#04
芽榴が出て行った会議室。
にこりと笑う来羅を、颯は冷静な顔で見ていた。
「……私にも、お説教する?」
何も言わない颯を見つめ返し、来羅はそんなふうに尋ねる。颯は会議室の中に足を踏み入れて、来羅の座る席に腰を軽く預けた。
「しないよ。……できる立場じゃないからね」
「優しいね。颯が来なかったら、キスしてたかもしれないのに」
来羅は颯から視線をそらし、ポーチの中にハサミやくしを直しながら、呟いた。
あのとき、自分の切った前髪を照れくさそうにいじる芽榴が、とんでもなく可愛く見えた。化粧なんかしていない、普段の芽榴の姿だったけれど、あのときの芽榴は、来羅の思考が一瞬止まるくらいに可愛かった。
本当に無意識の行動。颯が来なかったら、そのまま何をしていたか、来羅にも分からない。
「お前は、しないよ」
「……どうして?」
「僕たちの気持ち以上に、芽榴の気持ちを尊重するはずだから」
来羅が芽榴にキスをしかけた、その瞬間を見てもまだ、颯はそんなことを言ってくれる。その信頼が切ないけど、でも嬉しくて、来羅は複雑な表情のまま視線を下げた。
「ごめんね、颯」
来羅にとって、颯はとても大事な友人だ。
風雅も、翔太郎も、有利も。
だからこそ、どうして同じ子を好きになってしまったのだろうと、何度も何度も思って悩んだ。
「私の一番は……るーちゃんだよ」
でも何度考えても、同じ答えに辿りつく。
「だからもう、お人好しの来羅じゃいられないや」
ずっと一緒にいた仲間だからこそ、同じ想いを手にして、同じ想いに傷つくのだろう。
出会ったときから、それは決まっていたのだ。
「楠原の前髪、何度見てもすっげー短いな」
滝本が芽榴のノートを写しながら、ボソッと呟いた。
今は、現国の授業中であるが、先生不在のため、自習だ。
指定された自習課題をさっさと済ませた芽榴は、そのノートをちゃっかり滝本に見せてあげている。ちなみに芽榴自身は古文単語帳の丸暗記をしているところだ。
滝本に指摘され、芽榴は「うーん」と唸るような声を出しつつ、前髪を触る。
来羅に整えてもらったのは、つい昨日のこと。
来羅の言っていたとおり、みんなには好評だったのだが、やはり見る人によっては変なのだろうと、芽榴はため息を吐く。
「別に似合ってないとか言ってねーからな!」
芽榴のため息を聞いて、滝本が焦ったように声を上げた。それを聞いていた男子クラスメートが何人か、ケラケラと笑っている。
「滝本のフォローをするつもりはないけど、ほんと、いい感じに切ってもらったね。さすが柊さん」
舞子が芽榴の前髪を一房すくい上げて、感嘆するように言った。
「私も切ってもらいたいくらい」
「……お前が前髪短くすんのか」
「何よ。似合わないって言いたいの?」
「いや、想像つかねーだけ」
という感じで、滝本のいらぬ一言により、仲良し喧嘩が芽榴の目の前で開催された。
それから数回のやり取りがあった後、滝本が「別に似合うんじゃねーの」という彼にしては気の利いた一言により、ケンカが収集した。
「にしても柊さんか……。最近、本当に男だったんだなってことを実感してる」
滝本がしみじみといった様子で呟く。
もともと来羅は男なのだが、来羅の完璧すぎる女装は男子の感覚も狂わせていた。
「マジで別人なんだよな」
「……そーかな?」
確かに見た目の男らしさと女の子らしさはだいぶ違うが、性格は変わらない。優しいところも気が利くところも、女子力の高いところも。
そう思っていたのだが、ふと芽榴の頭に昨日の来羅の顔が浮かんだ。
あのときの来羅は少しだけ、女装をしていた頃の来羅とは、表情も声音も違った。
「……芽榴?」
くすぐったい気持ちを隠すように、表情を少し強張らせた芽榴を見て、舞子が不思議そうな顔をした。
首をかしげる舞子を前にして、芽榴は甘噛みしていた唇をニッと笑顔に変える。
「ううん、なんでもない」
昨日のことは忘れよう。そう思いながら頭を振って芽榴はごまかしてみる。
そんな中、校舎の外からものすごい勢いの女子の歓声が響いた。
