#15
テスト期間が終わりを告げ、麗龍学園には穏やかな空気が流れる。けれどもそれは一般生徒だけの話。
生徒会活動が再開し、役員は皆テスト期間中に溜まった仕事に追われている。そしてそんな彼らの空気は重苦しかった。
「……はぁ」
来羅のため息を吐く声が聞こえる。
久々の生徒会。室内には紙をめくる音とペンの紙面を滑る音だけが響いていた。
いつもより静かな生徒会室は、少しだけ息苦しい。
特に颯と風雅の静けさは異様だ。颯が静かな理由は、芽榴も察し得ること。しかし風雅まで静かな理由は分からなくて、芽榴は風雅の様子を気にしていた。
「……あの、蓮月くん」
自分の仕事が一つ仕上がったところで、芽榴は風雅に声をかけた。小さな声でコソッと呼びかけると、風雅は「え」と少しだけ間抜けな声を出した。
「何……?」
「私の分、もう終わったから……蓮月くんの分も手伝うよ」
芽榴は風雅に笑いかけて、彼の前にあるプリントを半分受け取る。ホッチキスを手にして彼と同じようにそれを閉じ始めた。
「ありがと……芽榴ちゃん」
風雅は芽榴に笑顔を返す。でもその笑顔に元気はない。
「……芽榴ちゃん」
切なげに風雅が芽榴の名を呼ぶ。芽榴は首を傾げて、風雅の声かけに応じた。
「もし、さ……」
風雅の手が動いて、ホッチキスがパチンと音を立てる。まるで何かを断ち切るように、軽快な音が鳴った。
「近々いいことがあったら…… オレに、芽榴ちゃんのとびっきりカワイイ笑顔見せて」
風雅がそんなことを告げる。その台詞の意味は芽榴に分からない。
「どーいう……意味?」
「そのうち分かるよ。よしっ……仕事仕事!」
芽榴の問いかけに、風雅は軽く返事をして気合を入れ直した。
その様子を見て、芽榴は怪訝そうに眉を寄せる。
その場にいた役員全員が目を細めて風雅のことを見ていた。
その日の帰り道は翔太郎と一緒だった。暗い夜道を翔太郎と2人並んで歩く。
数週間前はこんな夜道を慎と一緒に歩いていた。翔太郎の隣を歩いていても、ボーッとすればそんなことを考えてしまう。
だから芽榴は沈黙を嫌って、苦手な話題作りに必死になった。
「今日、忙しかったねー」
「……あぁ」
翔太郎は前を向いたまま、相槌を打つだけ。それ以上会話を広げようとはしない。
「蓮月くん、どーしたんだろうね。いきなり変なこと言って……」
芽榴は笑顔で思いついた話を口にする。またそっけない「あぁ」という返事がくるだろう。そう思って続きの話を考えていると、翔太郎の視線が芽榴に向いた。
「……いいこと、か。何をする気だろうな」
翔太郎と会話が成立したことに驚いて、芽榴は一瞬言葉を詰まらせる。
「……なんだ」
「え、いや……あはは! 何するんだろうねー」
誤魔化すように笑って、返事をする。そんな芽榴を見て、翔太郎は小さく息を吐いた。
「あいつの考えなど、どうせろくでもないことだろうが……それでも今回は期待したくなる」
翔太郎が立ち止まり、芽榴はその数歩先で立ち止まる。
「貴様はいつまで、そんなふうに笑っているつもりだ」
翔太郎の問いかけに、芽榴は肩を揺らす。少しだけ顔を傾けて翔太郎のことを見つめた。
「笑ってちゃ、ダメ?」
「無理やりの笑顔など、見たくはない。……貴様が蓮月に言ってきたことと同じだろう?」
翔太郎は目の前にいる。少し歩けば簡単に縮まる距離にいるのに、遠く感じた。慎のことを思えば思うほど、大切な人たちとの距離が開いていく。
「笑顔を繕っても、全部分かる。無駄なことをするな」
翔太郎の厳しい言葉が胸に突き刺さる。もっと上手に笑えたらよかった。そんな的外れなことを考えてしまう自分を、芽榴は嘲笑った。
「……無駄じゃないと思ってたんだよ」
視線を落として、芽榴は翔太郎に告げる。外灯に照らされたアスファルトの地面を見つめ、薄い笑みを浮かべた。
「笑ってたら、本当に楽しくなるんじゃないかって。……そんなこと期待してた」
けれどそんなことはなくて、悲しい現実が悪夢になって芽榴を襲った。無理やりの笑顔が唯一芽榴にしてくれたことは、芽榴の壊れかけの感情をあと一歩のところで繋ぎとめておくことだけ。
「でもそれは……うまくいかなかったんだろう?」
翔太郎が徐に眼鏡を外す。その眼鏡は芽榴があげた伊達眼鏡だ。
「葛城くん……」
一歩、一歩と近づいて翔太郎は芽榴のすぐ目の前に立った。少し手を動かせば触れることのできる、そんな距離に立って翔太郎は芽榴のことを見下ろした。
「どの記憶を奪えば、貴様は元に戻る?」
「何言って……」
「10年前の記憶か? 違うな」
翔太郎が何をしようとしているかは分かる。けれど、それは芽榴に効果のないものだ。
