01 生徒手帳と飴玉
そして、そのときはやってきた――。
ある朝のこと。芽榴は校門をくぐり、靴箱に辿り着く。高等部2年の棟の一階には300人分のロッカーが存在する。自分のロッカーに行き、上履きとローファーを入れ替えた芽榴は廊下に見知ったものが落ちているのを確認した。
「生徒手帳……。なんでここに落とす?」
靴箱の前の廊下にポツンと落ちている紺色のカバーのそれを見て芽榴は呟く。ポケットから何かを取り出す際に落ちたのか。少しだけ考えて芽榴はそれを拾い上げた。
「届けなきゃだよねー……」
そう言いながら生徒手帳の一ページ目を開く。しかし、芽榴は開いてすぐにそれを閉じた。
「うん、置こう。置き直そう。そしたら誰かが拾うはず」
「朝から何を一人でブツブツ言ってるのよ?」
後ろから声をかけてきたのは舞子。芽榴はハッとして「なんでもないよー」とヘラっと笑うが、持っている生徒手帳を奪われてしまう。
「生徒手帳? 落ちてたの?」
「うーん。たぶん、わざと置いてるんだよ。だからそこに置いて、さぁ行こう。教室へ」
芽榴が滅茶苦茶なことを言う理由を察した舞子は生徒手帳を開いた。
「『蓮月風雅』……ね」
舞子は手帳の持ち主の名前を読み上げ、一つため息をはくと、それを芽榴に放り投げた。
「拾ったものは届けなさい」
「え、ヤダ。舞子ちゃんが代わりに行ってよ」
芽榴の記憶が正しければ、舞子はかのイケメン蓮月風雅を見て他の女子同様うっとりとした顔をしていたはずだ。つまり、風雅に手帳を持っていくことを嫌がるはずはない。そう思って渡してみたものの、腕ごと突き返された。
「拾ったのはあんたでしょうが」
「だからもう一回落として……」
突き返された手帳を元あったところに置きなおそうと芽榴がそちらに足を向けると、今度は腕を引っ張られた。舞子に「芽榴」と少し強い口調で名前を呼ばれ、芽榴は固まる。
「行け」
「……ハイ」
舞子の圧力に負けた芽榴は頷くしかなかった。
手帳の持ち主、蓮月風雅のいるB組に赴いた芽榴は中をチラッと覗く。目的の人物を見つけ、それと同時にため息がでた。なぜならその人物は――。
「風雅くぅん、今日の髪型どう思う?」
「あー、巻いたんだ? 似合ってるよ」
「え、本当ー? 嬉しいっ」
「風雅くん、あたしはー?」
ピンクオーラを漂わせる女子に囲まれる風雅。芽榴が届け物を拒んだ最大の理由。
そんな彼に直接渡しに行くのは阿呆のすることで、芽榴は近くにいる男子を呼び止めた。
「あのー」
「ん、何?」
「蓮月くんに渡しておいてほしいんだけど……」
そう言って芽榴がポケットの中から手帳を取り出そうとすると、目の前の男子がそれを制した。
「マジそういうの勘弁。自分で渡したほうがいいよ」
何を勘違いしたのか、心底嫌そうな顔をして男子は後ろを振り返る。
「おーい、蓮月! お前に用だって」
その声は教室全体に響き渡るもので、芽榴は予想外のことに目をパチクリさせていた。教室中の視線が芽榴に集まる。風雅の周りにいる女子からの視線は痛いくらいだ。
「オレにー? 誰?」
囲んでいる女の子たちの隙間から風雅は芽榴のことを見る。芽榴が軽く頭を下げると、風雅は周りの女子に申し訳なさそうに笑いかけた。
「ごめんね、ちょっと行って来る」
「えー、行っちゃうのー?」
「早く戻ってきてよぉ?」
「うん。本当ごめんね」
風雅はブーイングする女子を掻き分けて芽榴に歩み寄った。
「えっと、オレに用?」
芽榴の正面に立つ風雅がニコリと笑う。風雅の背後で睨みつける女子の視線が怖い芽榴は早く切り上げようと目的のものを渡した。
「え? これオレのじゃん! どこにあったの?」
「靴箱の前の廊下に。拾ったんで届けました。それでは失礼します」
芽榴は棒読みで告げると、自分の教室に足先を向けた。しかし、風雅から「ちょっと待って」と制止の声がかかり、面倒そうに芽榴は振り返る。
「……なに?」
「あの、ありがと」
「あー。いえ」
再び自分の教室に向けているほうの足に体重をかけたが、風雅の話はまだ終わっていなかった。
「えと、お礼に何したらいい?」
「は?」
芽榴の頭上には目に見えるくらいの大量のハテナマークがついていた。
