#18
それぞれが仕事を終えて生徒会室に戻った時、芽榴と翔太郎は静かに仕事をしていて、時々お互いに文句を言い合っていた。その姿はいつも通りの2人の様子。
けれど昨日今日の事件を経て、2人が『いつも通り』でいることはつまりそういうこと。
芽榴と翔太郎が互いに想いを伝えあったことは、芽榴たちがわざわざ報告せずとも役員には簡単に理解できた。
だからこそ、その日は「誰が芽榴を送るか」という議論にもならず、あみだくじも登場しなかった。まるで暗黙の了解みたいにして、芽榴と翔太郎は一緒に帰り道を歩いた。
「あらぁ? 翔太郎くん、今日は芽榴ちゃんと『特訓』しないの?」
芽榴を玄関先まで送り届けた翔太郎に、真理子が尋ねる。
もうすでに楠原家では、翔太郎が送り届ける=翔太郎が家にあがるという方程式ができあがっていた。
「今日はもともとここに寄るつもりでもなかったので。家事を全然済ませてきていないので、帰ります」
翔太郎は真理子に軽く頭を下げる。
いつもは芽榴の家に寄って遅くなることを予想して、朝のうちに諸々の家事を済ませてきていたらしい。けれど今日は芽榴を送る予定ではなかったため、翔太郎は少し家事を残していたのだ。
「あ……。そうなのね。でも、翔太郎くんは家事もできるってことよね! すごいわぁ」
「別にすごいというほどのことは。……楠原みたいに料理の品数が作れるわけでもないですから」
「比べる相手間違えてるわよーっ! じゃあ、今日は翔太郎くんとのおしゃべりもこれで終わりかぁ」
真理子は残念そうに肩をすくめ、けれども次の瞬間には優しく翔太郎に笑いかけた。
「これからも芽榴ちゃんをよろしくね、翔太郎くん」
真理子に笑いかけられた翔太郎は、まだ少し固い表情で笑って頷いていた。
芽榴はそんな翔太郎を笑顔で見つめ、彼のコートの袖口を軽く握った。
「送ってくれて、ありがと。また明日ねー」
「ああ」
翔太郎はさっきまでの固い笑みとは一変、やわらかい笑みを浮かべて芽榴の頭に軽く手を乗せる。
そうして真理子に頭を下げ、楠原家を後にした。
「……で、芽榴ちゃん。翔太郎くんと進展があったのかな?」
翔太郎の後ろ姿が見えなくなり、真理子がニヤニヤと期待満々の笑みを浮かべながら芽榴に問いかけてくる。
聞かれた芽榴は目を大きく見開いた。
「え、なんで……」
「見れば分かるわよ。距離感が全然違うもの」
真理子に言われて芽榴は照れ臭そうに頰をかく。
お互いに今の気持ちを伝え合って「好きだ」と言って、芽榴自身、昨日までとは距離感が変わった気がしていた。
でもそれはあくまで自分たちのあいだでの話だと思っていたために、真理子の指摘は今の翔太郎との関係を強く意識させる。
「うん。……少しだけ、進展したかな」
遠慮がちに答える芽榴を見て、真理子はクスリと笑っていた。
次の日、芽榴はいつもより早い時間に学校へ向かっていた。
昨日の朝広まっていた噂は放課後の時点でほとんど消えていて、今日いつも通りに来ても昨日みたく騒がれることはなかっただろう。
けれど念のため、芽榴はあまり生徒が来ていない早い時間に学校へとやって来た。
2学年棟の昇降口をくぐって、芽榴はそこで立ち止まった。普通に登校するには早い時間。
男子制服を来た美人がこちらへとやってきた。
「あら……るーちゃん」
芽榴の存在に気づいた来羅が驚いた顔で芽榴のことを見つめている。
けれど芽榴の方も、来羅と同じくらいには驚いた顔をしていた。
「来羅ちゃん。……早いね」
