30.5 天下取りと憂鬱
体育祭が終わり、理事長と校長が門の前まで東條を見送りにきた。
「東條様。本日はお忙しい中、お越しいただき誠にありがとうございました」
「いえ。今回は私的訪問ですからお気になさらず」
東條は軽く頭を下げ、校舎を見上げた。
「本当にいい学校だ。特に生徒会役員は噂に耳にしていましたが、それぞれ個性をもっている。将来が楽しみですね。実に我が社に欲しい人材ですよ」
東條が薄く笑うと、理事長たちも目を輝かせていた。
学園に背を向けた東條は運転手に扉を開けられ、リムジンに乗り込もうとする。しかし、その体が一瞬止まった。
東條は溜息をつくと、そのまま車に乗り込んだ。
「すまなかったね、琴蔵くん」
東條は座席に座るや否や、そう言った。
運転席と遮断された広々とした後部座席には東條以外にすでに先客がいた。
「社長。楽しかったですか? お遊戯会は」
目を眇めて男は言った。
彼の名は琴蔵聖夜。
ワックスで軽くセットされた漆黒の髪やスーツ姿は、彼を20代くらいに思わせるが、彼の年齢はこの学園にいる生徒と変わらない。たったの17歳だ。
「僕との予定を捨てるくらいですから、よっぽどのことかと思ったら……」
聖夜の瞳がギラリと光った。
聖夜は世界三大株主と称される琴蔵財閥の一人息子だ。東條グループのバックにつき、融資等をしているのも琴蔵財閥だ。そして彼は琴蔵財閥の権限をすでにある程度受け継いでいる。
要するに、今このリムジンには日本を掌握する二人が乗っているということになるのだが。
今日、東條と聖夜は今後のグループの契約について話し合う予定だったのだ。
そんな大事な予定を急遽キャンセルしてまで赴いた場所が麗龍学園の体育祭となれば、聖夜の怒りももっともだ。
「でも、こういう行事に取り組む姿勢というのは大事だ。彼らの将来の姿というものが反映される。今日は噂の麗龍学園のエリートというものがどういうものかを見て来たまでだよ」
「へぇ。予定を覆してまですることですかね……?」
東條の言い訳を全く信用していない。あからさまに聖夜はそういう態度を示した。
「まぁいいですよ。会議は来週にでも」
聖夜はそう言って座席のシートにもたれた。
やっと落ち着けた東條は今日の出来事を思い返していた。
久々に見た愛しい子は自分を見てどう思ったのだろうか。どんな思いであんな挨拶をしたのだろうか。
あの時、東條は学園に赴いたことをすごく後悔した。
無神経すぎた、と。
怪我をして倒れたときも驚いて立ち上がりそうになった。
しかし、楽しそうに笑う彼女の姿を見たら全身の体の力が抜けて行った。
亡くなった妻、榴衣と同じ笑い方だったから。
東條はそれだけで満足だった。あの子に嫌な思いをさせたかもしれない。無責任だが、それでもあの顔が見れたことは東條にとって十分すぎる価値があった。
久しぶりにあの子の勇姿を見れたのだ。会いにきてよかった、と一瞬で東條は思ってしまった。
「琴蔵くんは……ラ・ファウスト学園に通っているんだったか?」
突然振られたせいか、聖夜はすぐには答えなかった。聖夜は咳払いをして「はい」とだけ言う。
「ラ・ファウスト学園でもトップに立っているんだろう?」
「もちろんです。まぁ、社長もご存知の通り、あの学園の場合はお金がすべてですから。上下関係は貧富で決まりますよ。つまり、僕がトップに君臨するのは自然の流れです」
頬杖をつき、聖夜はつまらなそうに言う。彼から感じる威厳は確かだが、さっき見ていた学生たちのような覇気は感じられない。彼はどこか空虚だ。自分に似ていると東條は思った。
東條と聖夜の会話がそれ以上続くことはなく、沈黙のまま時間は過ぎて行く。
何時間か経って車は止まった。
中世ヨーロッパの宮殿を思わせる造り、そして広大な敷地面積を誇るラ・ファウスト学園の前だ。初等部から高等部までが隣接しているマンモス校、麗龍学園よりも広い。少なくとも視界に入る限りは学園を囲う塀だ。
「学園? 家まで送らなくていいのかい?」
「学園で人を待たせていますから。では、失礼します」
聖夜は適当に挨拶を済ませてリムジンから出て行った。少しの名残も感じさせない様子だ。
