#01
「ただいまぁ」
修学旅行から帰ってきた来羅を見たとき、出迎えた来羅の父はとても驚いた顔をしていた。母は予想していた通り悲痛な表情を浮かべて。
それも仕方がないことだった。
出発のとき、来羅は女子の制服を着て家を出て行ったのだから。
「来羅……男子の制服、似合ってるじゃないか」
父、春臣は少し掠れた声でそう言った。けれどそれが取り繕った言葉ではなく、春臣の心からの言葉であることも来羅は理解できていた。
「ありがと。採寸ぴったり」
だから来羅もいつも通りの笑顔を父に返した。
「はい、お土産」
そうして来羅は母、薫子に声をかける。薫子のために買ってきたお土産を手にして父に返したものと同じ笑顔を彼女にも向けた。
クリスマスのあの一件から、来羅と薫子の関係は変わった。あの日がなければ、来羅は今も偽りの女の子を演じたままでいただろう。そして薫子は来羅のお土産を受け取って笑顔で「ありがとう」と言ってくれたのだろう。
あの日から少しずつ母の前でも男の子の姿を見せるようにしていた。それでも完全に女装を止めることはできずにいた。
薫子にいきなり大きなショックを与えることができなかったこと、学園のみんなの反応が怖かったこと、やめられなかったのにはいろんな理由があった。
それでも、やめた理由はたった1つ。
「らい、ら……」
薫子は来羅のことを直視しない。けれど目の前にいる麗龍学園の制服を着た男の子が来羅であることをちゃんと認識してくれた。
「……ありがとう」
薫子の笑顔は見られない。それでも来羅には十分だった。
いつかこの姿の自分にも笑いかけてほしい。そう思いはするけれど、今はまだこの姿の自分に言葉を返してくれる、それだけで十分。
「どういたしまして」
来羅は笑わない母の代わりに、とびっきりの笑顔を見せてあげる。そして「着替えてくるね」と部屋へと駆け上がった。
ラフな格好に着替えて来羅は再びリビングに戻る。ちょうど薫子が夕飯を、キッチンからリビングへ運んでくるところだった。
来羅はすでにテーブルにいる父の向かい側に座る。
「ふぅ、お腹すいちゃった」
可愛らしい言葉遣いは変わらない。けれど男子の制服を脱いだ今も、来羅は女装をしていなかった。そんな来羅を見て、目の前の父が優しい顔で問いかけた。
「修学旅行で何かあったのかい?」
来羅が女装をやめたのだと父は察していた。そしてそのきっかけは、修学旅行にしかない。
来羅は明確な理由を思い浮かべて、頷いた。
「うん。……好きな子に、ちゃんと男の子の姿で向き合いたいって思ったから」
好きな子。来羅はそう、はっきり口にした。
女装をしていたら、その『好き』を簡単に冗談にできる。弱い自分が冗談にしてしまう。
「もし叶わなかったときに、女装を言い訳にしたくないから」
きっと女装を続けたままでいたら、もし想いが届かなかったとき、想いを届けられなかったとき、それを『私は女装していたから』と言ってしまう。
だから来羅は女装をやめることを決意した。
「その好きな子は……芽榴さん、だね?」
父は確認するように問う。来羅も頷いてそれを肯定した。
すると薫子が2人のもとにやってきて、テーブルの上に静かに皿を置いた。
「わぁ、おいしそう!」
来羅は置かれた料理を見て喜ぶ。空元気ではない。
薫子が来羅のためにご馳走を作って待ってくれていたことが素直に嬉しかったのだ。
「……来羅」
ぎこちないけれど、薫子は来羅の名を呼んでくれる。来羅は「なぁに」と変わらない明るい声音で返事をした。
「近々……芽榴ちゃんを、家に連れてきて」
「……え?」
来羅は少しだけ顔を引きつらせる。
父との会話で芽榴の名が出たからこそ、母も芽榴の話題を提示してきたのだろう。
