#14
放課後、芽榴はクリーム色のトートバッグを持って立ち上がる。
「舞子ちゃん、しばらく教室残ってる?」
芽榴は机の上に勉強道具を広げる舞子を見て、静かに尋ねる。芽榴の声を聞いて、舞子はすぐに振り返った。
「うん。勉強して帰る予定」
「……じゃあ、あの、もし蓮月くんが来たら、しばらくしたら戻るって伝えてもらえる?」
芽榴がお願いすると、舞子は快く了承してくれた。
風雅のことは舞子に任せて、芽榴は教室を出て行った。
翔太郎を探して、芽榴は上の階の空き教室を見て回る。
ホームルームが終わって、すぐ帰った可能性もある。けれどその途中で女子に捕まる可能性を考えると、翔太郎は生徒の数が減るまで学園に残っている気がした。
いくつか空き教室を見て回って、芽榴はやっと彼のいる空き教室を見つけた。
扉を開けてすぐに「葛城くんいるー?」と芽榴が声をかけると、奥の机の影に隠れていた翔太郎がゆっくり立ち上がった。
「楠原か。どうした」
声で芽榴と分かったのだろう。翔太郎は用件を尋ねながらこちらへと向かってきた。
芽榴の前に立って、翔太郎は教室の明かりをつけてくれた。
「……ありがと」
芽榴を気遣って、即座に部屋を明るくしてくれた翔太郎に、芽榴は静かにお礼を言った。
そして、そのお礼の言葉とともに、チョコをバッグから取り出す。
「できれば、突き返さないでもらってほしいんだけど」
芽榴はそんなふうに言いながら、翔太郎の胸の前にチョコを差し出した。
翔太郎が今、この空き教室に隠れているのは、女子からのバレンタインチョコから逃げているのが原因だ。
たとえこれが芽榴のチョコであっても、翔太郎だけは突き返さない可能性がゼロではない。
だから芽榴は遠慮がちに言ってみたのだが、芽榴の考えとは裏腹に、翔太郎はすんなり芽榴のチョコを受け取ってくれた。
「貴様のチョコは義理だと分かるからな。快く受け取る」
若干驚いた顔をする芽榴に、翔太郎はふんと鼻を鳴らした。そして、翔太郎はそのまま芽榴の手提げへと視線を向ける。
「他のやつにはあげられたのか?」
「あはは……。まだ蓮月くんと……来羅ちゃんに渡せてなくて」
答えながら芽榴は視線をそらす。
「あいつらは2人して、今日はまともに教室にいないだろうからな」
「それは葛城くんも同じでしょー?」
芽榴が苦笑しながら言うと、翔太郎は「一緒にするな」と不機嫌な声をもらした。
「俺は巻き込まれないように最初から教室にいないだけだ。呼び出しで教室に戻れないあいつらとは理由が違う」
翔太郎はそう付け加え、眼鏡のブリッジを押し上げた。そして翔太郎は芽榴のことを心配するように目を細める。
「それより、貴様はちゃんと2人に会えるのか? 待つだけじゃ捕まらないと思うが」
「蓮月くんは、放課後一緒に帰るって約束してるから……大丈夫」
芽榴は風雅との約束だけを口にして黙る。芽榴がわずかに視線をそらすと、翔太郎が小さなため息を吐いた。
「……柊には、渡す気がないのか?」
「そういうわけじゃないよ」
渡す気はある。けれど、渡す自信はなかった。
芽榴がいまだに来羅に対してぎこちない態度をとっていることを、翔太郎は知っている。
「……本当に、手がかかるやつだな」
翔太郎は制服のポケットからスマホを取り出し、手を動かす。芽榴が首を傾げながらその様子を見ていると、翔太郎はスマホの操作を終えてそれを直した。
「せっかく作ったものなら、ちゃんと渡せ。……それにあいつも言っていただろう? あいつが一番欲しいのは、貴様のチョコだと」
「……でも」
芽榴は表情が歪むのを抑えられない。トートバッグを持つ手は少しだけ震えていた。
「私は……」
芽榴が声を出すのと同時、教室の扉が開いた。
ガラッという音に慌てて振り向いて、芽榴はそのまま目を大きく見開いた。
