#19
舞踏会が始まる約1時間前。
楠原家では、真理子の感心する声が響いていた。
「慎くんって、器用なのね」
少しだけ緊張した様子で、真理子はそう口にする。その視線は慎の手元に向けられていた。
「そうですか? 本当はプロに頼んだほうがいいんでしょうけど」
笑顔で謙遜する慎を、芽榴は鏡越しに半目で見つめた。真理子と話をするときの慎は本当に「誰だ、この人は」と言いたくなる。そうして真理子とペラペラ話しながらも慎は芽榴の髪をコテで巻いていた。
約束していた時間に楠原家へやってきた慎は芽榴をドレスに着替えさせ、芽榴の化粧もして、そして現在はヘアセットをしている。本当に慣れた手つきで芽榴の髪を綺麗に巻いていた。
全体的にゆるく髪を巻き、サイドを三つ編みにしてハーフアップに結い上げる。髪留めは芽榴のドレスにぴったりな薔薇の装飾がついたバレッタだ。
「……っし、完璧」
慎は顎に手を当て、完成したお嬢様芽榴を満足げに見つめる。鏡に映る芽榴はとても美しい。中身はもちろん、見た目すらどこの良家の娘も敵わないだろう。
「芽榴ちゃん、すっごくかわいい!」
真理子が目を輝かせる。写真を撮りたいと言って真理子が部屋にカメラを取りに行くと、芽榴は首を横にひねって慎のことを見上げた。「どうですか?」と言いたげに見つめると、慎は薄く笑った。
「……最高」
芽榴のつむじのあたりに軽く唇を当てる。向こうで真理子の鼻歌が聞こえていた。
準備を終えてラ・ファウスト学園へ向かう。学園に着いた頃にはすでにダンスホールから楽しげな音楽が聞こえていた。
「まだ始まってないのに、賑やかですね」
「いや、もう始まってる」
慎に告げられ、芽榴は何度も瞬きを繰り返す。慎から聞いていた話では舞踏会の開始は7時半だった。現在の時刻は7時15分。15分前に到着してちょうどいい時間帯のはずだった。
「あー、本当の開始時間は7時なんだよ」
もう文句の声も出ない。「またか」と芽榴は額を押さえた。けれど一応どうして時刻を偽ったのかは問いかけることにした。
「あれ? 今回は怒んないの?」
「ここで疲れたくないので。……それで、なんでわざと遅刻したんですか?」
芽榴が呆れるような声で尋ねると、慎はハハッと笑った。
「遅れたほうが目立つから。……扉開けたらみんながこっち向いて、楠原ちゃんを見るよ」
慎は目の前の扉を見つめて口角を上げる。今この中にラ・ファウスト学園のほぼ全生徒がいるのだ。そのすべての視線が芽榴に注がれる。
「い、いやですよ。他校だし、ここの生徒になったこともあるし……ただでさえ目立つ要素あるのに」
「俺は目立ってほしいから」
慎は握っている芽榴の手を自分の口元に持っていく。
「みんなに自慢すんの。……だから堂々と、自慢されて」
チュッと軽快な音を立て、指先に慎がキスをする。不敵に笑う慎は悔しいくらいにかっこよくて、芽榴の頰はチークの赤さとは別の赤みを帯びていた。
そうして開かれる扉。盛大な開扉音がホールに響き渡る。
慎の言っていたとおり、全員がこちらを振り向いた。その全員が芽榴のことを見て瞠目していた。
ダンスホールには、ステップを踏むだけの静かなワルツの音楽が流れている。けれど今は誰もリズムを気にしていない。踊り子は皆、慎の隣にいる美しい少女だけを気にしていた。
「ほらな。……大成功」
慎はそう呟いて、見せつけるように芽榴の頰へとキスをする。そうすれば一瞬で、その可憐な少女が『簑原慎の恋人』であることを伝えられた。
「み、簑原さん!」
「文句はダンスで聞くから、な?」
調子のいいことを言って、慎はざわつく生徒たちをかき分ける。芽榴と同じように綺麗なドレスを来て、プロのメイクとヘアセットを受けたお嬢様がたくさんいる。でも慎はそのどのお嬢様にも視線をあげない。慎と同じようにタキシードを着たご子息たちも、今は芽榴に視線を奪われていた。
