#15
家に帰りついた芽榴は部屋に籠っていた。
「芽榴姉、ご飯できたよ。……下りてこられる?」
扉の向こう側、圭がノックして遠慮がちに聞いてくる。
家族の前で泣いたわけじゃない。でも颯の胸で泣いて、その涙の痕はしっかり頬に残っていた。
「うん。ちょっと、キリがいいとこまで問題解いたら下りるね」
明るい声を振り絞る。
芽榴の返事を聞いて、圭の足音がゆっくりと遠のいていった。
「……うっ」
人の気配が消えて、再び芽榴の目から涙が零れ落ちる。勉強なんてしていない。芽榴はずっと扉を背にしゃがみ込んでいた。
涙腺が壊れたみたいに、気を抜けばすぐに涙が流れていく。
「葛城くん……」
こんなときでも――否、こんなときだからこそ翔太郎のことを思いだしていた。
「……やっぱり、1人は怖いよ」
芽榴は今、暗い部屋の中にいる。
逃げ隠れるように部屋に来てからずっと、明かりもつけずに扉を背にして座り込んでいた。
本当に怖いわけではない。怖くないわけでもない。
翔太郎のおかげで、暗い部屋に怯える気持ちはたしかに和らいでいた。
けれど今、ここに翔太郎はいない。
もう二度と、翔太郎が来ることはない気がした。
――じゃあ今は、好きってことかー――
――……まぁ、そういうことだな――
昨日の芽榴の言葉を翔太郎はどんな気持ちで聞いて、どんな気持ちで返事をしたのだろう。
――ああ……好きだ――
あのときの翔太郎の顔を思い出して、芽榴は膝に顔を埋める。
臆病な芽榴は逃げ出してしまった。あのときちゃんと翔太郎と向き合うべきだった。
生徒会室に戻ってきた芽榴と、翔太郎は目を合わそうとはしなかった。
翔太郎の気持ちに芽榴は何と答えればいいか分からない。
翔太郎の想いも、来羅の想いも、颯の想いすらも全部知って、芽榴の心はぐちゃぐちゃだった。
――私も、るーちゃんが好きだよ――
「来羅ちゃん……」
涙が止まらない。
来羅のことだって翔太郎と同じくらい好きだった。みんなのことが同じくらい好きだった――はずなのに。
どうして、と疑問が頭を打ち付ける。来羅を傷つけたくなかったのに、頷くことも黙ることもできなかった。来羅に告白された瞬間、芽榴の頭に浮かんだ姿は翔太郎だった。
そして反射的に芽榴は来羅に「ごめん」と伝えていた。
でもだからと言って、芽榴は翔太郎と付き合いたいわけではなかった。
翔太郎の想いを知ったとき、芽榴の頭は真っ白。嬉しいという気持ちも、喜びも、何も頭には浮かばなかった。
芽榴はただ、翔太郎に『馬鹿か、貴様は』と呆れ顔で笑ってほしかった。
また、おまじないと称して元気づけてほしかった。
翔太郎にそばにいてほしかっただけだった。
「でも……ダメなんだ」
翔太郎の気持ちを知ってしまったから。
翔太郎が芽榴のことを好き。でも芽榴は自分の気持ちが分からない。恋愛と友情のはざまで揺れる、曖昧な気持ちの答えを出せずにいる。
答えの分からないまま、期待させるように翔太郎のそばにいるわけにもいかなかった。
「怖い……」
ぐちゃぐちゃな気持ちは答えを埋め尽くして芽榴から隠してしまっていた。
けれど芽榴たちの関係が崩れ始めるのと同時に、学園でも1つの噂が瞬く間に蔓延していた。
「楠原さん……おはようございます」
朝、学園にやってきた芽榴は背後から聞こえたその声に肩を揺らす。あからさまに驚いて後ろを振り返ると、有利がそこにいた。
「藍堂くん。……おはよ」
芽榴は緊張しつつもゆっくりと挨拶を返す。
有利は芽榴が今唯一まともに顔をあわせることのできる相手だった。
ぎこちない芽榴の返事に有利は少しだけ苦笑していた。
「せっかくですから、一緒に教室まで行きませんか?」
どうしても気まずい雰囲気を作り出してしまう芽榴に、有利は優しく問いかける。いつもなら「一緒に行きましょう」と言ってくれるのに、今の有利は芽榴の意見を何よりも尊重してくれているようだった。
「ごめんね、藍堂くん。……私、下手くそで」
「前みたいに無理されるよりは、分かりやすくていいですよ」
有利はそんな優しいことを言ってくれる。
その優しさが、芽榴への特別な気持ちから来るものなのか。今まで考えもしなかったことを、今はどうしても考えてしまう。
来羅の言う通り、有利も芽榴のことを想っているのか、と。
「楠原さん? どうかしました?」
知らず、芽榴は有利の横顔を見つめていた。
不思議そうな有利の顔が芽榴を覗き込んで、芽榴は慌てて彼から目を逸らした。
「えと……」
「あ、きたきた。楠原さんだ!」
「あれ……? でも藍堂くんといるけど」
有利と一緒にクラスのある3階までやってきた。
けれど廊下に現れた芽榴と有利を見て、生徒たちの反応がやけに騒がしくなる。
「……何ですかね」
「分からないけど……」
生徒たちが騒がしくなる理由は分からない。けれど確実にその原因が自分にあることだけは芽榴も分かっていた。
