#10
バレンタイン当日。
役員は大変だろうと推測できるお昼休み。けれど芽榴にとっては平穏なお昼休みのはずだった。けれども昼休み現在、芽榴は隠れ場所を探している。
「とりあえず空き教室にでも隠れて……」
お弁当を手に持って芽榴は逃げ場所を考える。まるで文化祭の鬼ごっこのときのよう。現在置かれている状況もまさに鬼ごっこのようなものだった。
今朝の平和だった自分を思い返し、芽榴は走りながらもガクッと頭を垂れた。
昨晩、東條グループから帰ってきた芽榴はそこから当日に渡す分のチョコを作った。材料が余っていたこともあってもしものときのために少しだけ多めに作っておいた。
今朝起きて支度を整えた後、できあがったチョコを丁寧にラッピングして、芽榴は今日1日のやるべきことを達成したような気分だった。
「圭、バレンタインチョコをどーぞ」
芽榴は朝食を食べ終えた圭の前にそう言ってチョコを差し出す。食後のデザート気分で食べるように促すと、圭はやわらかく笑った。
「ありがと。いっただきまーす」
圭は笑顔でチョコを食べる。すぐに全部食べ終えて、満足げに「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「残してよかったのに。学校でもらう分食べられなくなるよー?」
「大丈夫だよ。役員さんと違って俺はそんなにもらえないから」
比較対象を間違えているから「そんなに」という言い方になるのだが、圭は一般的に多いとされる量のチョコを持って帰ってくるのだ。
「去年12個もらって帰ってきた人が言う台詞ー?」
「マネの先輩からの義理チョコと、クラスの女子からの義理チョコだから。まあ数はあるけど、自慢するほどじゃないって」
圭の説明を芽榴は半目で聞く。隣で真理子はあははっと楽しそうに笑っていた。
「その中に本命があると自惚れないあたり、重治さんに似てるわぁ」
「似てるっていうか、実際本命なんてねーし」
実際その中の半分くらいは本命なのでは、と芽榴は思うのだがその言葉は飲み込んだ。
そうして圭は食器を片付けながら、苦笑する芽榴に視線を向けた。
「芽榴姉……葛城先輩には家で渡すの?」
「……え? あー、ううん。一応学校で渡そうかなって」
芽榴は圭のことを不思議そうに見つめ返しながら答える。今日からテスト一週間前で生徒会活動はお休みだ。いつもより早く帰ってくることになっているため、今日の夕飯は芽榴が作ることになっている。翔太郎にも夕飯を食べてもらおうと思っているから、別に夕飯後に渡してもいい。
芽榴はむしろその方がいいか、などと考えるけれど、続く圭の言葉が芽榴のそんな考えを終わらせた。
「そっか。ならよかった。先輩の見て、俺も食べたくなるなーって思っただけ」
圭が肩をすくめてそんなふうに告げる。だから芽榴は「あははー」と笑って、絶対学校で渡そうと決意した。
学校に着いて、靴を履き替えて学年棟の一階に立つ。すでに生徒の姿はちらほらと見えていて、おそらく2学年ではないであろう生徒の姿も学年棟で見受けられた。
芽榴は下駄箱を背景にして一歩足を踏み出す。すると後ろの方で何かの雪崩が起きた。
「……あらら……大丈夫ー? 藍堂くん」
少し気になって後ろを振り返り、雪崩の様子を見に行く。するとそこはD組の靴箱で、有利が立っていた。その足元には彼のロッカーから溢れたと思しきチョコの箱がいくつか転がっている。
「楠原さん。……おはようございます」
芽榴の顔を見て少々驚いた様子を見せつつ、有利は落としたチョコを拾った。
「おはよー。すごいね。朝一から大量」
芽榴は転がってしまったチョコの箱を拾って有利に差し出す。すると有利は「そうですね」と軽く息を吐いた。
「でも、蓮月くんに比べたら僕なんか可愛いものですよ」
有利はそんなふうに言ってチョコを靴箱に戻す。どうやら帰りまで靴箱を満杯にしてそれ以上増やさないようにする作戦らしい。おそらく気休めにしかならない作戦なのだが。
圭にまだまだと言わしめる有利でさえ敵わない、風雅のレベルがすでに恐ろしい。想像することもできず、芽榴はただ苦笑を返した。
「やっぱり……いっぱいもらっちゃうと大変だよねー」
