#12
慎がいなくなっても、芽榴は彼の去ったあとを見つめていた。慎に渡されたチョコの箱をキュッと力を入れて握ると、聖夜がそんな芽榴を見下ろした。
「慎から……もろたん?」
静かな問いかけ。聖夜の手にも同じ箱がある。
聖夜が扉を開ける前に渡されたその箱をゆっくりバッグに直して、芽榴は聖夜を見上げた。
「はい。……余ったみたいで」
芽榴の言葉に、聖夜はわずかに眉をしかめた。芽榴も自分で言って、苦笑してしまう。
けれど聖夜はそれ以上言及する気はないみたいで、ため息ひとつでその話を切り上げた。
「寒いやろ。あんま片付いてへんけど、あがり」
芽榴の手に聖夜の手が触れる。その瞬間、わずかに芽榴の手が強張って、聖夜は眉を下げた。
「息抜きにチョコ食いたいし、コーヒーでも淹れて……ってゆう言い訳は通用せんか?」
聖夜が寂しそうな顔をして問いかける。聖夜の顔には少し疲れが見えて、芽榴は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ……少しだけ」
芽榴はそう答えて、聖夜の部屋に上がった。
聖夜の部屋は前に来た時と変わりない。片付いてないと言っていたけれど、リビングのほうはそれほど散らかってはいなかった。
「コーヒーでいいですか?」
「ああ。さっきまで眠っとって、頭ボーッとしとんねん。目覚ましもかねて苦いの頼むわ」
聖夜の注文通り、苦めのコーヒーを作って、芽榴はソファーに座る聖夜に手渡した。
聖夜には隣に座るよう言われたものの、芽榴はテーブルを挟んで向かいに座る。不服そうな顔をする聖夜を見つめながら、芽榴はバッグの中から自分のチョコを取り出した。
「私からのバレンタインチョコです」
「……食べてもええ?」
芽榴が頷くと、聖夜は慎のくれたチョコの隣にそれを置いて、赤いリボンを解いた。箱を開けると、綺麗に並べられた生チョコが聖夜の目に映り込んだ。
感嘆の息を吐きつつ、聖夜はチョコを一つ楊枝にさして、口に入れる。ゆっくり堪能するように食べて、聖夜は薄く笑った。
「やっぱ……うまいな」
「口にあったなら、よかったです」
聖夜の返事を聞いて、芽榴は頬を緩める。そして芽榴もバッグから慎のチョコを取り出して、それを口にした。
甘いチョコの味が口いっぱいに広がって、芽榴は困り顔をする。
味は美味しい。芽榴が監督したとはいっても、芽榴は慎の作業に何一つ手を入れていない。これは正真正銘、慎が作ったチョコだ。
きっと材料も作り方も慎は知っていた。知っていたはずなのに、材料は明らかに多かった。今考えれば、最初から聖夜以外にもあげる予定だったとしか思えない。
「本当に、嘘つきだなー……」
芽榴は呟いて、コーヒーを口にする。そんな芽榴を聖夜がジッと見つめていた。
「簑原さんが作ったチョコもおいしいですよ」
「……あとで食う。……俺は何も用意できてへんけど」
「いえいえ。これは私があげたくてあげてるんですから」
芽榴が両手を振って笑うと、聖夜は優しく目を細めた。
「……髪、切ったんやな」
その視線は、芽榴の前髪に向かっている。
慎も簡単に気づくほど、芽榴の前髪は短い。切って数日経ったとはいえ、まだ前の長さには全然戻らない。
「似合うとる」
前髪に触る芽榴を見て、聖夜が告げる。慎も悪くないと言ってくれた前髪だ。
――絶対るーちゃんに似合うようにするから――
本当にそのとおりに来羅は切ってくれた。でも今はあのときのことをあまり思い出したくない。思い出したら、また来羅のことを意識してしまう。
さっきもそう。慎に簡単にばれてしまうくらい、頭の中は来羅のことでいっぱいだった。意識しないように、と考えれば考えるほど泥沼に浸かっている。
平静を繕っても、芽榴の顔は自然と赤くなってしまった。
「芽榴?」
聖夜が芽榴の顔を覗き込むように、体を乗り出す。
向かいにいる聖夜の顔が少しだけ近づいてきて、芽榴はビクッと肩を揺らした。
「あ……えっと、ごめんなさい」
芽榴は誤魔化すように頭をかいて笑う。
聖夜の姿が、来羅の姿と重なって見えた。前髪を切ってくれたあの日、来羅の顔が同じように近づいてきたのを思い出して、芽榴は赤い顔を隠すように俯いた。
