#07
来羅の家の前、芽榴は立ち止まって深呼吸をする。
普通より少し大きな一軒家。来羅の家にやってくるのはクリスマス以来のこと。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。会いたいって言ったのは、ママのほうなんだし。……今はちゃんとカウンセリングも受けて、落ち着いてきてるから」
深呼吸をする芽榴を見て、来羅がそんなふうに声をかけてくれる。けれど芽榴は「いやいや」と首を横に振った。
「……どんな顔して会えばいいのか、分からなくて」
家族の問題に足を踏み入れるのはよくない。でもそうしたことを後悔はしていないのだ。ただ、気まずいだけ。
「いつものるーちゃんでいてくれればいいんだよ。るーちゃんは堂々としてて」
来羅は真剣な顔で言って、ドアノブに手をかけた。
以前にも嗅いだ来羅の家の香り。
来羅に招かれて、ラベンダーの香りが漂う家の中に、芽榴は足を踏み入れた。
「……おじゃまします」
ドアの開閉音で、芽榴が家に来たことに気づいたらしく、奥の部屋から人影が現れた。
来羅の父、春臣だ。
「やあ、芽榴さん。久しぶりだね」
柔らかい口調で春臣が芽榴を迎え入れる。
「とても綺麗だ」
春臣は感心するように言って芽榴に優しく微笑みかける。その笑顔は少し来羅と似ていた。
芽榴は気恥ずかしく思いながらぺこりと頭を下げる。
「お、お久しぶりです」
「……芽榴ちゃん」
続いて聞こえた声は、静かな薫子のもの。
芽榴は不安げに、ゆっくり顔を上げて、こちらに現れた彼女のことを見つめた。
「来羅ちゃんのお母さんも……お久しぶりです」
最後に会ったあの日より、薫子は痩せていた。もともと痩せ身の体がもっと痩せて、見ているだけで不安になるほどに、全身から体調不良があふれていた。
そうなった理由はおそらく来羅だ。けれど芽榴は無関係ではない。
「……あの、クリスマスのとき……私、無神経に勝手なことを言ってしまって、本当にすみませんでした」
芽榴はやつれた薫子の顔を見つめ、心からの謝罪を述べる。そして深く頭を下げた。
「め、芽榴さん。そんなっ、頭をあげて……」
春臣はそう言うが、芽榴は顔を上げない。
すると軽い足音が芽榴のもとに歩み寄った。
芽榴の目には薫子のスリッパが見える。芽榴の隣に立つ来羅が芽榴の腕を掴んだ。
「来羅ちゃん……」
視線を横に動かして来羅の姿を視界に収める。母の行動をうかがうような、来羅の姿がそこにはあった。
来羅がそばにいる。掴まれた腕がそれを実感させてくれて、芽榴の心が少しだけ落ち着いた。
「……芽榴ちゃん」
薫子の声から、彼女の感情はうかがえない。でも、何を言われても受け止める覚悟はある。芽榴はキュッと手を握りしめた。
「あの時は、私のほうこそ……ごめんなさい。見苦しいところを、見せてしまって」
芽榴がとっさに顔をあげると、申し訳なさそうな顔をした薫子の顔が映った。
芽榴を見つめる彼女の視界には、自然と来羅の姿も映り込む。今の来羅の姿を見て、やっぱり来羅の母は嬉しそうな顔をしない。来羅のことを直視できずに、彼女は複雑な表情のまま視線を下げた。
「……まだ、受け止めきれないダメな母親だけど」
できることなら、まだ来羅に女装をしていてほしい。それが薫子の願いだ。けれど彼女がそれを強要しなくなっただけでもかなり大きな進歩だ。それは芽榴にもちゃんと伝わっている。
「……芽榴ちゃんが言ってたとおり……来羅は、私のために、頑張ってくれたから。……私も頑張らなきゃ、ダメよねって」
彼女は彼女なりに、来羅と歩み寄ろうとしている。それは本来当たり前のことなのかもしれないけれど、来羅にとっては特別なこと。来羅の手に少し力が入ったのを、芽榴は感じ取った。