「お金でも挟んでたんですか?」
「……え? どうして?」
「いや、生徒手帳届けただけでお礼って意味不明だから。何か大事なものでも挟んでたのかなーって」
何も挟んでいなかったはずだが、と思案する芽榴に風雅の瞳が大きく揺れた。
「女の子ってお礼欲しがるから、キミもそうなのかと、思ったんだけど……」
「あー……」
そこで芽榴はクラスの女子がこの間騒いでいたのを思い出す。確か彼女は風雅に手作りの何かをあげたらお礼にハグをしてもらったらしい。興味がなくてあまり深く考えていなかったが、おかしな話だと今は思う。そして自分もミーハーに見られていたのかと思うとさすがの芽榴もいい気はしなかった。
「別に何もいらない」
「え?」
「風雅くん、まだー?」
話がいまだに続いていることに痺れを切らした風雅ファンの声がとんだ。
「すぐ戻るって言ったじゃぁん」
「そんな地味な子よりあたしたちと喋ろうよー」
「地味……」
確かに芽榴は化粧もしていないし、髪の毛も無造作な肩までの黒髪だが、地味ではない。どちらかといえば風雅ファンである彼女たちの姿形が華美すぎるのだ。
「ごめんね、もう戻るから!」
風雅は後ろを振り返り、顔の前で手を合わせる。片目を瞑るようにして謝れば女の子たちは目をハートにして大人しくなった。
「なんか魔法みたい……」
「ごめんね、たぶん悪気はないと思うから」
風雅はそう言って苦笑する。その顔からもそれが事実でないことは察しがつく。
「あ、そーだ」
「ん?」
風雅は相変わらず笑顔のままだ。その顔を見ていた芽榴は思うところがあったのか、何かを思い出したように白いプリーツスカートのポケットを探る。
「はい」
「……何、これ?」
芽榴が風雅に手渡したのはただの飴玉だった。
「飴」
「それは分かるんだけど…」
「私にまで気を遣わせたみたいだし。それ結構美味しいよ?」
「へ、へぇ……。でも、ありがと」
風雅はニコッと笑う。それは本当に絵にかけそうな笑顔で、つまりは張り付いている笑顔だった。
「その顔、甘い物でもなめたらもうちょっとマシになると思うよー?」
「……!」
「あの子たちが待ってるんでしょ? それじゃあ」
芽榴が背中を向けると、風雅の手は自然と芽榴を掴んでいた。
「まだ、何か?」
「名前」
「え?」
「名前! 教えて?」
芽榴の腕を握る手に力がこもる。芽榴は首を傾げながら口を開いた。
「楠原」
「下は?」
「……芽榴、だけど」
「楠原、芽榴……」
芽榴から教えてもらったその名前を復唱する風雅に「用がないなら離してください」と芽榴は困ったように目を細める。
「本当ありがと。芽榴ちゃん」
腕は自由になったが、いきなり名前で呼ばれ、芽榴は眉間にシワを寄せる。しかし、再び後ろから風雅を呼ぶ声が聞こえたため、芽榴はそれに対して突っ込むのを諦めて、今度こそ自分の教室へと帰って行った。
「蓮月くん、最近よくその飴を食べてますよね」
生徒会室で飴をなめながら書類にサインをする風雅に有利が尋ねる。
「え? 有利クン、なんで知ってんの?」
「僕のクラスの女子が『これ風雅くんが最近いつもなめてるのー』と言ってるのをよく見かけるので」
「へ、へぇ……」
ほぼ無表情で女子のモノマネをする有利に突っ込みづらい風雅は苦笑いする。
「美味しいんですか? それ」
有利が問いかけると、風雅の口の中で飴がカランと鳴った。
「うん。最高」
風雅はその飴を一番最初に手にした時のことを思い出してクスッと笑う。風雅が本当に嬉しそうに笑うので、有利はその飴が余程美味しいのだな、と思った。
「仕事中は神代くんに怒られない程度に食べてくださいね」
「さすがに鬼皇帝も飴は怒らないっしょ」
「僕が何?」
生徒会室に戻ってきた颯がニコリと笑う。その笑みの危険さを知っている風雅は即座に顔を青くした。
「は、颯クン! な、何でもないよ!?」
「風雅。追加」
そう言って颯はどこから取り出したのか、大量の書類を風雅の目の前に置く。泣き叫ぶ風雅に罪悪感を覚えた有利はその半分を手伝ったらしい。
ちなみにその時の芽榴はお気に入りの飴がどこのコンビニでも売り切れていてイライラしていたのだった――。