんで、ここに……いつから……」
「今来たばっか。それで外見ろ言うたんよ」
聖夜がこちらに歩み寄る。同時に芽榴も聖夜のほうへ歩み寄っていた。
「ほんまは、お前が役員にチョコ渡して楽しんどったんやろなって思って……なんかそれが腹立たしいから、会いに来て……お前驚かせて、自己満足やけど、俺の事考えてほしいだけやったんやけど」
聖夜は恥ずかしそうにつぶやいて、そして真剣な顔で芽榴を見つめる。
まだ涙の乾かない芽榴の顔を見て、ため息を吐くと、強引に芽榴の手を引いた。
「あ……」
「泣いとるとか、思ってもなかった。……でも、会いに来とってよかった」
聖夜は芽榴を抱きしめて、安心するように息を吐きだした。
このあいだ家の前で抱きしめられた時とは立場がまるで逆だった。
あのときは、聖夜が辛そうだった。でも今は、芽榴が苦しくて、聖夜がそれを優しく包んでくれていた。
その優しいぬくもりが、心地よくて、やっぱり聖夜の腕の中がいいと、芽榴は思ってしまう。
「俺が会いに来とらんかったら、お前絶対何も言わんで……一人で泣いとったやろ」
聖夜の腕に力がこもる。声は少しだけ怒っているけれど、なぜか怖いとは思わなかった。
「だって……琴蔵さん、忙しいのに」
「お前のためやったらいくら時間割けるって。今だってそうやろ」
「それは……」
「お前、俺のそばにおってくれるって、昨日約束してくれたばっかやん。……そばにおるって、それ、一緒におるとかそういう話だけやなくて、俺の心もちゃんと支えてくれるってことやろ。……俺には、それをさせてくれへんの?」
聖夜のものとは、思えないくらい優しい声が耳元で響く。
くすぐったいけれど、それが嫌じゃない。
「俺もお前のそばにおりたいし、昨日の約束はお前が俺のそばにおるってのと同時に、俺もお前のそばにおってええってことやないの?」
聖夜はいつだって優しかった。けれど今日は、いつもよりもずっと優しい気がして。
それが昨日の約束の結果なのかと思うと、嬉しくて。
その分、颯への、風雅への罪悪感につながって。
聖夜に迷惑はかけたくないのに、心とは裏腹に、芽榴は聖夜の体にしがみついていた。
「ごめ、なさい……。そばに、いてほしいです。……今日だけは」
「は? 今日だけ? ふざけんな。毎日でも、そばにいてほしいって思えよ」
そんなことを冗談のように、少し明るい声音で言って、聖夜は芽榴の髪に触れた。
外で長話をして、また聖夜が風を引いたらまずい。かといって、このまま聖夜が帰るわけもなく、芽榴も今は聖夜にそばにいてほしかった。
夜は遅い時間だけれど、重治たちも芽榴の様子がおかしいことは分かっていて、聖夜の来訪を許してくれた。
ローテーブルの上に温かい紅茶を置いて、芽榴と聖夜は適度な距離感を保って座っていた。
「で、どないしたん。この期に及んで『なんもない』言うんはなしやで」
聖夜は紅茶を飲みながら、芽榴に話を振る。
今日のことを聖夜本人に伝えるのは気が引けるけれど、家にまで来てもらって、ここまで心配されて、誤魔化すわけにもいかない。
芽榴は聖夜が泊まったあの日から颯ともめていること、昨日の約束の件で颯と、そして風雅と言い合いになってしまったことを明かした。
「そっか。それで……」
聖夜は芽榴の話を飲み込むように、小さくつぶやく。
そして小さくため息を吐くと、座ったまま芽榴の肩を抱き寄せた。
「なんつーか、これは今言うことやないって分かっとるからすまん。……でも、言わせて。……嬉しい」
「え?」
「お前は、俺とのこと役員のやつらには言わんって思うてたから。……別に俺のそばにおるって約束しただけで、好き合って付き合うとかそういうのとはちゃうから……蓮月風雅のこと振るとか、思ってへんかったから」
聖夜はしみじみと、自分の心に響かせるみたいに「嬉しい」ともう一度口にした。
「……ちゃんと俺のこと考えてくれてるんやなって、思ったら……嬉しくて、どうしようもなくなる。お前はつらいのに、それで泣いとるのに……ほんま最低やけど」
「琴蔵さん……」
そうして聖夜は自分の本心を吐露すると、今度は真面目に芽榴の話に返事を始めた。
「あの会長が怒るのは、お前のせいやなくて……俺のせいやな。逆の立場で想像したら、俺も機嫌損ねると思うし……蓮月風雅もそう。お前が好きでもない男と一緒におるって決めて振られたら、俺は絶対納得できんから……あいつらも悪くないし、お前も悪くない」
聖夜は「悪いのは俺やから」とすべてを自分のせいにした。
「ちが……っ」
「違くない。お前はなんも気にせんでええから。お前が俺のために、決めてくれたことや。……俺がちゃんと話さなあかんことやったのに。ありがとな」
聖夜のせいではないのに、聖夜は芽榴の不安を全部背負って、芽榴の心を軽くしようとしてくれていた。
「全部俺が何とかするから。せやから、もうあいつらのために泣かんで。代わりに、俺のために笑ってくれ」
聖夜はささやくように告げて、芽榴に顔を近づける。
けれど近づいた顔は、芽榴に触れないまま遠ざかった。
「悪い……つい、な。昨日かて無理やりしてしまったのに。……あかんわ」
そう言って、聖夜は芽榴の肩から手を離す。けれどそれを追いかけるように、芽榴が聖夜の手を掴んだ。
「え?」
「あ……あの」
反射的な行動で、芽榴も自分で自分の行動に驚いてしまう。芽榴が顔を真っ赤にしてしまうと、聖夜が困った顔をした。
「そんな顔されると、勘違いするからやめや」
聖夜は複雑そうな顔をしている。そばにいると約束しても、芽榴は聖夜のことを「好き」とは言えなかった。今でも「好き」が分からない。
けれど昨日聖夜にキスをされたことが嫌ではなかった。今も、聖夜の手を追いかけた。それくらいには、聖夜のことが「好き」。それは間違いのない気持ち。
「そばにいるって……中途半端な気持ちで、約束したわけじゃないです」
俯いたまま。小さな声で芽榴が伝えると、沈黙が訪れる。
数秒の沈黙の後、聖夜が今日一番大きなため息を吐いた。怒らせてしまったかと思い、顔を上げると、聖夜の香りが芽榴を包んだ。
「……バカ。そんなこと言うて、襲われても文句言えへんからな」
そんな言葉を口にするけれど、聖夜は芽榴に乱暴なことはしない。芽榴の頬にキスをして、少しだけ苦しそうな表情を浮かべるだけ。
「口にするのは、お前がちゃんと俺を好きになってくれる日までやめとく。せやから、その日が来るように……芽榴も意識してくれたら、それだけで今の俺は満足やから。……付き合わんでもええとか言っておきながら、これは反則やと思うけど」
聖夜はもう一度芽榴の頬にキスをして、芽榴をあやすように抱きしめる。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。琴蔵さんの、おかげで」
「そか。じゃあ……今日はこのまま、俺のことだけ考えて」
嫌なことを、全部忘れさせてくれるみたいな、聖夜の甘い香りが芽榴の体を包み込んでくれていた。




