#16
バレンタイン後の一週間はテスト前で、生徒会は休み。
だから特に用がない限り、教室の階が違う来羅に会う機会はないのだが――。
「るーちゃん、今からお勉強?」
放課後、松田先生との用事を終わらせて教室へと戻る途中で、芽榴は来羅と出くわした。
荷物を抱えた来羅が芽榴に歩み寄って、小さく首を傾げた。
「ううん。私は家で勉強するから、もう帰るよ。……来羅ちゃんは生徒会室?」
「うん。颯か有ちゃんがいるだろうし、一緒にお勉強しようと思って」
来羅の態度はあれからずっと変わらない。
少し前のように芽榴を混乱させるように距離を縮めてくることもなければ、逆に芽榴を避けるようなこともしなかった。
「るーちゃんに勝てるように、私も頑張らなきゃね」
適度な距離感にホッとする。その一方で、芽榴の心にある寂しさが、小さく顔を出した。
「……来羅ちゃ」
「芽榴ちゃん」
芽榴が来羅に言葉を返そうとした瞬間、2人の間にその声が割って入った。
「蓮月くん」
「もう帰り? ならオレも帰るから一緒に帰ろ!」
来羅に出くわしたそこは二階の階段前。二階のB組にいた風雅が現れるのは不思議ではなかった。
にっこり笑顔で風雅が誘ってくる。そのお誘いが来羅にはまったく関係ないことなのに、芽榴は反射的に来羅のことを見てしまった。
「あ……来羅と帰る予定だった?」
その様子を見て、風雅が少しだけ遠慮がちに問いかけてきた。
芽榴が風雅に視線を戻して口を開くと、来羅が芽榴の口を塞いだ。
「もぉっ、るーちゃんと私が仲良いからって嫉妬しないでよ。それより、るーちゃん送ったらちゃんと勉強しないと、颯に怒られるわよ?」
芽榴の耳元近くでクスクス笑いながら、来羅が彼らしく風雅に返している。
芽榴が不自然にしてしまった空気を、来羅がフォローしていつもの空気に戻してくれた。
そういうことをされると、芽榴の胸がぎゅうぎゅうにしめつけられて心臓が早鐘をうつ。
少しだけ密着した体から、その音は伝わっていたかもしれない。
「……じゃあ、2人ともまた明日ね。ばいばぁい」
俯いて酷い顔を隠す芽榴に、来羅は少しだけ困り笑顔を見せて、その場を去った。
来羅が芽榴の横を通り過ぎていった後も、芽榴は顔をあげられない。
「……芽榴ちゃん、帰ろ」
それを分かっていて、風雅は静かに芽榴へ声をかけてきた。
来羅への想いは日々募るばかりだ。
そのくせに不器用な心が邪魔をして、素直な気持ちを伝えるのを拒んだまま、動けない。
不穏な空気を消せないまま、テスト期間は過ぎていった。
「……楠原、ちゃんと聞いてるか?」
ハッとした芽榴の目の前には松田先生がいた。
テスト最終日の放課後、芽榴は松田先生に呼び出され、社会科資料室で留学についての話をしているところだった。
「すみません。少しボーッとしてました」
「珍しいな。テスト終わったばかりで疲れでも出たか?」
松田先生が心配そうに芽榴の様子をうかがう。それが申し訳なくて、芽榴は胸の前で手を振った。
「いえ。もうすぐ留学だなって、考えて……ちょっと寂しくなったというか」
自分の心の中にある嘘ではない気持ちを伝えて、芽榴は苦笑する。
このまま留学してしまえば、きっと来羅のことばかり考えて中途半端な成果しかあげられない。
でも来羅に思いを伝えたとしても、「どうして好きになったの?」と聞かれてしまえば終わりだ。
来羅が女装をやめたから、とそう答えるしかない。
その答えは絶対に来羅を傷つけて、来羅との関係を壊すだろう。
そう思うだけでゾワリと怖くなる。
このまま友達でいられたら、来羅の笑顔は変わらず芽榴に向いたまま。
いつか来羅の気持ちが、変わってしまっても――。
そこまで考えて、芽榴の思考は止まった。
「留学前にやり残したことはちゃんとやっておくんだぞ」
松田先生の声が凝り固まった頭を打つように響いた。
社会科資料室が静かに出て行く。
校舎の中、窓の外、いろんなところから楽しげな声が聞こえてくる。テストが終わって、学園に賑やかさが舞い戻っていた。
誰のものかも分からない笑い声やはしゃぎ声聞きながら、芽榴はゆっくり廊下を歩く。
