#09
『聖夜の気持ちに答える気が一切ないなら、もう聖夜に会うな』
家に帰った後も、芽榴はずっと慎の言葉を思い返していた。
「答えるも何も……琴蔵さんに何か言われたわけじゃ……」
けれど「ない」とは言いきれなかった。そういうふうに考えてみれば、似たようなことを言われたことも、誤魔化されたことも、たくさんある。
「……会わないほうが、いいのかな」
複雑な気持ちのまま作ったチョコも、自分で味が分からなくて、真理子に確かめてもらう始末。
こんなものなら、あげないほうがいい。
会わない理由を無理やり探しあてて、自分にそう言い聞かせて、芽榴は聖夜に借りた携帯を手に取っていた。
自分からかけるのは、これがはじめて。
数回のコールの後、通話が繋がる。一番最初に聞こえたのは驚きで喉に詰まったような、聖夜のかすれた声だった。
『どないした? お前からかけてくるって』
「お忙しいところすみません」
『ええよ、ちょうど電話しようと思うててん。で、どした?』
聖夜の優しい声を聞いたら、さっきまで頭に浮かべていた言葉が全部頭の隅に消えていく。
「あの……明日」
『ああ。何時頃くる? 迎え行くで』
「それ、なんですけど……チョコ、失敗しちゃって」
『……へぇ、お前でも失敗とかするんや。でも俺ん家で作ればええよ。てか、別にチョコなくてもええし』
「え」
思わず声が出てしまう。もう芽榴に断る口実は残されていない。
そしてそんな芽榴の動揺は瞬間的に、聖夜にも伝わっていた。
『俺に会いたくない、とか言わんやろ』
まるで冗談を言うみたいな、軽い気持ちで紡がれた言葉だった。聖夜もきっと「違いますよ」と芽榴が困った声で答えるのを待っていたはずだ。
けれどそれが図星で、芽榴はその場ですぐに嘘を取り繕うことができなかった。
『……は? ほんまに?』
「えっと、会いたくないとかじゃなくて、その……」
『今から行く』
「え?」
『今からお前の家に行く』
聖夜の低い声が静かに耳に届く。前回も本当に会いに来たくらいだ。このままでは、聖夜は本気で家に来る。芽榴は慌てて、聖夜を止めていた。
「も、もう、遅いですから」
時刻は前回、聖夜が来た時よりもはるかに遅い。夜中にやって来るのは、さすがに重治たちに迷惑。そう考えたのか、聖夜は舌打ちをして、今から動くのは取りやめてくれた。
『明日、迎え行く。お前が俺の家来るの嫌やって言うなら、お前の家でもええから……とにかく俺に会え』
芽榴に拒否権はない。数分前の自分の愚かさに、芽榴は頭を抱えてしまう。
何の言い訳もできないまま、通話は切れてしまった。
「何やってんだろ……私」
電話で言っていた通り、次の日の昼前に、聖夜は付き人の車で芽榴を迎えに来た。
早朝に、ちゃんと一言『11時ごろ迎えに行く』というメールが送られてきていて、芽榴もそれにあわせて準備はしていた。
車内で、聖夜は何も言葉を発さず、芽榴とも目を合わさなかった。不機嫌に窓の外を見ていて、その姿は出会った頃の聖夜と、少しだけ雰囲気が似ていた。
数十分して、やっと聖夜の部屋についた。
「おじゃまします……」
とてつもない気まずさの中、芽榴は聖夜に導かれるように部屋の中に入る。
そして、芽榴が部屋に入った瞬間、すぐに聖夜は部屋の鍵をガチャリと閉めた。
「え……」
「なんや。いつも閉めとるやろ」
たしかにいつもそう。でもいつもなら、もう少し間がある気がした。考えすぎと言われれば、そうなのかもしれない。
気まずさのせいか、慎の言葉のせいか、いつもより聖夜のことを意識しているのは、事実なのだ。