「んんっ、なんか騒がしいな」
「役員の誰かが体育してるんでしょ」
芽榴の座る席は校門が見える立地。校庭、グラウンドが見えるのは廊下を出て、階段の方へ行った先の廊下の窓だ。
グラウンドの様子が気になったらしく、F組女子が何人か、廊下に出て行った。
「芽榴も行く?」
「ううん。授業中だし、あんまり廊下で騒がしくしたら、他のクラスに申し訳ないから」
「それもそうね」
一度立ち上がろうとした舞子だが、芽榴の意見に賛成して座り直す。
すると廊下から戻ってきた女子生徒が興奮ぎみに騒いだ。
「い、今、柊さんが体育してて!」
その言葉に、芽榴も少し反応した。
女装していた来羅は、あまり体育には乗り気じゃなかった。ウィッグをつけて生活していたため、あまり激しい運動はしていなかったはずだ。本当に成績に反映するテストの時くらいしか、来羅がまともに体育をしていた記憶がない。
実際、あの来羅が参加すると、男子がデレデレしてしまい授業にならない一方で、来羅が試合の審判や測定係をすると授業に活気が出るという、負のスパイラルから、それが黙認されていた。
でも今の来羅は、もう何も、気にすることがない。
「サッカーしてるんだけど、や、やばいの!」
「柊さんが?!」
男子バージョンの来羅がサッカーをしている。その事実に好奇心を掻き立てられ、まだ教室で自習を続けていた女子も全員教室を出て行った。
そして、そう時間も経たないうちに、どこかのクラスで授業をしていた先生の怒鳴り声が聞こえた。
クラスメートがしょんぼりした様子で帰ってくるが、その顔はどこか幸せそうだ。
「あぁぁぁ……私、ずっと神代くん推しだったけど揺らいだ」
誰かがそう呟いた瞬間、女子がクラス内で談義を始めた。
「めっちゃかっこよかったぁ。なんで今まで女装してたんだろうって感じ」
「あの調子だと、来羅くんファンクラブができちゃいそうじゃない?」
そんな騒ぎを、芽榴はボーッと聞いている。来羅が「来羅くん」と呼ばれることに、少しだけ違和感を覚えた。
「来羅ちゃん、人気だねー」
「うん。修旅からずっとあのままだしね。女子の噂の9割は柊さんだよ」
驚きはしない。あの来羅がモテるのは当然のこと。
「告白してる子も何人かいるって聞いたよ。で、告白した子はみんな、言うことが同じなんだって」
部活仲間から聞いた話なのだろう。舞子の教えてくれるプチ情報に、芽榴は首を傾けた。
「すっごく、冷たいんだって」
「へ?」
「告白の返事がね、葛城翔太郎以上に冷たいらしいの」
付け加えられた言葉に、芽榴はもっと目を丸くした。
来羅はいつもにこやかで、優しい。女子への採点が厳しいとは、本人からも役員の誰かしらからも聞いてはいるが、少なくとも芽榴の前では優しい来羅だ。芽榴と一緒にいることの多い舞子の前でもそう。
「でもまあ、想像はつくよ。女装のときは基本男子が寄ってるから、あんまり気にならなかったけどさ。体育祭のときも修学旅行のときも、そうだったじゃん」
どちらも来羅が男の姿で挑んだ行事だ。そのどちらのときも来羅はいつも浴びない女子からの熱烈な視線を浴びていた。そして、彼はどこか、面倒そうな、冷めたような目をして周囲を見ていた。
「もう溢れんばかりの特別感よね。女装をやめたら特に顕著だよ。芽榴への特別扱いが」
「まー……同じ役員だしね」
「あんたはそれの一点張りよね、もう」
特別扱いというよりは、おそらく信頼してくれているだけなのだ。なぜなら、来羅は他の役員にも同じように優しく笑いかけるのだから。
だから、芽榴が単体で特別なわけではない。
「でも来羅ちゃんに笑いかけてもらえるのは、嬉しいよ」
来羅から信頼されているという事実は、素直に嬉しいことだ。だからそんな彼が、今まで以上に人気者になるのなら、それはとても嬉しいこと。ただ――。
「ああ……卒業まで女装しててほしかったなぁ、俺は」
「柊くん、かっこよすぎだよね!」
来羅を男子として見るようになった証拠のように、みんなの来羅への視線が変わり始めたことが、やっぱり少しだけ違和感だった。