「慎、さま……」
お嬢様のショックを受けたような声が聞こえる。けれど慎はその声が聞こえないみたいに平然とした顔で、芽榴をホールの中心に連れて行った。
そこはダンスの自信がある者たちが自らの技術を振る舞う場所。
さっきまで何組かが立っていたその場所は、慎の登場とともに開け渡される。この学園で彼よりうまく踊れる男子はいない。
相手側については言うまでもなく、慎のお墨付きだ。
「まずは、ゆっくり」
騒がしさの中で、いつのまにか終わりかけている静かなワルツ。慎はそれを分かっていて、足慣らしのためにステップを踏んだ。芽榴もそれに合わせてワンツースリーの簡単なステップを踏む。
ピアノの音が消え始め、周囲の視線も徐々に外れ始めてきた。でもその視線をそらすなとでも言うように、慎が靴音を鳴らした。
タンタタンタン。靴の先と踵をホールの床に打ち付け、フィンガースナップのような跳ねる音を出す。するとそれに合わせるかのように、音楽が軽快なリズムに変わった。
明るい音楽。それは――。
「転ぶなよ?」
不敵に笑う慎。思い起こされるのは慎と初めてダンスを踊った日のこと。あのときと同じ曲が今流れている。
「……そっちこそ」
芽榴は慎の真似をしてヒールを鳴らす。
慎と視線を交わして、飛び跳ねるように激しくホールの中心を動いた。くるくると赤のドレスを揺らして、慎に結われた髪が舞う。
息はぴったり合っていた。はじめての時よりもずっと慎の動きが分かる。心で感じて、芽榴は慎に自らの体を預けていた。
離れかけた周囲の視線は再び戻る。誰もが釘付けになるダンス。絵になる容姿の2人が、絵に起こせないほどの華麗なダンスを踊っている。
「これも計画通りですか?」
少し息切れをしながら芽榴が尋ねてみると、慎も小刻みに息を吐いて「さぁな」と笑う。
そんな慎の笑い声に絡ませるように、芽榴もカラカラと笑った。
ダンスホールの高所にあるキャットウォークからも芽榴の笑顔は見えた。その笑顔を見ていると、すぐ近くで笑い声まで聞こえる気がした。
「そないに楽しいか? 慎とのダンスは」
キャットウォークの手すりに頬杖をつき、聖夜がホールを見下ろしている。芽榴のことを愛おしそうに微笑んで見ていた。
舞踏会には欠席と伝えている。でもやっぱり一目芽榴の姿が見たくて、聖夜はこうして隠れて来てしまった。
慎とともに現れた芽榴は聖夜が予想していたとおりに綺麗で、愛らしい。
「今でも……好きやで」
悲しいほどに芽榴が好き。
でも聖夜が見つめる美しい芽榴は、聖夜の予想していた以上に幸せそうだった。
「よかったな、芽榴」
完敗だ、と実際に目にして思い知る。でも相手が慎ならそうなるのも仕方がない気がした。
なぜなら簑原慎という男は天下の琴蔵聖夜の望みをすべて叶えてきた優秀な相棒だから。
聖夜は穏やかに笑って、その場を後にした。
ダンスホールの音楽が微かに聞こえる。舞踏会に参加して1時間半が経過した頃、踊り疲れた芽榴と慎はダンスホールから少し離れた講義室にいた。
「ちょ……っ、簑原さん」
落ち着いて休むために抜け出したというのに、慎の行動は「落ち着く」という言葉とは正反対のものだった。
芽榴は講義室の長広い机の上に座らされ、その前に立つ慎が芽榴を挟むように両手を机の上に置いて覆いかぶさっている。
「何?」
慎の髪が頰に触れ、そのくすぐったさに芽榴が身をよじると慎が芽榴の肩を押さえた。慎の吐息が首筋にかかり、体に力が入る。
「疲れたから休もうって……」
「さすがにこんな格好の芽榴がそばにいて、何もしないほうが疲れるだろ」
慎が名前を呼び始めたことだけで、彼の理性というネジが飛び始めていることは分かった。変な理屈を口にして、慎は芽榴の鎖骨あたりに吸い付いた。
「や……っ」