「昨日の電話もそう。急に変やで、お前」
聖夜は眉を寄せて、芽榴の肩に触れる。玄関の壁に芽榴の背中が当たった。
「……すみません。本当に、なんでもないので」
「なんもないわけあるか」
聖夜に少し肩を揺らされて、芽榴の視線が聖夜の視線と絡む。聖夜の顔が思ったよりも近くにあって、芽榴は咄嗟に顔を背けてしまった。
「は? ……ほんまに、なに? ……今さら、おかしいやろ」
本当に、今さらだ。
今までだって、聖夜とこの距離感で過ごしたことはある。
それなのに、今になって意識して、恥ずかしくなって、そんな自分が気持ち悪い。
赤くなる顔をどうもできずに、芽榴は下を向いたまま唇を噛んだ。
「……慎に、何か言われたか?」
それしか思い当たらなかったのだろう。少し考えれば、分かること。
芽榴の聖夜への態度を変えることができるとすれば、聖夜の知る限り最も妥当な人物は彼しかいない。
その質問に対して、芽榴は何も答えない。今はもう、何を答えても、ろくなことにならない気がしていた。
「なあ、芽榴……」
そんな芽榴を助けてくれるみたいに、聖夜のスマホが鳴った。
仕事の電話のようで、聖夜もそれを無視することはできず、芽榴から離れてスマホを耳に当てる。
その隙に、芽榴は玄関からリビングのほうへと逃げるように移動した。
移動したところで、ここは聖夜の部屋。今の芽榴が気兼ねなくくつろげる場所などない。
聖夜が戻ってきたら何を話せばいいのか。そんなことを考えながら、芽榴はふと部屋の隅に視線を止めていた。
廃棄するように紐でまとめられた書類の山と、その隣に同じように積み重ねられた質の良い台紙があった。
勝手に見るべきものではないと分かっているのに、体は勝手にそちらへ動いていた。
『お見合い話はたくさんきてる』
昨日の慎の言葉が頭をよぎる。
乱雑に積み重なった台紙の1つを手に取って、ゆっくりと開いた。するとそこには、芽榴の予想通り、綺麗に着飾った可愛らしい女性が写っている。
この下に積み重なっているものも全部、お見合い写真。
「……見合い写真なんて、別に珍しいもんちゃうやろ」
電話を終えた聖夜が、リビングに来ていた。
聖夜は忌々しそうに、芽榴の手にするお見合い写真に視線を向ける。
芽榴へと歩み寄って、聖夜は芽榴からその写真を奪った。
「……綺麗な人ですね」
「知らん。まともに写真見てへんし」
聖夜はそっけなく答え、尚も興味がないと言うように、お見合い写真を元の山に戻した。
「でも、本家の人に催促されるんじゃ……」
「ああ。せやから、ギリギリまで粘っとる。ええ加減、ワガママ突き通せんようなってきとるから、そろそろほんまにハッキリさせなあかんのやけど」
聖夜は静かに言って、芽榴のことを見下ろした。
芽榴の一連の言動に対して怒っているはずなのに、それでも芽榴へ向ける視線は優しい。
「慎に、何言われたん」
「……何も」
「俺とのこと、ハッキリさせろとか、言われたんとちゃうか?」
芽榴はその問いかけからも逃げるように、聖夜から視線をそらす。けれど聖夜は言葉を続けることもせず、芽榴の返答を待っていた。
苦しい沈黙に、耐えられなくなったのは、芽榴のほうだった。
「……ハッキリさせるようなことなんて、何もないじゃないですか」
今ならまだ、聖夜の気持ちに気づかないふりをしていられる。慎から告げられて、聖夜の態度を思い返して、今ここで相対して、もう痛いくらいに聖夜の思いに気づいているくせに、芽榴はまだ逃げ道を探していた。
「私と琴蔵さんは、ただの……」
「好きやで」