誰もが当たり前に持つ幸せを、手にできない人がいることを芽榴は自らの身をもってよく知っている。
だからこそ、来羅と同じくらい、来羅の母の言葉を嬉しく思えた。
「ゆっくりでも、いつか今の来羅ちゃんに笑いかけることができたら、来羅ちゃんはきっと喜んでくれますよ」
十年以上待って、また待つのは苦しいこと。でもきっと来羅なら、その苦しみもまだ受け止められるはずだから――芽榴は来羅のことを見上げる。
芽榴と気持ちは同じだったみたいで、来羅は強張っていた表情を、嬉しそうに崩した。
「うん。もちろん」
そうして、目の合わない母を、来羅は見つめた。
「私も、今度は逃げずに今の私で、ちゃんとママと向き合いたいな」
来羅は今できる精一杯の笑顔を薫子に見せてあげる。その瞬間だけは、薫子がちゃんと視線を来羅へと向けた。絡んだ視線が嬉しくて、来羅はニッと歯を見せて笑う。
そんな来羅を見て、薫子は視線を下げつつも、少しだけ口元を緩ませてくれた。
「……さあ、玄関にいつまでも芽榴さんを立たせておくのは失礼だよ。どうぞ、中へ」
紳士的な態度で春臣がそう切り出してくれる。芽榴は靴を脱いで、来羅が隣で用意してくれたスリッパに履き替えた。
そして持ってきたお土産を春臣と薫子の前に差し出す。
「あの、つまらないものですけど……プリンを作ってきて……よかったらみんなで食べてください」
芽榴がプリンの入った白いケーキの箱を薫子に渡すと、来羅が「え!」と声をあげた。
「るーちゃん、何も用意しなくてよかったのに!」
「いや……むしろ、急でこんなのしか用意できなくて申し訳ないです」
「こんなのじゃないよ。るーちゃんの手作りなんて……。パパ、ママ、それ本当においしいからね」
来羅が目の前でハードルを上げた。芽榴が遠い目をしているのを見て、春臣が優しく微笑んだ。
「芽榴さんの手作りといえば、文化祭の芽榴さんのクラスのスイーツもすごくおいしかったから、このプリンもとても楽しみだ。なあ、薫子」
「……ええ。とても、おいしかったわ」
春臣の優しい問いかけに、薫子もゆっくり答える。
家族全員にハードルをあげられてしまうと、もう少し立派なものを作ればよかったと芽榴は今朝の自分を後悔してしまう。
「ありがとう、芽榴ちゃん」
箱を両手で持って、薫子が芽榴に言った。
彼女の声音は少しだけ切なくて、その感謝にたくさんの意味が含まれているように、芽榴には聞こえた。
1階のリビングで少し春臣と薫子とお茶をした後、芽榴は来羅に連れられ、2階の来羅の部屋へとやってきていた。
はじめて入る来羅の部屋。メルヘン、というわけではないけれども、淡い色をベースにした家具やカーペットがかつての来羅を思わせた。部屋の隅には、生徒会室と同様に、ごつい機械がたくさん置いている空間もある。そんなわけで、部屋自体が結構な広さだ。
「広いねー」
「うん。もともとは2つの部屋だったのを、リフォームするときに合体してもらったの」
そうして来羅が機械の置いてある側と家具が置いてある側を交互に指さして教えてくれる。芽榴が「ほー」と感心していると、来羅が薄桃色の座布団を用意して、テーブルの上に紅茶を置いた。
「ありがとー」
芽榴がそこに座ると、来羅はテーブルの角を挟んで芽榴の隣に座った。笑顔でテーブルに頬杖をつく来羅を見て、芽榴も自然に頬が緩む。
「るーちゃんが来てくれてよかった。ママが今の私をどう思ってるのかも、聞けたし」
それは決して来羅にとっていい言葉ばかりではなかった。それでも、本音を聞けたことが一歩だと来羅は笑う。
「……なら、よかった」
少しでも来羅の役に立てたことが嬉しくて、芽榴ははにかんで笑う。すると、来羅が笑顔のまま芽榴のことをじーっと見つめてきた。