けれど芽榴と薫子が最後に会った日の記憶はあまりいいものでない。薫子の中で芽榴の印象が悪くなっていてもおかしくはない。そんな中で薫子が「芽榴を呼べ」と言うことに、来羅は焦っていた。
「ま、ママ……あの」
「……あの日のことを、謝りたいの。……ひどい姿を見せたこと」
薫子は小さな声で言った。
来羅はそれに驚いて即座に父の顔を見る。父も同様に驚いた顔をしていた。
「……それと、お礼も」
すべてが壊れたと思っていた。
来羅と薫子の関係も。薫子自身も。
でもどんなに壊れても壊れきれていないものが、少しだけあった。そんなことも芽榴がいなければ気づく機会さえ与えられなかったのだろう。
「うん!」
来羅は元気に返事をした。
喜ぶ来羅を見て、父は優しく笑っている。母もほんの少しだけ表情を柔らかくしてくれたように来羅には思えた。
女装をやめた瞬間から、来羅を取り囲む景色は変わる。
それは家の中だけでなく、学校の中でもそう。
女装をしているあいだは男子生徒からの視線をいつも感じていていた。
でも女装をやめた途端に男子生徒からの視線は半減、代わりに女子生徒からの視線を刺さるくらいに浴びていた。
「柊、さん。さっきの授業で分からないところがあったんだけど……よかったら教えてもらえる?」
窓側の席の女子2人がわざわざ廊下側の来羅の席に赴いて、そう問いかけてきた。
女装をしている頃は、男子生徒からよくそうやって声をかけられていた。
女子生徒からその手の声かけをされるのは、初めてではないけれど新鮮だった。
柊来羅は男子だ。それはみんなが分かっていたこと。
けれど完璧に女装をこなしていた来羅を、本当の意味で男子だと思っていた人は多くない。
今ここで、男子生徒が離れていったことも、代わりに女子生徒が近づいてきたことも全部、理由は柊来羅がちゃんと男であることを示したからだ。
「だめ、かな?」
「……いいよ」
遠慮がちに聞いてくる女子生徒に、来羅は勉強を教えてあげる。
きっと風雅なら愛想笑いを浮かべて優しく教えてあげるのだろう。でも来羅はそうしない。
淡々と、女子生徒の知りたいことを教えてあげると、すぐに頬杖をついて視線を窓の外、廊下へ投げた。
すると、来羅の視界に男子の制服が映り込んだ。
「来羅、数学の教科書貸して!」
風雅が教科書を借りにやってきた。
来羅は少し慌てた様子の風雅を見て、クスクスと笑った。
「忘れたの?」
「そう! 引き出しに入れっぱなしだと思ってたんだけど、家に持って帰ってたみたいで!」
「それ、颯が聞いたらお説教よ? 家でちゃんと勉強してればそういうことにはならないって」
「うわぁ、颯クン、言いそう。来羅……内緒にしてね」
風雅はシーッと人差し指を立てて懇願してくる。
来羅が女装をしようと、女装をやめようと、彼の態度は変わらない。それは風雅に限らず、颯も有利も翔太郎もそうだ。
「るーちゃんに借りなくていいの?」
来羅は笑顔で尋ねる。すると風雅はため息を吐いて眉を下げた。
「借りるつもりだったんだけど。今日、F組は数学の授業ない日だから」
「あぁ、そういうこと。……でも、自分のところの時間割はあやふやなのに、F組の時間割は完璧ね」
「そうなんだよ。これは本当に愛の力だと思う」
「へぇ……颯にもそう言っておいてあげ」
「やめて! マジでやめて! 本心だけど、マジで殺されるから!」
風雅に肩を揺らされて、来羅は「ごめんごめん」と謝った。
「じゃあ、終わったら返しに来る!」
「はぁい、待ってるわ」
来羅はひらひらと手を振って、風雅を見送った。
放課後、ホームルームが終わるとすぐに来羅は帰りの支度を整える。荷物を全部鞄に詰め込んで、そのまま近くの扉から教室を出て行った。
廊下を歩いていると、どの方向からも視線を感じる。