聖夜は、その逃げ道を簡単に塞ぐ。
何の躊躇もなく、当然のことみたいに、聖夜は芽榴に告げた。
新鮮な言葉のはずなのに、もう何十回も聞いてきたかのように、その言葉が耳に馴染んでしまう。
「俺は、お前のことが好きや。もうずっと、お前以外見とらんよ」
聖夜に手を引かれ、芽榴は彼に抱きしめられていた。
「せやからお前が振り向いてくれる可能性がまだ残っとるんやったら……俺はギリギリまでお前を待つよ。どんなに苦しくても、辛くても、お前のためならかまわへんよ」
聖夜の思いがまっすぐに伝わって、芽榴の胸がしめつけられる。慎がわざわざ忠告しにきた理由も今なら分かる。
このままでは、芽榴が聖夜を引き止めて、前に進めないようにしてしまう。
「そんなの……ダメですよ」
「なら、俺のものになって」
聖夜の手が頰に触れ、聖夜の顔が近づいてくる。
自分が何をされるのか、本能的に身体は察知して、芽榴は咄嗟に自分の唇を両手で塞いでいた。
「……っ」
聖夜の口から微かに声が漏れる。言い表しようのない、何かを飲み込むような、声。
キスを拒絶した芽榴は、聖夜の顔を直視できなかった。
「そんなに、俺は嫌か?」
聖夜の静かな問いかけに、芽榴は首を横に振った。
芽榴の本当の気持ちは、また曖昧に聖夜を縛りつけるだけ。そう分かっているけれど、芽榴は聖夜に伝えていた。
「琴蔵さんのそばに、いてあげたいって……私は味方でいようって、思うんです。でもその気持ちは、たぶん好きとは違うんです」
ずっと芽榴にとって聖夜は「頼りになる友人」。昨日の今日で、すぐに自覚できる思いなどない。
これから意識して好きになることはあるかもしれないけれど、今はまだ、その気持ちからは遠い。
「なら、好きやなくていい」
予想外の言葉に、芽榴のガードが緩む。
その隙を見て、聖夜は口を塞いでいた芽榴の手を掴んで、そのまま芽榴にキスをした。
「え、やっ、琴蔵、さ……っ」
抵抗したいのに、うまく力が入らない。否、おそらく抵抗する気がほとんどないのだと、芽榴は自分で分かっていた。
本気で嫌なら、押しのけることも、唇を噛むことも、なんだってできたはずだから。
聖夜から無理やりされたキスが、嫌ではなかった。
「そばに、おって」
唇が離れる瞬間、聖夜は息を吐くように告げた。
「お前がこれから先もずっと俺のそばにおってくれるって約束するんやったら、たとえお前が俺と同じ気持ちやなくてもかまわんよ」
聖夜の顔は苦しげに歪んでいる。
泣いてはいないけど、今にも泣き出してしまいそうなくらいに声が震えている。
「お前が俺と付き合うのが嫌って言うんやったら、付き合わんでええよ。それでもずっと俺のそばにおってくれるんやったら……俺はもう、それ以上は望まへんから」
芽榴の手を握る力が強すぎて、痛いくらい。
「好きやなくていい。好きになれとも言わんから……。俺のそばにいてあげたいって、そう思うんやったら……ずっと俺のそばにおって。絶対、大事にするって約束するから」
これほどの気持ちをぶつけられて、断れるはずもない。
「お前も俺に、約束をくれ。ずっと、俺のそばにおるって」
ずるいかもしれない。
けれど、そばにいたいという、その気持ちだけで許されるなら。芽榴は、小さく頷いていた。
芽榴の答えを見て、聖夜は大きく目を見開く。
そして嬉しそうに、ゆっくり目尻を下げた。芽榴以外、誰も拝めないような幸せそうな顔をして。
「ああ……ほんまに、好き。夢なんやないかって怖なるわ」
好きとは違う。けれど、幸せそうな聖夜の姿を見れたことを、芽榴は嬉しいと思っていた。