「芽榴!」
有利と一緒に困惑している芽榴の元に、後ろから舞子が駆け寄ってきた。
急いで階段をあがってきたらしい舞子は息切れをしている。
「舞子ちゃん?」
「あんた、葛城くんと付き合ってるの?」
聞かれて芽榴は目を丸くする。
今の今だからこそ、芽榴は動揺を隠せない。
「違う、けど……な、なんで」
声が震える。舞子が登校していきなりそんなことを聞いてくることが疑問だった。
聞くとしても落ち着いて、芽榴と2人の場所で問いかけてくるはず。けれど舞子は少し取り乱した様子で芽榴の姿を見るや否や問いかけてきた。みんなの注目を浴びて、有利も隣にいる、この状況で。
「ほら違うってー」
「ええっ、でも写真回ってきたもん」
「合成だったんじゃないの?」
芽榴の否定の言葉について、廊下にいる人たちがみんなコソコソと話し合っている。
芽榴にはわけがわからない。有利の方を見ても、彼も疑問符を浮かべていた。
「これ! 昨日の夜、部活の友達から送られてきて」
舞子がスマホを掲げて芽榴に見せる。
そこには写真が写っていて、芽榴は目を丸くした。
芽榴と翔太郎が芽榴の家に入っていくところだ。それも1枚ではなく、5枚。光の加減が違うところからして全部別の日のものだ。
「この写真……」
「これ、盗撮じゃないですか」
動揺したままの芽榴の隣で、写真を見た有利が眉を寄せる。
いつ撮られたのか分からない。けれどそれが分かったところで、事実を否定しようもない。
「ち、違う! これは」
芽榴は舞子に説明しようと口を開く。けれど周りの声にそれは飲み込まれてしまった。
「葛城が意外だなぁ」
「俺は葛城とできてると思ってたけどね」
「家に行き来してるってことは結構前から付き合ってるんじゃない?」
「でも風雅くんは? 昨日は神代くんと帰ってたってよ?」
「てか、今は藍堂くんと来てるじゃん」
男子生徒の好奇の視線が刺さる。女生徒たちの詮索も止まない。
「……勝手に決めつけてんじゃねぇぞ」
隣で有利のスイッチが入りかける。木刀を探すように有利の手が動いて、芽榴は彼の手を掴んだ。
「あ、藍堂くん」
「放せ! 陰でグチグチうっせぇんだ」
「何の騒ぎだ、これは」
廊下がシンと静まり返る。
本人の登場で本来は盛り上がるところ。
けれども相手が葛城翔太郎であるためか、いざ本人が登場した瞬間騒がしさが消え失せた。
「葛城――くん」
有利の入りかけたスイッチが切れる。このタイミングで翔太郎が現れたことに、少なからず有利も驚いていた。
芽榴は翔太郎の顔を見て固まる。飲み込んだ唾はゴクリと大きな音を立てた。
「植村舞子、この事態は何だ」
翔太郎は芽榴を一瞥し、すぐに視線を逸らす。今一番まともに事態を説明できそうな舞子を指名した。
「え、あの……」
けれど翔太郎の登場に動揺しているのは舞子とて同様で、舞子はスマホを片手に挙動不審になる。
翔太郎は舞子からスマホを受け取って、画面に映し出された写真を覗き込む。それだけで彼には何事か理解できたらしい。
「……ふっ」
翔太郎は鼻で笑った。
芽榴は目を大きく見張る。「え」と小さく漏れた芽榴の声に、翔太郎はほんの一瞬反応してくれた。
細めた目で芽榴を見て、翔太郎は徐に眼鏡を外す。
「くだらん騒ぎだな。この写真がどうかしたか」
翔太郎は動揺することなく、冷静に彼らしい口調で告げる。その瞳は廊下全体を見渡していた。
「楠原を家に送って、少し茶でも飲んで帰れという楠原の母親からの好意を受け取っただけだ。たまたま全部俺の写真だが、他の役員だって同じだ。それをふまえて……この写真に何か、面白いことでもあるか?」
確実に催眠誘導をかけている。けれど廊下にいる全員に一発でかけることは不可能。
それでも翔太郎の言葉は広まった噂を撤回するには十分な理屈だった。
「どうせ学園中にばら撒いているんだろう? なら、口にしたやつに伝えておけ。……くだらん噂話をする暇があれば勉強でもしろ、とな」
翔太郎はそう言って、舞子にスマホを返す。
「俺と楠原は友人だ。……それ以上聞きたいことがあるやつはいるか」
周囲を見渡して、翔太郎は尚も冷静に告げる。
翔太郎に向かって反論できる生徒などいない。何より彼の発言に矛盾はなかった。
翔太郎は周囲が静かになったのを確認して自分の教室へと向かう。
芽榴と有利の横を通り過ぎる翔太郎は何も言わない。
「葛城くん」
「藍堂、貴様も噂話を聞いたら訂正しておけ」
呼び止めようとした有利に、翔太郎はそれだけ告げる。
芽榴は通り過ぎた翔太郎を振り返らない。
心配そうに有利と舞子が、芽榴のことを見つめている。
「ごめんね、芽榴。早とちりしちゃって……」
舞子のそんな声が聞こえる。けれど本当に聞こえるだけで頭にはあまり入ってこなかった。
友人、そう告げた翔太郎の瞳を芽榴は見ていた。
綺麗な瞳に影が差す、その瞬間を。




