#04
芽榴は聖夜の手を握ったまま、ベッドに伏せて眠っていた。
座って眠っていたため、爽やかな目覚めとは言い難い。起こしたままでいた上半身が少しだけ窮屈で、肩も少しだけこっていた。
「……気持ちよさそう」
繋いだ手からたどるように、聖夜の顔を見た。
スヤスヤと安心したように眠っている。気持ちよさそうに眠る聖夜はいつもよりほんの少しだけ幼く見えた。
その姿を見てしまったら、残っていた体の疲れも一気に吹き飛んでいく気分だった。
「ごめんなさい。……そろそろ離しますね」
しっかり握られていた手をゆっくり引き離す。聖夜を起こさないように動かしたのだが、芽榴の手が離れると、聖夜が小さな唸り声をあげた。
「ん、ううっ」
しかし起きることはなく、聖夜はまた静かに寝息を立てた。
聖夜がちゃんと眠っていることを確認し、芽榴は静かに部屋を出て行った。
いつもより早く目が覚めてしまったため、朝の時間はたっぷりある。
今は芽榴の留学に備えて、重治が朝食作りの練習もしているけれど、今日くらいは芽榴がして問題ないだろう。
それに、今日は聖夜がいる。少しだけ、いつもより豪華な朝食にしてもいいかな、などと考えながら芽榴は冷蔵庫から食材を取り出した。
聖夜の普段の朝食はどんなものだろうと想像しながら、芽榴はサクサクと小気味いい音を立てて野菜を刻む。
一人暮らしの聖夜の家に使用人が料理を作りに来ることもあるだろう。けれどなんとなく、聖夜は適当な朝食で済ませてる気がした。
だから、というわけでもないが、今日くらいはしっかりしたものを食べてほしい。そんなことを思いつつ、芽榴は鍋を取り出した。
「うん、上出来」
作ったお味噌汁の味見をする。美味しくできて満足していると、階段を下りてくる足音が聞こえた。
「おはようございます、琴蔵さん」
そのままキッチンにやってきた聖夜に、芽榴は笑顔であいさつをする。すると聖夜は芽榴のエプロン姿をまじまじと見つめながら、芽榴にあいさつを返してくれた。
「……こんな早うから料理しとるんか?」
「いつもは今くらいの時間に起きてますよ。今日は早く目が覚めたので」
「眠れんかったか?」
聖夜が心配そうな顔で芽榴の顔を覗き込む。
「俺がベッド占領してもうたし……ほんまに悪い」
「いえいえ、違いますよ。私のほうこそ、部屋の灯り消せなくてごめんなさい。寝苦しくなかったですか?」
芽榴が気遣うように尋ねると、聖夜は「大丈夫や」と柔らかい表情を見せた。
「自分の部屋で寝るよりぐっすり眠れて、むしろびっくりなくらいやわ」
「あはは、ならよかったです」
芽榴はそう答えながら、少し背伸びをして聖夜の額に触れた。
「熱、少し下がりましたね」
「たいしたことないて言うたやろ?」
今日は顔色もいい。ゆっくり休めたということなのだろう。それが伝わって芽榴は安心したように頬を緩めた。
そうして芽榴が料理を再開すると、芽榴の横から乗り出すようにして聖夜が鍋を覗き込む。
「味噌汁?」
「はい。……もしかして、苦手ですか?」
「いや、そういうわけやないけど。久しく和食は食ってへんから」
興味津々な様子の聖夜に、芽榴は味噌汁を少しお椀に注いで手渡した。
「味見してみます?」
芽榴から小皿を受け取って、聖夜はゆっくりと喉に流し込む。味を堪能して、彼は深く息を吐いた。
「うまい。……朝食、俺も一緒してええの?」
「琴蔵さんが嫌じゃなければぜひ。食卓はそんなに大きくないですけど」
「かまわんよ、そんなん。……こんなうまい朝飯食えるだけで、かなり嬉しい」
つぶやくように言って、聖夜はまた味噌汁を飲む。
お椀の中を綺麗に空にした後も、芽榴の傍に立ったまま、聖夜は芽榴の料理をしている姿を眺めていた。
「まだ時間ありますし、部屋で寝てていいですよ?」
「なんか、おもろそうやし……お前が料理してるとこ見ときたい」
「何も面白くないと思いますけど」
とはいえ、ちゃんと掃除していたわけでもないため、自分の部屋にいろと堂々と言うこともできない。聖夜がいいと言うのだから、このままそこにいてもらうことにした。
「寝癖ついとる」
「まだ私も顔洗っただけなんです。……あんまり見ないでください」
聖夜が芽榴の髪をいじって楽しんでいる。
まだ着替えてもいなければ、髪も整えていないみすぼらしい姿のため、近距離で上から下までチェックされるのはなんとも気恥ずかしい。
「お前は、普通にかわええよ」
まだ寝起きで頭がボーッとしているのか、聖夜がそんな言葉を告げる。
芽榴が困り顔で聖夜を見上げると、キッチンの入り口の扉がノックされた。
「ゴホン……いいところ邪魔して悪いが、入ってもいいか?」