すでにロッカーに入っている分だけでも処理に困りそうな量だ。もともとそうなることは分かっていたけれど、芽榴は遠慮がちに有利にチョコを差し出した。
「ごめんね。でもいつも感謝してるから、もらってくれると嬉しいな」
芽榴の差し出したチョコの箱を見て、有利は少しだけ目を見開いた。まるで、芽榴からもらえることを予想していなかったみたいに。
「ありがとう、ございます。……楠原さん」
「ううん。食べられないときは、功利ちゃんにでも食べてもらって」
「いえ」
有利はその場で箱を開けて中のチョコを摘む。ビターチョコで作ったトリュフを食べて、有利は表情を柔らかくした。
「おいしいです」
有利が今日1番に食べたチョコ。きっとまだチョコにうんざりはしていないだろうから、その返事は本物だ。芽榴より先に渡していた子はいたけど有利は芽榴のチョコを優先して食べる。
それは少しだけずるい。けれど仲良しの特権かなと芽榴は眉を下げて笑った。
朝に会えたのは結局有利だけ。風雅と翔太郎はクラスにいなくて、おそらく今日という日は時間ギリギリに来ているのだろう。
颯と来羅は学校には来ていたのだが、話しかけることができなかった。2人のクラスに立ち寄ると、すでに2人を狙った女子生徒が多数群がっていた。さすがの芽榴もその中には入っていけず、結局昼休みに渡すことを決めた。
先週の来羅は「わたしは女装してた分、バレンタインはあんまりもらわないわよ」とにこやかに笑っていたというのに、女装をやめた彼の人気は凄まじい。
一瞬クラスを覗いた時に見た来羅の顔はとてつもなく不機嫌で、芽榴は思わず苦笑してしまった。
そういうわけで迎えた昼休み。
芽榴は舞子とお昼を食べて、まずは彼女にチョコを渡す。
「舞子ちゃん、いつもありがとー」
「こっちこそ。芽榴のに比べたら全然だけど、私からはチョコクッキーね」
「わーい」
舞子と友チョコを交換して、芽榴はバンザイで喜ぶ。2人で昼食後のおやつとして互いのチョコとクッキーを食べた。
舞子は「全然」と言うけれど、舞子の作ってくれたチョコクッキーも美味しくて芽榴は「おいしー」と目尻を下げる。
「楠原さーん、あたしからも友チョコだよーっ」
「私からもです」
チョコを交換している芽榴と舞子のもとにクラスメートが何人か寄ってきて、芽榴に友チョコを渡してくれる。舞子以外の友人からもチョコをもらえたことが嬉しくて、芽榴はパアッと明るい顔をした。
「あ、ありがとー。えっとこれみんなにも」
芽榴は多めに作っていたチョコを渡す。F組の女子全員分のチョコは一応用意していて、芽榴は困ることなくみんなにそれを配った。するとみんな「楠原さんのチョコだー!」とバンザイで喜んでくれた。
「楠原ーっ、俺にもチョコくれー」
そして芽榴も予想していたとおり、滝本がチョコをもらいにやってくる。芽榴が滝本にチョコをあげると、隣で舞子も滝本にクッキーを渡した。
「え……お前もくれんの?」
「何よ。芽榴以外のはいらないって?」
「んなこと言ってねーし!」
いつもの口論が始まりかける。けれども今回は滝本のほうが下手に出て、舞子に「ありがとう」とお礼を言った。
そんな2人の様子を微笑ましく見守る芽榴に、今度は別の方向からクラスの男子の声がとんできた。
「楠原ー、俺もチョコほしー」
「え? あー、一個余ってるからあげ……」
芽榴が役員にあげる以外で残っている最後のチョコを手にしたそのとき。
「俺も!」
「俺にも!」
「滝本だけ、ずりーよ。俺にも!」
と、芽榴にチョコをねだるクラスの男子がどんどん増えた。しかし、余っているチョコはたった一つだ。滝本を見ると、奪われないようにすでに食べている。
「あー、超うまい!」
周りを気にしているのかいないのか、滝本が満足げに大きな声で感想を告げる。芽榴の作るお菓子が美味しい。そんなことはクラスの男子ならもう了承済みのこと。
「あ、あは、あははははー!」
芽榴はチョコの入った手提げを持ってダッシュで教室を出て行く。
「あ! く、楠原! 待てーーーーっ」
「楠原が逃げたぞ!」
そうして芽榴は、クラスの男子と鬼ごっこを始めることになるのだった。