「葛城くんの催眠術は……私に効かないよ」
芽榴の声は掠れている。翔太郎の催眠誘導が芽榴に効かない以上、翔太郎が芽榴から記憶を奪うことは不可能。それなのに、芽榴の瞳は揺れている。
「ああ、効かない。でも何十回もかければ、いつかは効くかもしれない。暗示なんてものは、そういうものだろう?」
翔太郎の冷静な言葉は言い知れない説得力があった。芽榴がゴクリと唾を飲むと、翔太郎の手が芽榴の肩にかかった。
「簑原慎との記憶を全部奪えば……また笑えるか?」
翔太郎の綺麗な瞳に、不安げな芽榴の姿が映っている。
慎との記憶を消せば、きっと以前のように笑える。真っ黒に染まった嫌な記憶が全部消えて、きっと――。
――くっすはーらちゃん――
慎の姿が浮かんだ。おどけた態度で芽榴をバカにする、慎の姿が脳裏に浮かんでいた。
目を大きく見開いて、反射的に芽榴は首を横に振っていた。
「……忘れたく、ない」
すべてが嫌な記憶ではなかった。
どんなに真っ黒に染まっても、慎との思い出は忘れたくなかった。
たとえ嘘でも建前でも、芽榴のそばにいてくれた慎を忘れたくない。
「ごめん、葛城くん。……私、忘れたくない」
芽榴は翔太郎の胸を押した。俯いてもう一度「ごめん」と言えば、冷たいアスファルトに小さな涙の粒が落ちた。
「……楠原」
慎のことを忘れないで、前に進みたい。
10年前もそうやって乗り越えられた。だからきっと今回だってできる。
それができなかったのは、芽榴がそうしなかったからだ。
足踏みをして後ろばかり向いて、慎が「冗談」なんて言って笑ってくれるのを期待していたのだ。
傷つけられて、酷いことを言われて、自惚れを打ち砕かれてなお、まだそんな生ぬるいことを考えている。
けれどもう、そんな愚かな自分ともお別れする時が来ていた。これ以上、みんなに迷惑はかけられない。
慎のことが、本当に本当に好きだった――。
「何……泣いてんの」
好きすぎて、幻聴まで聞こえる。そう思いながら顔を上げると、翔太郎が目を見開いて固まっていた。
芽榴の後方を見て、翔太郎は驚いた顔をしている。その視線を追って、芽榴も後ろを振り返った。
一瞬、これも幻覚かと思った。
その姿に、息の仕方すら分からなくなる。
「みの、はらさ……ん」
薄く笑って、簑原慎がそこに立っていた。
芽榴の声を聞いて肩を竦めると、慎がこちらに近づいてくる。その視線は芽榴ではなく、翔太郎に向けられていた。
「……こいつ、借りていい?」
慎が真面目な顔をしている。その表情を見つめ、翔太郎は少しだけ目を細めた。
「貴様の用次第だが……」
眼鏡をかけ直し、翔太郎は慎に探るような視線を向ける。すると慎は「そう」と小さく返事をして、翔太郎に自分の持っているペンを持たせる。
「何のつもりだ……?」
訝しむ翔太郎に慎はいつもの調子で笑いかけ、そして勢いよく翔太郎の手を動かした。
「な……っ」
「簑原さん!」
「あんたが決めていいよ。楠原ちゃんをここで俺に任せるかどうか」
翔太郎の手は慎の眼前にあった。ペンの先は慎の右眼のわずかに手前で止まっている。
「楠原ちゃんのことをこれ以上傷つけるような真似はしない。約束する」
慎は瞬きをしない。少しでも誤って手を動かせば、慎の目にペンが当たる。芽榴にも翔太郎にも緊張が走った。
「もしそれが信じられないなら……言って」
慎の指が翔太郎の手に食い込む。慎の手に力がこもったのはすぐに分かった。
翔太郎が信じないなら信じさせるために、慎は翔太郎の手を躊躇なく動かすつもりだ。
「こんなやり方で……信じろなんて卑怯だな」
「ははっ。……だけどそうでもしないと、俺には渡せないでしょ?」
そう言って慎は芽榴に視線を向ける。眉を寄せ、表情を歪ませている芽榴を見て慎は苦笑していた。
「こんなに顔色悪くさせた原因が……もう1回機会をくれって願うなら、こんな卑怯なことでもしないと無理だろ?」
慎は翔太郎に視線を戻し、彼に答えを求める。けれど翔太郎が選ぶことのできる選択肢は一つだけだ。
「……もし明日楠原が今日よりもっと酷い顔をしていたら、そのときはこの手を動かす」
翔太郎は静かに言って、慎に「離せ」と告げる。慎はゆっくりと翔太郎の手を離し、その手からペンを回収した。
「ああ。……約束する」
慎の真剣な顔を見て、翔太郎は踵を返す。
芽榴のことを横目に見て、芽榴の頭をポンポンッと優しく叩いてくれた。
「……これが、いいことか」
納得したように呟いて、翔太郎は薄く笑む。そして慎に芽榴を託し、その場を去った。
慎と2人きりの夜道。
いつかと同じ、外灯に照らされる2人の姿がそこにあった。