「……来羅、ちゃん」
「え……るーちゃん?」
芽榴の姿を見て、来羅も驚いているみたいだった。驚いた顔のまま来羅は芽榴から翔太郎へと視線を移す。
「翔ちゃん、用って何?」
「俺ではない。楠原が貴様に用があるだけだ」
翔太郎がそう答えて、芽榴は即座に翔太郎のことを見る。けれど翔太郎は芽榴の視線に答えてはくれない。
「じゃあ……俺は場所を変える」
来羅と入れ替わるようにして、翔太郎は教室を出て行った。
「か、葛城くん、待っ……」
翔太郎を追いかけようとした芽榴の手は、来羅に掴まれる。
その反動でわずかに体が反転して、芽榴の視界に、繋がれた手が映り込んだ。
「思い切り引いちゃったね、ごめん。……でもやっと、るーちゃんに会えたから、つい」
来羅がやわらかく笑って、嬉しそうに言ってくれる。その仕草や声に、芽榴の心はどうしようもなく揺れてしまった。
「来羅ちゃん……今も呼び出しだったんじゃ、ないの?」
声が詰まって、少しだけ掠れる。それでも平静を装って尋ねてみると、来羅は苦笑しながら頰をかいた。
「そうだけど。翔ちゃんからの呼び出しがあれば、そっちのほうが優先でしょ?」
来羅は髪を揺らして小首を傾げてみせる。
さっき翔太郎はスマホをいじっていて、おそらくあのとき彼は来羅を呼び出したのだろう。
もし、それを見て呼び出しの途中でやってきたというなら、本当に来羅は翔太郎を何よりも優先したのだ。
「それがるーちゃんからの呼び出しなら、もっと優先だよ」
そんな『特別』みたいな言葉が芽榴の心に針を刺した。
「それで、るーちゃんは私に用事?」
手に持ったトートバッグと芽榴を交互に見て、来羅は問いかける。その中のものを期待するみたいにキラキラ目を輝かせていた。
「うん。……来羅ちゃんに、チョコ渡したくて」
芽榴は視線を下げながら、来羅にチョコを渡した。そのチョコを来羅はぎゅっと大切に抱きしめてくれた。
「ありがと。すっごく嬉しい」
来羅の笑顔はとても綺麗だ。その笑顔を見れば見るほど、芽榴の心は握りつぶされるみたいに締めつけられる。その心から目をそらすように、芽榴は苦笑した。
「……ごめんね。来羅ちゃん忙しいから、私が会いに行かなきゃいけなかったのに」
「ううん。それはこっちのセリフだよ。……本当はすぐにでもるーちゃんに会いに行きたかったのに、足止めくらっちゃって」
来羅は首を横に振って、視線を下げたまま、ボソリと呟く。そしていつもの笑顔をもう一度芽榴に見せてくれた。
「でも結果オーライ。これが私の、今年唯一のチョコだよ」
来羅は予告どおり、すべてのチョコを断って、今芽榴の目の前にいるのだ。ズキズキと心が痛む。
「……来羅ちゃん」
嬉しそうな来羅に、芽榴の罪悪感は募るばかりだ。
来羅が断った数えきれないチョコと、芽榴のチョコにたいした差なんてない。きっと断られたチョコの中には、ブランド物のおいしいチョコだってあったはずだ。
「それは……義理チョコ、だから」
「え?」
念を押すようにして芽榴は言った。その言葉に、来羅は目を見開く。
「いつもありがとう、来羅ちゃん。……じゃあ、私は……」
踵を返し、芽榴は帰ろうとする。けれどその芽榴の腕を掴んで、来羅が止めた。
小さく顔を振り向けば、真剣な顔の来羅が目の前にいる。
「るーちゃん」
その声で呼ばれる名が心地いい。来羅に握られた手を見ると、胸がドキドキする。来羅の顔を見ると、なぜか涙が出そうになる。
こんなふうに思ってしまうのは、やっぱり来羅のことを男の子として意識してしまっているからだ。
「本命チョコがいいって……それは、わがままかな?」
真剣な顔をして、来羅は問いかける。
すぐには意味がわからなくて、分かった途端に、芽榴の呼吸は止まった。
「……え?」
また、来羅のことが分からなくなる。
