#11
放課後になって、芽榴は颯に会うべく、A組へと向かう。
風雅とすれ違いにならないように、教室で勉強をしている舞子に風雅が現れたときの伝言は頼んだ。
A組に向かう足取りはとても重い。階段を一階分おりるだけだというのに、やけに遠く感じる。
そうして階段をおりて、A組に向かおうとすると、颯がちょうど教室から出てきた。
颯はこちらに足を向け、芽榴のことを視界に入れる。芽榴を見た瞬間、その顔は少しだけ歪んだ。
「……神代くん」
颯は芽榴から目をそらす。けれど、芽榴が自分に会いに来たことは分かっているのだろう。一息ついて、芽榴に視線を戻した。
「場所を変えようか。ここは人目につくから」
その声は優しいけれど、元気はない。
芽榴は颯の後ろについて、本棟へと向かった。
生徒会室は有利や来羅がテスト勉強をしている。だから颯は生徒会室ではなく、その近くの会議室へと向かった。
チョコを渡すだけだから、別に二人きりになる必要はない。
場所を変えたのは、颯も芽榴に何か話があるからだろうか。芽榴がそんなことを考えていると、颯が静かに口を開いた。
「僕には会いに来ないだろうなって、思っていたよ」
颯は自嘲気味に言って、芽榴のことを見つめる。対する芽榴は複雑な表情を浮かべた。
「私は、神代くんが会ってくれないかもしれないって、今の今まで思ってたよ」
でも颯は、芽榴のために時間を割いてくれた。今も本当は誰かからの呼び出しがあったのかもしれない。それでも、颯は芽榴を優先してくれた。
「芽榴にそう思われてもしかたのない態度をとっていたことは認めるよ。でも、僕はただ子どもみたいにすねているだけで、君を嫌いになったわけじゃないからね」
颯はぽつりと呟いて、芽榴のそばに歩み寄る。
視線は、芽榴の手にする手提げ袋に向かっていた。
「僕にも、くれる?」
まるで芽榴が渡しやすくするみたいに、颯はそう言ってくれた。芽榴が颯にチョコを渡すと、颯は彼らしく爽やかな笑顔で「ありがとう」と口にした。
芽榴からもらったチョコを愛おしむように見つめ、颯はゆっくり目を閉じた。
目を閉じたその顔はとても綺麗で、けれどとても苦しそうに見える。
「……彼にも、渡したんだよね」
芽榴は颯と喧嘩してまで、聖夜を放っておけないと答えた。
そんな彼に渡さないわけがない。そう告げるみたいに、颯は芽榴に尋ねてきて、芽榴もそれに頷いて答えを示す。
「神代くん、私ね……」
「琴蔵聖夜と付き合うことになった、なんて言わないよね」
颯は「言わないで」とでも言うように、悲痛に満ちた顔と声を芽榴に向けた。
付き合うことになったのかは、分からない。けれど否定するには、芽榴にとって聖夜の存在は特別すぎるものだった。
「神代くんと喧嘩するのは嫌だけど、でも私は……琴蔵さんのそばにいる。そう……決めたよ」
「……そんなの、付き合ってるのと一緒だろう?」
颯の顔を見ているのが辛くて、芽榴は颯から顔を背けた。
颯の大嫌いな人のそばにいることを、芽榴は選んでしまった。颯が一番嫌だったことを、芽榴は聖夜と約束したのだ。
「なんで……彼なの」
空気に溶けるように、颯の声が消える。
役員の誰でもなく、芽榴は誰よりも孤独な天下取りを選んだ。
「……神代くん」
芽榴が颯の名を呼ぶ。けれどそれと同時に、会議室の扉がノックされた。
「颯クン、芽榴ちゃんもいる?」
その声は、風雅だ。おそらく芽榴を探しに来たのだろう。
芽榴が息を飲むと、颯は扉の向こうに聞こえないように、小さな声で芽榴に告げた。
「風雅のことは、どうするの」
ずっと、芽榴のことを好きと言い続けている風雅に、答えを出さないまま、聖夜を選んだ。
その事実が罪悪感となって、芽榴に襲いかかる。
颯はそう問いかけて、芽榴の返事を聞かないまま、扉の向こうに返事をした。
颯との会話は中途半端になったまま、芽榴は自分を迎えに来た風雅と一緒に帰ることになった。
聖夜のことを選んだ今、この状況もよくないこと。
風雅に芽榴はちゃんと伝えなければいけない。
「芽榴ちゃんのチョコ、すっごく嬉しい! これもらうためだけに今日一日頑張ったんだよ」
それなのに、風雅の笑顔を見たら、何も言えなくなってしまう。
作り笑顔じゃない。心からの笑顔を、芽榴にだけはいつも見せてくれる。
芽榴がそう願ったから。だから風雅はその約束を守って、もう笑顔を繕うことをしなくなった。
芽榴のために、風雅は変わろうとしたのだ。
「大好きだよ、芽榴ちゃん」
何度も聞いた「好き」が、芽榴の心を壊してしまいそうなほどに苦しませた。
「……芽榴ちゃん?」
風雅の隣から芽榴が消える。立ち止った芽榴を数歩先で、風雅が立ち止まって不思議そうな顔で見つめた。
そして風雅は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、芽榴の隣に戻ろうと足を動かす。
「ごめん、なさい……蓮月くん」
「え?」
風雅の顔が一瞬で不安の色を帯びる。芽榴の大好きな笑顔を、芽榴は自らの手で簡単に消してしまった。
困惑した風雅の声も顔も、そのどれもが芽榴の心を苦しめる。
自分で決めたことなのに、聖夜を選べばこうなるとわかっていたはずなのに。