来羅は荷物を持っていない。加えて靴を履いて昇降口を出て行こうとしていた。おそらくすでに教室に行って荷物は置いてきたのだろう。
「昨日、卒業式の飾りを作り終わらなかったから。今日颯に怒られないように、今のうちにある程度作っておこうと思って」
だから体育館に行くのだ、と来羅は言った。
昨日卒業式に向けて設営作業をしていたのは来羅だけじゃない。風雅と有利も一緒だった。
「蓮月くんと藍堂くんも?」
「ううん。今日は早く目が覚めちゃったし、なんとなく気が向いたからってだけ」
来羅はニコリと笑う。そしてそのまま芽榴に「じゃあまた」と言って昇降口を出て行こうとしていた。
けれど来羅がするのはあくまで生徒会の仕事。聞いたからには芽榴も放ってはおけない。
「来羅ちゃん、私も手伝うよ」
「え?」
芽榴が踵を返して、昇降口を出る方向へと足を向ける。
来羅は芽榴の行動に驚きを見せたが、次の瞬間には困り顔で笑っていた。
「気にしなくていいのに。……ありがとうね」
芽榴は来羅と一緒に第1体育館の方へと向かった。
朝の体育館は冷え込んでいて、マフラーとコートを着ていてもまだ寒かった。
「るーちゃん、足寒いでしょ。私のマフラー、ブランケット代わりにしていいわ」
来羅は自分の巻いていたマフラーを外して、芽榴の膝元にかける。
けれどそうすると来羅の首が寒そうで、芽榴は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね」
「いいえ。手伝ってもらうんだから、これくらいはさせて。るーちゃんがいたら進みも早いし、助かるんだから」
来羅は優しく笑いかけてくれる。変わらない来羅の態度と優しさに芽榴は少しだけホッとしていた。
来羅と最後に話したのは、一昨日。
翔太郎の気持ちを知って、来羅の気持ちを知って、顔を合わせても何も話せずにいた。
たった2、3日のこと。でもほとんど毎日来羅とは話をしていたからか、たったそれだけの日にちがとても長い時間に感じられた。
「るーちゃん」
来羅は飾り用の和紙を丁寧に折りながら、静かに芽榴に声をかける。芽榴は声を出すことなく、視線だけを来羅に向けた。
「翔ちゃんを、よろしくね」
来羅の声が静かな体育館に響く。
芽榴と翔太郎がうまくいったことは、昨日の時点で役員全員に伝わっていた。
だから来羅のその発言に何のおかしなところもないのだが、芽榴は表情を曇らせてしまう。そんな芽榴を見て、来羅は眉を下げた。
「るーちゃん。そんな顔しないで。そりゃあ、私だって傷ついてないわけじゃないけどね?」
「……ごめ」
「それは言わないの」
謝ろうとした芽榴の唇に、来羅が人差し指を当てた。
「前に言ったでしょ? 振られたからって、好きな人のことを嫌いになったりはしないって。誰と付き合ってもそうよ」
以前、来羅はそう言っていた。滝本に告白されて不安になっていた芽榴に、来羅はそう言ってくれた。
あのときの言葉を、来羅は今もまた繰り返してくれる。
「でも、ひとつだけ聞いていい?」
来羅の静かな問いかけに芽榴は首をかしげる。そんな芽榴のしぐささえも来羅は愛おしそうに見つめていた。
「もし……るーちゃんの暗所恐怖症を1番に知っていたのが私だったら、るーちゃんは私を好きになってくれた?」
それが芽榴と翔太郎の1番大きくて深いつながり。それがもしなかったら、芽榴が翔太郎を好きになっていたかは分からない。
そのつながりがあったからこそ、芽榴と翔太郎はお互いに弱い自分を見せることができて、寄り添い合うことができたから。
もしそのつながりが翔太郎ではなく、来羅とのものだったら――。
