#11
慎と作ったチョコは冷蔵庫にある。冷やして固まるのを待つ時間が数時間あるため、芽榴はいったん家に帰ろうと荷物をまとめた。
そんな芽榴を、慎は薄ら笑いを浮かべて見ていた。
「何してんの?」
「時間あるので、一度帰ります。チョコができた頃にまた戻ってくるので……って、ちょっと!」
芽榴が手にしたバッグを慎が奪って、芽榴の手が届かないように彼は自らの頭上にそれを掲げた。
「何するんですか」
「帰れないように?」
「……帰らせてください。遅くなることも伝えてないですし、お昼作りに……」
「それなら大丈夫。もう連絡してっから」
芽榴の声にかぶせて、慎が言った。芽榴がポカンと口を開けると、慎はケラケラと楽しげに笑い始める。
「いつ連絡したんですか!」
「さあ〜いつでしょう」
答える気ゼロの返事を向けられ、芽榴は顔をしかめる。すると慎は笑いながらも真面目に言葉を付け加えた。
「夜遅くなることと、昼に帰ってこないことはちゃんと伝えてある。どうせ聖夜の家に行けば、聖夜が意地でもあんたのこと送るし。毎回そうだからすんなり納得してくれたぜ?」
聖夜関連の用事のあとは、毎度聖夜に車を出してもらっているため、そこの信用は楠原家の中でも確かだ。
「楽しんできてって伝言。だから、帰るなよ。ていうか……」
慎は芽榴のバッグを元置いていたところに戻し、冷蔵庫から別の袋を取り出した。
「俺に昼食作ってよ。腹減った」
芽榴の目の前に、食材の入った袋を掲げて、慎は楽しげに笑った。
「いやー、ラ・ファウストのカフェも休日は開いてねーからさ。目の前に偶然いいシェフがいて、マジ助かったわー」
慎は机に頬杖をついて愉快に呟く。
芽榴は慎の注文通り、シーフードピラフやスープを作って机の上にそれらを並べる。
「……食材まで買い置きして、作らせる気満々じゃないですか」
文句を言いながら芽榴は慎の向かいに座る。綺麗に盛りつけられたお皿からは、芳ばしい香りが漂っていた。
「……いただきます」
「はー、ほんと料理はうまいね、あんた」
一口食べて、慎がそんな感想をもらす。褒めているはずなのに、芽榴をイラッとさせてしまうのは慎の才能だろう。
芽榴は「どーも」とそっけない返事をして、黙々と食事をとる。
「……で、誰にチョコあげるのを迷ってんの?」
慎に問われて、芽榴は口に入れたピラフをゴクンと飲み込む。
慎は優雅にコンソメスープを飲みながら芽榴に視線を向けていた。
「別に……迷ってないですよ。みんなにあげる予定ですから」
「俺に嘘つけると思ってんの〜? 俺より上手に嘘吐くなんて無理なんだから、無駄なことすんなって」
慎は芽榴の作った料理を綺麗に平らげて、手を合わせた。そして満足そうな顔のまま頬杖をつく。
「……じゃあ、誰っていうのは伏せていいから。なんで迷ってんのか聞かせろよ」
慎がどうしてそこまで知りたがるのか、芽榴には分からない。けれど慎が知りたいと言い始めたら、ありとあらゆる手段を使って聞き出すことはもう知っている。
だから芽榴は渋々重たい口を開いた。
「私のチョコはもらってくれるって……それは嬉しいんですけど」
ファンの子のチョコはもらわない。来羅はそう言った。
でもそれは、来羅が芽榴を『特別な友達』と思っているから。やましい気持ちもなく、チョコを渡すと思っているからだ。
もし芽榴が感謝以外の気持ちでチョコを渡すと知れば、そのチョコもきっと来羅は断るはず。
ファンの中には、女装のときから来羅のファンだった子もいる。芽榴みたいに来羅の姿が変わって意識し始めたわけでもない、純粋な気持ちで来羅を慕う子もいるのに。
「私があげるのは、ずるいのかなって……」
芽榴が浮かない顔で答えると、少しの沈黙が室内に訪れる。
そして、慎がその沈黙を壊すように声をあげて笑った。
「ほんと、楠原ちゃんって馬鹿だな」
「バカって……」
「馬鹿だろ。あいつらのファンの女たちからしたら、あんたはいつだって『ずるいやつ』だっただろ? それで散々痛い目にあったの、覚えてるだろ?」
そのとおり。でもそのとおりであるからこそ、芽榴は本当に『ずるい人間』にはなりたくなかったのだ。
「あんたが今さらずるいことしたって、きっと誰も何も言わねーよ。言うやつは元から言ってる。……でもって、あんたが役員の気持ちの方を気にしてんなら、それこそ杞憂」
慎は芽榴に手を伸ばし、芽榴の髪を柔らかい手つきですくった。
「もし俺があいつらなら、少しは義理以外の感情も持ってくれよって言いたいところだけど」