「な、なに?」
「やっぱりカワイイと思って」
来羅はそう言って少しだけ顔を近づけてくる。芽榴はやっぱり反射的に少し体を動かして身を引いた。
来羅がある一定の距離を壊して近づこうとすると、どうしても前髪を切ってもらったときの一件が頭をよぎる。
それに今は、昨日の来羅の意味深な発言も頭に浮かんできてしまうのだ。
不思議そうな顔の来羅と、グルグルしはじめる頭を落ち着かせたくて、芽榴は来羅の部屋をぐるりと見回す。
そして目についた、棚の一角に飾っている写真を指さした。
「かわいいのは、来羅ちゃんだよ」
「え?」
来羅は芽榴の指す先を目で追って、飾られた写真に視線を向ける。そこにはいくつか写真立てが置いてあった。メインに飾られているのは、文化祭の時の写真と、このあいだの修学旅行の写真。
その他にも、芽榴がみんなと出会う前の写真がいくつか飾られていた。
芽榴が興味津々にそれを眺めると、来羅がそれら全部のデータが入っているデバイスを持ってきた。
「ほら、来羅ちゃんが一番かわいい」
芽榴は画面をタッチしながら写真を見て呟く。修学旅行の写真と今年の体育祭以外はすべて、女装姿の来羅だ。誰が見ても納得するであろう『学園一の美少女』がそこに写っている。
「これ、中学の時の?」
制服が少しだけ違う写真は彼らが中等部の頃の写真だ。少し幼さがあるけれど、みんなその頃から整った顔立ちをしている。
「蓮月くん、このときもモテてたんだろーね」
芽榴はデバイスの中に入っていた、別の方を向いて作り笑顔をする風雅を見る。風雅の作った笑顔は好きではないけど、素直にかっこいいとは思うのだ。
「風ちゃん、かっこいい?」
「うん。ていうか、みんな」
芽榴はそう言って、別の写真の颯や有利、そして翔太郎を指差す。すると来羅が肩をすくめた。
「ふーん……。私は?」
「来羅ちゃんはかわいいって……」
芽榴がそう答えようとした瞬間、来羅がデバイスを操作する芽榴の腕を掴んだ。
「え……」
顔をあげると、来羅の顔が目の前にある。また腰を引こうとするけれど、腕を掴まれているから距離がとれない。
「今の私は、るーちゃんどう思う?」
こんなに近くで聞く必要などない。こういうことをされると、最近の来羅の言葉をまた勘ぐりはじめてしまう。勘違いはしたくないのに、芽榴の心臓が高鳴った。
「どうって……今の来羅ちゃんは、その、かっこいいよ」
「でも男には見えない?」
来羅がそう言って、芽榴の耳元に唇を寄せた。
「僕も、男だって……分かってる? るーちゃん」
顔に熱が集まった。芽榴は来羅の胸を押して、うつむく。顔が熱くて、今自分がどんな顔をしているかなんて、容易に想像がついた。
「あ、の……来羅ちゃん」
「なぁに?」
来羅はいつも通りの返事をする。だからまた分からなくなる。芽榴が意識しすぎているだけなのか、それとも本当に来羅が変わったのか。
芽榴が不安げに視線を上向かせると、来羅は優しく笑いかけてくれた。
「紅茶、冷めちゃったね。温かいの持ってくるよ」
そう言って、来羅は紅茶のカップを持って部屋から出て行く。パタンと扉が閉まって、芽榴は自分の両頬を押さえた。
「……変だよ」
自分が変なのか、それとも来羅が変なのか。
それすら分からなくなってきた。
グルグル回る頭は、恋愛に関するページだけやけに薄くできあがっている。答えの見つけようもないのだ。
そうして答えが導き出せないまま、紅茶を持って来羅が戻ってきた。
けれど戻ってきた来羅は何事もなかったかのように、芽榴の隣に座って、先ほどと同じようにデバイスの写真を芽榴に見せはじめた。
芽榴の考えすぎ。頭の中で、冷静な芽榴がそう答える。考えに終止符を打っても、芽榴のぎこちなさは止まらなかった。