「たぶん――来羅ちゃんと距離を置くと思う」
芽榴は、来羅の目を見てはっきりと答えた。予想していない答えだったからか、来羅は目をまんまるにして不思議そうに芽榴のことを見ていた。
「私の暗所恐怖症を知ったら来羅ちゃんはすごく心配してくれる。きっとたくさん心配してたくさん私に気を遣うと思う。来羅ちゃんだけじゃなくて、たぶん他のみんなもそう」
芽榴は修学旅行の夜、有利の部屋での一件を思い返していた。
あのとき有利はすぐに気付けなかったこと、部屋が暗くなる可能性を最初に考えられなかったこと、有利は負う必要のない責任を感じて自分を責めていた。
きっと来羅も颯も、風雅さえも芽榴のことを心配して自分を責めてしまう。
「それが申し訳ないから、私はたぶん距離を置いてしまうと思う」
「でも……翔ちゃんだってるーちゃんのこと心配して……」
「うん。葛城くんはね、いつもちゃんと心配してくれてた。でも全然心配してる素振りなんて見せなくて……だから半年近くずっとみんなにも内緒にしてくれた」
翔太郎の心配がみんなより薄いというわけではない。翔太郎はみんなと同じくらい芽榴のことを心配してくれていた。
けれど翔太郎はそういう性格だから、芽榴への心配を前面に出すようなことはしない。それが芽榴にはちょうどよかった。
人によってはそっけないとか、冷たいとかそういうふうにとってしまいそうな行動が芽榴にはちょうどよくて、だからこそ芽榴は翔太郎に頼ることができた。
「だから……暗い部屋が苦手なこと、1番に知ったのが葛城くんでよかったって……私はそう思ってる」
翔太郎でも、誰でもよかったのではない。翔太郎だからよかった。
芽榴の迷いのない答えは来羅の心に突き刺さるけれど、だからこそ来羅には心残りがなかった。
「……そっか」
来羅はうつむいて深く息を吸い込む。
そして吸い込んだ息を吐きだすようにして、あははと笑った。
「それじゃあ……翔ちゃんと一緒なら、暗所も克服できそうだね」
「……え。来羅ちゃん、知ってたの!?」
「うん、翔ちゃんに鎌かけて聞いたの。まあ颯なんかは聞かなくても分かってそうだけど。それで……どう、克服できそう?」
来羅が花飾りを作りながら笑顔で問いかけてくる。
芽榴は翔太郎と過ごした時間を思い返して薄く笑った。
「できたよ。……だから、もう何も怖くない」
芽榴はそう答えて、続きの言葉を迷う。
これ以上何も言わないのが正しい選択なのかもしれない。芽榴が言おうとしている言葉はずるいだけ。
そう分かっていても、寂しそうに笑う来羅を見ていたら芽榴は口を閉ざすことができなかった。
「でもね、でも克服できたのは葛城くんだけのおかげじゃないよ。……来羅ちゃんのプラネタリウムのおかげ。来羅ちゃんのおかげでもあるんだよ」
来羅の気持ちに答えられないのに、こんなことを言うのはずるい。
分かっているけれど、芽榴は大好きな来羅にちゃんと感謝の気持ちを伝えたかった。
そんなことを考えて複雑な表情を浮かべる芽榴に、来羅はやっぱり優しい声をかけてくれる。
「そっか。私も少しはるーちゃんの力になれたんだね」
来羅が笑顔で頭を撫でてくれる。
身にしみる優しさが痛くて、苦しい。それでもそばにいてほしいと願う。
「大好きよ、るーちゃん」
もう「私も」とは返せない。芽榴は作りかけの花に涙がこぼれないように、目にたまる涙を腕で拭った。
「……ありがとう。来羅ちゃん」
冷える体育館。冷たい床。
それなのに膝にかけた来羅のマフラーが、芽榴にはとても暖かく感じられた。