慎の手から芽榴の髪がこぼれおち、慎はニコリと何の感情も見せない顔でニコリと笑った。
「でーも、俺のチョコには感謝の気持ちしかこめないでくれよ? あんたはからかうくらいがちょうどいいわけで、好かれちゃ面白くねぇし」
彼らしく挑発するような態度で、慎は告げる。いつもなら苛立つ言葉も、今は少しだけ芽榴の心を軽くしてくれた。
「……あなたなんか好きになりませんよ。安心してください」
ため息まじりに告げて、芽榴はスープを飲んだ。
チョコも冷えて固まり、芽榴と慎は各々ラッピングを済ませた。
良くも悪くも、聖夜の自宅にも行き慣れてしまって、緊張感もない。
「あー、また怒られんのかな、俺は」
楽しげにそう言って、慎はエレベーターの階数を指定する。その様子を芽榴は困り顔で見ていた。
「琴蔵さん、忙しいんじゃないですか?」
「楠原ちゃんが来たってなったら、どの用事よりも最優先事項だろ。聖夜にとっては」
少し不快な浮遊感とともに、エレベーターが指定の階へたどり着く。慎が開ボタンを押して、芽榴に出るよう促した。
「楠原ちゃんをここに連れてくるのも、最後になるのかねぇ」
背後で慎が呟いた。芽榴が振り返ると、慎は目を眇めながら、芽榴の隣に並ぶ。
最後、というのはアメリカに行くことを指してのものだろう。そんなふうに思って、芽榴はほんの少し表情を曇らせた。
「……アメリカから帰ってきたら、またこんなふうに簑原さんが連行するんじゃないですか?」
「ははっ。……楠原ちゃんがそのときまでフリーならね」
「え?」
扉の前にたどり着き、芽榴は慎を見上げる。けれど慎は芽榴の間抜けな声にも反応せず、部屋のインターホンも押さない。スマホを少しいじると、持っていた紙袋から小さな箱を取り出した。
「はい」
慎は綺麗に赤い紐を結われた箱を芽榴に差し出す。慎が箱を取り出したその紙袋には、聖夜にあげるためのチョコが入っていたはずだった。
「簑原さん? これ……」
「それはあげる。思ったより、多くできちゃったからさ……余りもの」
嫌味のない、らしくない笑顔を浮かべて、慎は芽榴の手に箱を持たせた。
芽榴が口を開くのと同時、目の前の扉が勢いよく開いた。
「……慎」
現れたのはもちろん聖夜だ。スマホを片手に、慌てて出てきたのか、聖夜は微かに息切れしていた。
「よっ、聖夜。その様子は仮眠中だった~?」
慎はいつものようにケラケラと笑いながら聖夜に問いかける。聖夜にしてはラフな格好であるため、休んでいたところだったのかもしれないが、それにしても普通に身なりは整っていた。
「眠気も醒めるわ、アホ。芽榴連れてくるなら先に言えって言うとるやろ!」
玄関先にて恒例のごとく聖夜が切れた。聖夜の手にしたスマホの画面には『今、楠原ちゃんと玄関前に他待機~』という慎からのメッセージが映っていた。
「まあまあそう怒るなって。ほら、これバレンタインチョコ」
「……なんや、気色悪い。お前は俺の恋人か」
「ははっ、でもまあ聖夜と付き合えるのって俺くらいじゃね?」
「想像もしたくあらへんし、キモイな。帰って頭冷やしたらどうや」
聖夜はそんなふうに文句を言いながらも慎からのチョコを受け取っていた。その様子を、芽榴は少しだけ微笑ましく見つめる。
「ま、言われなくても俺は帰るって。マジで楠原ちゃん、届けただけだからさ」
「え」
芽榴が驚いて、慎の顔を見上げると、慎は薄く笑って芽榴のことを見下ろした。
両手をひらひら振りながら、慎は足をエレベーターの方へと動かす。
「じゃあな、楠原ちゃん」
「ま、待ってください。一緒にって……」
芽榴が慎の腕を掴む前に、慎は身体をよじって、芽榴の手を避けた。
「言っただろ、俺は嘘がうまいって」
慎の嘘はうまい。種明かしをされたところで、何がどこまで嘘なのかも芽榴には分からないのだ。
慎が帰ると言えば、帰る。だから芽榴はバッグの中から、慎のために作ったチョコを取り出した。
「これは、もらってください」
それすら断られそうな気がして、芽榴は無理やり慎の胸に押し付ける。
「簑原さんの望みどおり、日ごろの感謝の気持ちしか、入ってないですから」
念押しのために芽榴は言う。その言葉を聞いて、慎は複雑な顔をしてハハッと笑った。
「なら、もらう。……じゃあな、楠原ちゃん」
慎は芽榴のチョコを片手に、芽榴に背を向けた。嘘つきなその背中に、芽榴はまた声をかける。
「チョコ、ありがとうございます」
慎は振り返らない。けれどその代わり、チョコを持っていないほうの手をひらひらと振って、芽榴の言葉に返してくれた。
 