重治が気まずそうに笑いながら問いかけてくる。
芽榴と聖夜の会話をいつから聞いていたか分からないが、おそらく直前のやりとりは聞かれているだろう。
芽榴は恥ずかしさに顔を赤くするが、聖夜は平然とした様子で重治に頭を下げた。
「おはようございます。泊まらせていただいたおかげで、体調も良くなりました。……ありがとうございます」
しっかりと外向きの顔であいさつをする。芽榴と2人きりで話していたときとは、がらりと空気を変える聖夜を見て、重治は複雑な顔をして笑った。
朝食を食べ終えて、芽榴と聖夜はそれぞれ支度を済ませる。
芽榴が学校に行くのと一緒に、聖夜も家へ帰るということになっていた。
「あれ、圭。もう行くの?」
芽榴が身支度を済ませて一階に下りると、圭は玄関で靴を履いていた。
「え? あ、ああ。早めに行って練習でもしようかと」
圭は取り繕うように言ってくる。いつもは芽榴と一緒に登校するのに、今日に限って不自然だ。圭がそんなことを言い出す理由に思い当たって、芽榴は眉を下げた。
「……琴蔵さんと一緒だから?」
「そういうわけでは……あー、いや、うん。……そう、です」
圭は申し訳なさそうに言って芽榴に「ごめん」と手をあわせる。
「緊張する、ってのもあるんだけど……その、邪魔するのも嫌だし」
「……邪魔?」
芽榴が「なに言ってるの」とでも言いたげに首をかしげると、圭が大きなため息を吐いた。
「芽榴姉、あの人と付き合ってるんだろ?」
圭が芽榴の耳元に唇を寄せて、小声で訪ねてくる。
目をパチクリさせて数秒、芽榴は「違う!」と大きな声を出した。
「なんでそうなるの」
「違うの? だって、昨日芽榴姉、あの人とずっと一緒にいたんだろ」
「……いた、けど」
「それで付き合ってないの?」
芽榴が頷くと、圭は驚いた顔をする。
たしかに付き合ってもいない人と一日中一緒の部屋にいたのは問題かもしれない。
けれど聖夜は病人で――そんなふうに頭の中で言い訳していると、妙にくすぐったい気分になって、芽榴の顔がボッと赤くなった。
「……でもまあ、とりあえず今日は、俺先に行くね」
圭は優しい顔で言って、出て行った。
圭との会話に焦って、ドッと疲れが押し寄せてくる気分になりながら芽榴はリビングに向かう。
すると着替えを済ませた聖夜が紳士的な笑みを浮かべながら真理子と話をしていた。
「……あ、芽榴ちゃん。準備できたの?」
「うん。何か飲む?」
芽榴が真理子と聖夜に尋ねながらキッチンのほうへ向かおうとすると、真理子がサッと立ち上がった。
「芽榴ちゃんは、聖夜さんとお喋りしてて」
「聖夜さん?」
呼び方がかなり親しげになっている。真理子はこの短時間でかなり聖夜と打ち解けたらしい。さすがというか、芽榴は真理子に感心する。
「でも何か飲み物……」
「私が用意するから! 飲み物くらいなら私でも大丈夫!」
真理子は意気込んでそう告げると、芽榴を聖夜のほうに押し出した。
「わわっ」
「大丈夫か?」
芽榴が倒れこむようにカーペットの上に座り込むと、聖夜が芽榴を支えるように向きを変えた。
ギリギリ聖夜の胸に飛び込まずに済んだが、聖夜との距離をとるために、芽榴は体を少しだけ引く。
「大丈夫です。……今、お母さんが飲み物用意するんで」
「んな気遣わんでええのに」
「いえいえ。行くまで時間あるときはいつも何か飲みながらお喋りして時間潰してるんですよ。むしろ、お母さんの話し相手になってくれてありがとうございます」
「別に。……愉快な人やな」
聖夜は嫌味のない声で言って、向こう側で鼻歌を歌いながら飲み物を用意している真理子を見つめる。
芽榴は同意するようにクスクス笑いながら頷いた。
「なんか、ええな。……こういうの」
「こういうの?」
芽榴は首を傾げながら尋ね返す。すると芽榴の髪がはらりと揺れて、肩から滑り落ちた。その髪を触りながら、聖夜は薄く笑みを浮かべる。
「朝からお前と話して……お前の作ってくれた料理食べて……こんなふうにのんびりして……毎日こんなんやったら……ほんまに幸せやろうなって」
冗談でもからかうつもりでもなく、真剣な顔で聖夜は告げる。しみじみと今の幸せを噛み締めるように言われて、芽榴も自然と笑っていた。
「毎日にうんざりしたら、ちゃんと連絡してください。……今度は私が会いに行きますから」
そう言って、芽榴は聖夜の手を取った。
「だから、あんまり1人で抱え込みすぎないでくださいね」
芽榴がお願いすると、聖夜は目を見開く。
芽榴の手をギュッと握りしめて、聖夜はゆっくり頷いた。
「約束する。……せやから、お前もちゃんと会いに来て」
焦がれるように、芽榴の髪を撫でて、聖夜は目を伏せた。
もはや、夫婦。