実際にその状況にならなければ、思いの重さに気づかない。自分の浅はかさを痛感して、そんな自分に嫌悪感しか生まれない。
「芽榴ちゃん、どうしたの? ……いきなり」
風雅の声を聞いたら、言葉がどんどん喉の奥に閉じこもっていく。
でも言わなければ、芽榴はただの最低な女の子。今でさえ、風雅を振り回しているだけなのに。
ちゃんと、言わなければならない。
「これから先も、私は……蓮月くんの気持ちには、答えられないよ」
もっと、風雅を傷つけない伝え方があったはずなのに。芽榴の口からは風雅の心をえぐるような言葉しか出てこなかった。
「あ、あはは。芽榴ちゃん、先のことはまだわからないよ。オレは芽榴ちゃんが答えてくれるまで、いつまでも待つ……」
「私、琴蔵さんのそばにいるって……決めたの」
その名前が出て、風雅の顔が強張った。
明確な理由を突きつけられて、かろうじて笑っていた風雅の顔から、完全に笑顔が消えた。
「何、それ……どういうこと?」
風雅はそう尋ねると、芽榴の答えを聞く前に、言葉を重ねた。
「芽榴ちゃんは、琴蔵聖夜のことが……好きなの?」
何よりもそれが気になったのだろう。
芽榴は一度もそんなことを口にしなかった。聖夜のことが好きなら、もっと早くに風雅のことを振っていたはずだから。
だからこそ、風雅は納得できない。
「……好き、だよ」
実感のない思いを、口にする。風雅が納得できるように吐いた嘘。
けれど風雅がその嘘に気づかないわけがない。
「好きな人がいたなら、芽榴ちゃんはもっと早くオレの告白を断ったでしょ」
「それは……」
「そんな嘘、聞きたくなかったよ」
風雅はそう言って、芽榴に歩み寄る。芽榴の肩を掴んで、風雅は顔を歪ませた。
「好きじゃないなら、なんで……オレじゃダメなの?」
当然の質問だった。
聖夜に抱く「好き」も、風雅に抱く「好き」もほとんど同じもの。
それなのに芽榴は、風雅の告白には答えられないまま、聖夜のたった一度の告白に答えを出した。
けれど、その理由は曖昧なようで、とても明白だった。
「蓮月くんは、私がいなくても大丈夫だから」
「な……っ」
「蓮月くんは強くなったよ。私は知ってる。ちゃんと見てたから。……それに、蓮月くんにはみんながいる」
そんな言葉で、風雅が納得しないことも分かっていた。
風雅は芽榴にしがみつくようにして、芽榴の胸に顔を埋める。鼻にかかった声が切なくて、芽榴の心を締めつけた。
「イヤだよ、芽榴ちゃん。オレ……そんなの、納得できない」
「ごめん、蓮月くん。でも決めたの。私は、琴蔵さんのそばに、いてあげたい」
「なんで……っ」
どうして、こんなに聖夜のそばにいてあげたいと思うのだろう。
風雅を傷つけて、颯を怒らせてまで。
考えれば考えるほど、その気持ちは強くなる。
聖夜が孤独だから、支えてあげたい。聖夜が力になってくれたように、芽榴も聖夜の力になりたい。
でも何よりも、いつだってつまらなそうにしている聖夜を、笑顔にしてあげたいと思うのだ。
芽榴が聖夜を笑顔にしてあげられるのかは分からない。
けれど芽榴にできるなら、そうしてあげたい。芽榴がいることで聖夜の見る世界が少しでも色づいてくれるなら。
「ねぇ、芽榴ちゃん。オレは……オレだって、芽榴ちゃんがいなきゃダメになっちゃうよ」
「……蓮月くんは大丈夫だよ。ちゃんと、変われたから」
「オレは……芽榴ちゃんのために、変わったんだよ。芽榴ちゃんがいなきゃ……」
それでも風雅の気持ちには答えられない。
それくらい、聖夜のそばにいたいという気持ちと、聖夜を大切にしたいという気持ちが、芽榴の中にはあった。
「琴蔵さんは、私のこと何度も助けてくれたから……今度は私が助けてあげたいの」
その言葉を言ってはいけないことも分かっていた。
芽榴を誰よりもひどく傷つけてしまった風雅に、それを後悔している風雅に、そう告げてはいけないと、分かっていたのに。
「ごめんね……蓮月くん。蓮月くんのこと、振り回して……。私の方が、たくさん蓮月くんのこと、傷つけたよ」
「……たくない」
風雅の涙が、アスファルトの地面に落ちる。掠れた声は白い息とともに消えていく。
「聞きたくないよ。……芽榴ちゃん」
「蓮月くん」
「オレは、芽榴ちゃんのことが好きだよ。そんな、同情みたいな気持ちであの人を選ぶなら……オレのこと、選んでよ……」
芽榴の肩を掴む力はとても強くて、痛いくらいに風雅の想いを伝えてくる。
「もう絶対に、芽榴ちゃんのこと傷つけない。いっぱい笑わせるし、今度は守るって約束するから……だから」
芽榴の想像もできないくらいに強く深く膨らんでしまった愛情。
「オレの気持ちも、拒まないで」
芽榴には重すぎて抱えきれない愛情を、風雅はずっとぶらさげたまま手放すこともできずに、立ち止っていた。
そうさせたのは、芽榴。風雅の気持ちを放って、そばにいて。全部、芽榴のせい。
「ごめんなさい」
曖昧な返事はもうできない。
芽榴の返事を聞いた風雅は、言葉にならない声を漏らして、芽榴に背を向けた。
嫌いになってほしくはない。けれどいっそ嫌いになってほしいと思うほどに、風雅の後ろ姿が芽榴の心をボロボロにしていた。