来羅の言葉に心が乱されて、本当の答えがまた芽榴の心の奥に消えていく。
「……あはは、何言ってるの。来羅ちゃん。……本命チョコなら、たくさん」
「言ったでしょ? 全部断ったって。……私がもらうなら、るーちゃんの本命チョコだけだよ」
鼓動がどんどん速くなって、耳元でドクドクと音がする。
「私は……るーちゃんが好きだよ。女の子として、本気で」
ぐちゃぐちゃの心に、来羅が隠すことなく真実を伝えてくれた。
ある日の帰り道『彼女にするなら芽榴しか考えていない』と、来羅が言ったあの日から、もしかしたらと何度も思った。
でも勘違いだと言い聞かせて、モヤモヤした気持ちだけを抱えていた。
「ずっとずっと好きでした。……僕と、付き合ってください」
来羅の口にする『僕』に、心がドキドキして止まらない。あの日、来羅の部屋で、真近に寄せられた来羅の顔が思い浮かぶ。
照らし合わすように、来羅の綺麗な顔が目の前にあった。
来羅の『好き』の言葉が素直に嬉しい。
思わず涙が出てしまいそうなくらい、嬉しかった。
他の人に告白されたときには、こんな感情は生まれなかった。
この気持ちはもう疑いようもない。芽榴はもう来羅のことが『好き』だった。
「私……」
来羅の気持ちに答えたくて、声を出した。それなのに、口を開いた途端、芽榴の心の中に真っ黒な気持ちが溢れ出す。
来羅が好きになった芽榴は、今の芽榴じゃない。来羅のことを意識しなかった芽榴だ。
来羅のことを男の子と思って意識し始めた芽榴は、もう来羅が好きになってくれた芽榴じゃない。
今の芽榴は、来羅の嫌いな、手のひら返しの女の子。
この来羅の気持ちに答えていいのは、今の芽榴じゃない。
「……ごめん、なさい」
芽榴の口から、小さく掠れるように、言葉は出て行く。来羅の手がびくりと反応して、芽榴は来羅の手から自分の手を抜いた。
「ごめんなさい」
もう一度、はっきりと言葉を口にして、芽榴は教室を出て行く。来羅の顔は見れなくて、芽榴は俯いたまま、飛び出すようにして教室を出て行った。
走って逃げて、そうしたらそんな芽榴のことを誰かが引き止めた。
「芽榴ちゃん!」
芽榴の腕を掴んで、風雅が芽榴を引き止めた。
「今、会いに行こうと思ってたんだけど……ど、どうしたの? 芽榴、ちゃ……」
芽榴の顔を見て、風雅は口を閉じた。
風雅の大きく開いた瞳が、芽榴のことをまっすぐ見つめていた。
「蓮月くん……ごめ」
謝ろうとしたら、もう声が出なかった。来羅に言った『ごめん』の言葉が芽榴の頭によぎって、何も言えなくなった。
「……芽榴ちゃん」
目を閉じたら、懐かしい香りが芽榴の体を包み込んだ。
震える芽榴を、風雅が抱きしめていた。
「……何があったかは、聞かないよ。……聞かないから、もし隠れて泣くつもりならオレの胸で泣いて?」
優しい風雅の声が耳に届いて、芽榴の目から堪えきれない涙がこぼれた。
「……ごめん。……ごめんなさい」
誰に対する『ごめん』なのかも分からない。
今、来羅は何を思っているのだろう。風雅の胸の中で泣きながら、芽榴はひたすら繰り返すようにそんなことだけを考えていた。
嫌われたかもしれない。でも芽榴が来羅を好きになってしまった時点で、もう芽榴は来羅の好きな芽榴じゃなかった。
「……ごめんなさい」
来羅のことが大好き。
でも来羅の好きな自分はもうどこにもいない。
来羅のことが好きだからこそ、来羅を騙すような真似はしたくなかった。
けれどこんな思いもすべて言い訳だと、芽榴は知っていた。
かりそめでも、友達のままでいれば来羅に嫌われることはない。姿だけで意識するような、最低な芽榴は消えてくれるから。
「……来羅ちゃん」
芽榴が呟いた名前を聞いて、それをかき消すように、風雅が芽榴のことを強く抱きしめた。