階段の前に差し掛かったとき、扉が開く音とともに、その人が芽榴を呼び止めた。
「芽榴」
振り返った先、生徒指導室から出てきた颯がそこにいた。
「神代くん。……生徒指導室?」
「生徒指導室にある参考書を借りていたから戻しに来ただけだよ」
不思議そうな顔をする芽榴に、颯は優しく笑って答えてくれる。
そうして、颯は芽榴のもとへと歩み寄った。
「芽榴こそ、どうしてこんなところに? テストも終わったし、もう帰ったのかと思っていたよ」
「……松田先生とお話があったから」
芽榴は『留学』という単語を避けて颯に伝える。
けれど芽榴が伏せたところで、颯にはその意図まで全部分かってしまうのだ。
「本当に、もうすぐなんだね」
「うん。……1ヶ月以上もあるって思ってたのにあっという間に過ぎちゃった」
もう2週間後には、芽榴はこの学園にいない。
芽榴も颯も、その実感はあるようで、まったくなかった。
「僕は、これからもずっと芽榴がそばにいてくれる気がしてるよ」
颯が微かに笑ってそう言った。
芽榴は「私も」と頷きかけて、続いた颯の言葉に口を閉ざす。
「でも来羅は、その実感があるから……だから芽榴に告白したんだと思うよ」
芽榴は颯の顔を見上げる。その目は大きく見開かれていた。
「なんで……」
「2人の様子と、現状と……お互いの性格を照らし合わせれば分かる」
颯はそういうけれど、そんなこと簡単に分かるわけがない。でも颯は当然のように、そしてどこか寂しげに呟いた。
来羅が芽榴に告白した事実を知っているなら、おそらく芽榴の出した答えまで颯は知っている。
「芽榴と来羅、2人のあいだの話だから、僕は割って入るべきじゃないと思うけど……」
そう呟いて、颯は芽榴の頬に触れた。
「僕は不安げな顔をした芽榴じゃなくて、笑顔の芽榴を、ここから見送りたいから」
なでるように颯の手が滑り落ちて、颯の笑みが芽榴の瞳に映る。
「芽榴が好きなのは女装した来羅? それとも、今の来羅?」
その問いかけに対する答えは、芽榴の頭の中にすぐに浮かんだ。
「どっちの来羅ちゃんも……私は大好きだよ」
「うん、そう。だから、来羅は芽榴を好きになったんだよ」
颯は芽榴の不器用な気持ちまで理解して、芽榴の凝り固まった考えを解いてくれようとしていた。
「来羅が今の姿になって、芽榴はすぐに来羅を好きになった? そうじゃないだろ? もしそうなら、もっと前に芽榴と来羅の関係は変わってたはずだよ」
「でも……来羅ちゃんが女装してた頃はこんなふうに思うことなんてなかったんだよ。それなのに、私は……」
来羅が女装をやめて、彼本来の姿で振る舞うようになって、そうして芽榴は来羅が男の子なのだと実感した。
「当たり前だよ」
颯は真剣な顔で、芽榴のその考えを肯定する。
「来羅の行動自体が、今と女装をしていた頃とじゃ違う。……そうだろう?」
女装をしていた頃の来羅は「僕」なんて一度も言わなかった。彼女にするなら芽榴がいい、なんて意識させるような言葉も言わなかった。
いつだって、芽榴の仲のいい友達の位置に彼は立ってくれていた。
「芽榴に好きになってほしくて来羅は変わったんだよ」
「それは……」
「僕の言うことが信じられない?」
そう聞かれれば何も言えなくなる。颯の言葉を疑うことなんて芽榴にはできない。
「芽榴が来羅の女装も本当の姿も、同じように受け止めていたことを、僕はちゃんと知ってる。……芽榴は来羅が女装をやめたから来羅を好きになったんじゃない」
芽榴が自分だけでは判断できなくなっていたことを、颯が客観的に伝えてくれる。
「芽榴の想いは、ちゃんと来羅を幸せにできるから……。僕に、これ以上は言わせないで」
颯は苦く笑って、目を伏せた。
何度も芽榴を肯定してくれた颯が、また芽榴のことを肯定してくれる。
始まりの約束を、ずっと守って、颯は芽榴の目の前にいた。
「神代くん」
いつだって芽榴のそばに颯はいる。
けれどその気持ちが交わることはなくて――。
「……ありがとう」
芽榴にとって、颯はいつだって、間違いごとすくい上げて肯定してくれる大切で大好きな救世主だった。