あのとき颯が入ってこなかったら、どうなっていたのだろう。放置したはずの考えが今も頭の中をぐるぐる回っている。
自分の都合のいいように解釈して、そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
「……芽榴」
聖夜の小さな声が芽榴の名を呼んだ。芽榴が片手を頬に添えて顔を上げると、真剣な顔の聖夜がそこにいた。
「役員のやつにも、チョコ……やるんよな?」
芽榴は苦笑しながら頷く。いくら口では迷っているといっても、あげるつもりだから材料を買っているのだ。
けれど芽榴の返事を聞いて、聖夜は目を伏せた。
「……俺が特別ってわけやないよな。やっぱり」
つぶやくようにして言いながら、聖夜は芽榴がくれたチョコをつまむ。その様子を見て、芽榴はなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
「……私なんかに『特別』なチョコを渡されても、困るだけですよ」
自分の言葉で、胸が苦しくなる。
慎も義理しかいらないと言った。
きっと来羅も、みんなもそう。芽榴のチョコが義理だと思っているからこそ、もらってくれるのだ。
そこに別の感情が入ってしまった時点で――。
「俺は欲しいで。お前の『特別』」
芽榴の負の考えにかぶせるようにして、聖夜が言った。聖夜はまっすぐに芽榴のことを見つめ、そらさない。
その視線が耐えられなくて、芽榴は聖夜から目をそらした。
「あはは……ありがとうございます」
「冗談で言ってるんとちゃうぞ」
誤魔化すように笑った芽榴に対して、聖夜は少し強い口調で告げる。
でも聖夜がどんなに真剣な態度をとっても、芽榴は聖夜の『特別』という言葉を本当の意味でとらえることはできなかった。
「琴蔵さんはそうでも……みんながそう思うとは、限らないですよ」
「他のやつかて……っ」
聖夜はそこまで言って、口を閉じる。芽榴が聖夜に視線を向けると、聖夜はわずかに唇を噛んだ。
「……他のやつがどう思うかは、俺かて分からん」
分かりたくないとでも言うように、聖夜は低い声でつぶやく。
聖夜の答えが沈黙を呼んで、静かな部屋には居心地の悪い空気だけが流れた。
「すみません。変な空気にしちゃって……えっと、じゃあコーヒーもいただいたので私帰りますね」
沈黙を打ち切るように、芽榴はそう言って立ち上がる。その芽榴の手を、向かいに座ったまま、聖夜が掴んだ。
「……送る。せやから、教えてくれ」
少しだけ聖夜の手に力がこもる。それが伝わって芽榴は反射的に聖夜の顔を見た。
「……誰のこと、好きになったんや」
そんなふうに問われ、芽榴は目を見開く。聖夜の悲しそうな顔が芽榴の目に焼きついた。
「誰のことも……」
「今の会話で、それ言うか?」
聖夜は眉を寄せる。
聖夜と話しているあいだも、今こうしているあいだも、ずっと来羅のことを考えてる。それが聖夜に伝わらないわけがない。
自分の心に嘘をついても、現状は変わらなかった。
「私は……」
ただ、この気持ちを認めてしまえば、その瞬間に、芽榴は来羅に嫌われてしまう。
嘘を繕ってでも来羅のそばにいたい。その想いはやっぱりもう『特別』だった。
「誰も……好きになりたく、ないです」
願望を口にして心が痛くなる。
でもそれ以上に、苦しそうな顔をした聖夜が目の前にいた。
聖夜の手からスッと力が抜けて、芽榴はそこに立ち尽くす。
「……車、下におるはずやから……行こか」
聖夜は近くにある鍵をとって、立ち上がった。そして芽榴のことを振り返り、小さな声を出す。
「……芽榴」
優しい声で呼ばれて、芽榴は複雑な表情のまま聖夜に視線を向けた。
「お前が本気でそう思うとるなら、ええよ。でも、もし嘘ついてんのやったら……その考えは誰のためにもならんし、間違うとる」
聖夜は部屋の扉を開けて、芽榴のことを待つ。立ち尽くす芽榴を見て、聖夜は困り顔をしていた。
「お前なら、俺が何言わんでも……間違わんよな」
聖夜はそう言って、寂しそうに笑った。