聖夜の後姿を見送った東條は運転手に合図をし、彼一人を乗せた車はそのままラ・ファウスト学園を後にした。
聖夜は学園の扉を開ける。大理石で造られたエントランスが彼を迎え入れた。夜の7時だから生徒もほとんどいない。
全国指折りの令息令嬢が通う学園だ。夜遅くまで生徒が学園に残ることはまずない。残るとすれば、家への帰還を制限されていない放任家庭に住む変わり種の金持ちか、聖夜のような一人暮らしの坊ちゃんくらいだ。
靴音を故意的に鳴らしながら階段を上り、整えられた髪をワシャワシャと掻き乱し、ネクタイをグイッと緩める。
そうして聖夜はいくつかの講義室を通り過ぎ、いつもの場所にたどり着いた。聖夜は何の躊躇もなく茶色い大きな扉を開ける。
「遅かったじゃん、聖夜」
特定の人間しか入ることの許されない特務室。広々とした部屋の中にはソファーや丸テーブル、本棚など高級家具が揃えられている。そこが学校の一室だとは到底思えない。
聖夜に声をかけた男は椅子に座って特に何をするでもなく雑誌を眺めていた。
「会議が長引いた?」
「掘り返すなや、慎。しばくぞ。あー、ほんま疲れた。この俺がすっぽかされるとかありえへんわ、マジで」
聖夜はどさりとソファーに座った。先ほど東條と相対していたときとは全く違う喋り方だ。不機嫌な聖夜を見て慎という男はケラケラ笑った。
「そんなの俺が知ってるわけねーじゃん。ま、飲めよ」
慎は水の入ったペットボトルを聖夜に投げ渡した。
「なんかおもろいことないか?」
「ねーからここにいんじゃん」
慎は何が可笑しいのかまたケラケラと笑っていた。聖夜は「お前の笑い方ってほんま癇に障るわ」と言って水を飲んだ。乾いた喉にキーンと沁みる冷たさが心地よかった。
「じゃさ、今日何してた?」
慎が問うと、聖夜は恨めしそうに慎を見た。掘り返すなと言ったばかりだ。
「東條が麗龍の体育祭観戦しとるん待っとった」
「ずっと?」
「……せや」
聖夜が低い声で肯定すると慎はまたケラケラ笑った。聖夜がソファーから立ち上がると、慎は「わりーわりー」と悪びれもなく謝り、また笑っていた。
「聖夜にそんなんできんの東條さんくらいじゃね? 天下取りは違うねー。俺の親父も天下取ってくれたら聖夜のこともっとからかえんのに」
慎の父親は外務大臣だ。それなりに天下に近いが、やはり琴蔵財閥や東條グループには及ばない。そんなことを考え、ニヤニヤしている慎を見て、聖夜はこれ以上ウザくなるのかと思うとゾッとした。
「へぇ。でも、東條さん何しに行ったんだ?」
「何か言っててんけど、嘘っぽすぎて覚えてへん。ていうか、お前こそ今日何しててん?俺の電話全然出らへんし」
「そんな野暮なこと聞くなよー」
ニヤニヤしながら言う慎に聖夜が眉を顰めると、慎は肩を竦めた。
「仕方ねーじゃん? 女から迫られて断るとかねーよ。あ、心配すんなって。聖夜待ちの子もいっぱいいるぜ? お嬢様っていってもやることやるんだから本当面白いよな」
慎が笑う。聖夜は時折、こいつは敵に回したくないと思うのだ。
「あ、でさ、話戻すけど……。東條さんって子どもいたっけ?」
「は?」
聖夜は怪訝そうに慎を見たが、すぐにその質問の意図に気づいた。慎は東條の子どもが麗龍に通っているのではないかと聞きたいのだ。そうだとすれば今日のことも少しは納得できる。
「おったで。でも、十年前に誘拐事件で死んだって話や」
聖夜は膝に肘をついてポツリと言った。東條に娘がいたこと、そしてその娘が誘拐されたことについて知っているのは相当立場が上の人間。その中でも極少数だ。つまり、慎が知らないのも当然で、彼が無知だからというわけではない。
「え!? マジで? 東條さん、そんな過去持ってんの? うっわー、イメージめちゃくちゃ変わる」
慎が一人騒ぎ始めたが、聖夜はそれを無視する。自分が言った事実について少し考え込んでいた。
東條の娘は死んだ。しかし、彼の娘の葬儀には琴蔵家さえ呼ばれなかった。マスコミを抑えてのことだったのかもしれないが、彼の娘の死についての疑問は他にもたくさんある。
「まぁ……俺には関係あらへんけどな」
聖夜は吐き捨てるように呟き、そのままゆっくりと目を閉じた。