自分が通り過ぎた後、みんな何かをコソコソ言い合っていて、その話題が自分であることも来羅は分かっていた。
女装をやめたら、こういう面倒な視線を浴びる。最初から分かっていた。分かっていたけれど、やっぱり気分のいいものではなかった。
「はぁ……」
「あ、来羅ちゃん」
来羅がため息を吐くのと同時、落ち着いたその声が来羅を呼び止めた。
その声を聞いて来羅はすぐに後ろを振り返る。顔には自然と笑みが浮かぶ。後ろ姿の来羅でも迷うことなく声をかけてくれる女の子は、たった1人だ。
「るーちゃん」
振り返った先には芽榴がいた。
芽榴は目の前が隠れてしまいそうなほどに資料を積み重ねて運んでいる。
「松田先生のお手伝い?」
「そうそう。最後の最後まで使う気だねー」
芽榴の口から「最後」という単語はあまり聞きたくない。
そんな気持ちが来羅の顔に出てしまっていたのか、芽榴は来羅の顔を見て「ごめんね」と苦笑していた。
「来羅ちゃんはもう生徒会に行くー?」
「うん、そのつもり」
「そっか。じゃあ私、あともう1ラウンド資料運びあるから、少し遅れるって伝えておいてくれるー?」
芽榴はそう言って、来羅とは別方向――階段の方へと向かおうとする。
けれど来羅は自分に背を向ける芽榴を引き止めた。
「私も手伝うよ」
そう言って、来羅は芽榴から資料を半分奪った。
「え、いーよ」
「よくないよ。ヨタヨタしてて危ないわ」
来羅は肩をすくめながら指摘する。そう指摘されると、芽榴は何も言えなくなる。
一年前、たくさんプリントを積み重ねて歩いていたがために有利とぶつかってしまったのだ。
危ないと分かっていても、また大量に積み重ねて歩いていたのは早くパシリを済ませて生徒会に行きたいからだった。
「軽いほうが早く持って行けるし、すぐ終わるでしょ? 私としても、るーちゃんには早く生徒会に来てもらいたいし。2人でさっさと終わらせちゃいましょ」
来羅は優しく言ってくれる。
だから芽榴もその好意に甘えることにした。
「なんだか新鮮」
階段を上りながら芽榴がそう呟く。来羅は「何が?」と言って首を傾げた。
「松田先生のパシリを手伝ってくれるのって、いつも藍堂くんだったから。……来羅ちゃんに手伝ってもらうのは新鮮だなーって」
芽榴は「ありがとー」と笑った。
自分に向けられる笑顔が嬉しくて、来羅の顔からも笑顔が溢れる。
ありがとう、を言わなければいけないのは来羅のほうだった。
「るーちゃん」
階段を上り終えて、来羅は立ち止まる。来羅が呼びかけると、芽榴はすぐに振り返ってくれた。
「んー?」
「今度、お家に遊びにおいでって。……ママが」
来羅がそのことを伝えると、芽榴の表情が少しだけ曇る。
「……いいの? 私、すごく出しゃばっちゃったし……来羅ちゃんのお母さんにも失礼なこと言っちゃって……」
「そんなことないよ。私は……私もパパも、ママも、るーちゃんには感謝してる」
「……でも」
「今、私がこうしていられるのはるーちゃんのおかげだよ」
来羅は真剣な顔で芽榴に伝えた。
芽榴はまだ不安な顔をしていたけれど、来羅の言葉を聞いて困り顔のまま笑った。
「なら……お邪魔させてもらうね。あの日のお詫びと――」
芽榴は左手を資料から手放して、来羅の短い髪に触れた。
「今の来羅ちゃんを認めてくれた、お礼を言いに」
芽榴は嬉しそうに微笑んでいた。
来羅が来羅らしくいることを、芽榴はこんなにも喜んでくれている。
芽榴にとって、来羅が女装をしようが男の姿でいようが、それは他人事なのに、芽榴はいつだって自分のことのように考えてくれていた。
「ありがとう、るーちゃん。……大好き」
芽榴は「私もー」と言ってカラカラと笑う。
芽榴のことが好き。本当に好きだ。
そう、来羅は自分の気持ちを再確認していた。