恥ずかしくて芽榴が顔を背けると、首につけているピンクゴールドのネックレスが揺れた。慎はそのネックレスに指先で触れ、今度は胸元のドレスラインぎりぎりのところにキスをする。
赤い痕ができて、こんな姿では到底会場には戻れない。
「……ここでは、やんないから。でも俺の痕はつけさせて」
少しだけ焦っているような慎の姿は本当に余裕がなさそうで心配になる。芽榴は慎の肩をペチペチと叩いて、彼に合図を送った。
「大丈夫……ですか?」
「何言ってんの。……襲われかけてんのそっちだけど」
慎は眉を下げて笑う。慎の言うとおりではあるのだが、やっぱり慎のことが気になって芽榴は慎の首に腕を回した。
「な……っ。ちょっと待て、やめろ」
慎が慌てて芽榴の腕を剥がそうとするが、芽榴は慎のことを抱きしめて離さなかった。
「本当……離して。じゃないと……ちょっといろいろ冗談にならねぇから」
慎の疲れたような声が耳元でする。切羽詰まった慎の様子は珍しくて、芽榴の表情は自然と緩んでしまっていた。
芽榴に抱きしめられたまま、慎は数回深呼吸を繰り返すと、今度は自嘲気味に笑った。
「……ダンスしたの、間違いだった」
「え?」
「離したくなくて……すっげぇ酷いことしてでも捕まえてたくなる。……本当めちゃくちゃにしそう」
すべてが慎の描いたシナリオどおり。学園中の男が芽榴を見て顔を赤くして、慎のことを羨ましそうに見ていた。優越感に浸りながら芽榴を独り占めしてダンスをした。
シナリオから脱線したのは、たった一つ、慎の心だけ。
息ぴったりのダンスをして、もっとずっとこうしていたいと、芽榴も慎も互いにそう願ってしまっていた。
慎が大きなため息を吐き、芽榴は思わずクスッと笑う。
「……何笑ってんの」
「あ、すみません。でもなんだか……嬉しくて」
「はぁ? 俺が何言ったかちゃんと聞いてた?」
芽榴の腕の力が緩み、慎が芽榴から少しだけ離れる。それでもほぼ体を密着させて、見つめあった。
「だって簑原さんに酷いことされるのなんて、もう慣れてますもん」
芽榴はカラカラと笑う。
慎には散々酷いことをされた。たとえ今慎が芽榴に酷いことをしたとしても、そんなものは「酷い」とカウントすることもできないくらい些細なものでしかない。
「だから全然……怖くないですよ」
芽榴は妖艶に笑って、慎に唇を押し当てた。慎の身体が強張って、慎が芽榴を突き放そうとする。けれど芽榴は慎を繋ぎとめる方法を知っていた。
「……慎、さん」
薄く口を開いてそう呼びかける。雰囲気に任せて名前を口にしてみても、心臓が破裂しそうなくらいに照れ臭かった。
「もう……ほんと……なんで今呼ぶわけ? ……知らねぇからな」
慎の息が荒い。芽榴に噛みつきそうな勢いで慎がキスをしている。離れかけた唇は、もう距離などなくして一緒になっていた。
「慎、さん……慎さん、好きです。本当に……好きです」
涙が溢れる。悲しいわけではなくて、むしろ嬉しい。慎といられる時間が恋しくて、夢中で好きだと言っていた。
「……バカ。……これ以上、俺をどうするつもりだよ」
芽榴の涙をぬぐって、慎は芽榴の目にキスをする。熱を帯びた視線は、初めて体を重ねた日からずっとまたこのときを待っていた。
「……ひとまず最後の思い出になるのに……こんなんでいいの?」
「……嫌ならやめてもいいですよ?」
慎の口癖を真似て芽榴が言ってみる。泣いて頼りない鼻声で、完璧な慎の真似などできない。すぐに取り返される主導権。でもこの一瞬だけは芽榴が握れている気がした。
不敵に笑う芽榴を見て、慎が目を眇めて笑う。
「やめねぇよ。やめろって言われてもやめねぇから」
そうして交わすキスはダンスホールの音楽にかき消された。
更ける夜。明かりのついた講義室。優雅な音楽が聞こえるそこで作った一時の別れの思い出。
それは芽榴と慎、2人だけの秘密事。
R指定と戦う簑原慎ルート、次回最終回です!




