#14
ラ・ファウスト学園の図書室。
簑原慎はただ一人、そこに居座って本を読んでいる。ページをめくる音が響くだけの室内は、異様なほどに静かだ。
最近は特務室に近寄っていない。聖夜にも一週間近く会っていなかった。
会えるわけがない。
芽榴が聖夜よりも自分を選んだ。そんなこと、あっていいはずがなかった。
――簑原さんのことが、好きですよ――
その声を、その顔を、思い出して、慎の手が止まる。大きなため息を吐いて額を本にぶつけた。
制服のポケットが震え、慎はそこから自分のスマホを取り出す。着信を示す画面には《学園警備》と書いてあった。
「はい……簑原」
慎は少しだけ面倒そうな声で電話に出る。相手は門前の警備員だ。予定のない面会や迎えなどがあれば、そこから連絡が来るようになっている。
『簑原様に面会の方がいらしていますが』
「……誰?」
『麗龍学園の生徒です』
そう言われて、慎はスマホを手放した。自分の手から滑り落ちたスマホを慌てて取り直し、再び耳に当てる。
一瞬、芽榴の顔が浮かんだ。でも彼女が会いに来るとは思えなかった。
二度と会わない。彼女もそう口にして、その意見を違えるとは思えなかった。
あれだけ酷いことを言ったのだ。もう絶対に嫌われている。
そう思って、次は「じゃあ誰だ」という疑問が浮かぶ。でもその疑問の答えはすぐに電話越しで伝えられた。
『本当に! オレ、簑原慎の知り合いで! 蓮月風雅が来たって言えば分かりますから!』
『ですから、今確認しておりますのでお静かに』
電話の向こう側で叫んでいる男がいる。そしてその男の名前を聞いて、慎は目を細めた。
『あの、簑原様。蓮月風雅様とおっしゃる方で』
「……知らねぇ」
静かに言って、慎は目の前の本のページをめくった。
「そんなやつ知らない。……さっさと帰して」
慎は切り上げるように言って、通話を切った。
麗龍学園の期末テスト最終日。午前中にテストが終わり、午後は休校となっている。
その日のお昼過ぎ、ラ・ファウスト学園の門の前に風雅がいた。
「申し訳ありませんが、簑原様にお取り次ぎはできません」
警備員が少し疲れた様子で告げる。その言葉に反論して、風雅は大きな声を出した。
「本当に! 簑原慎に用があるんです! 名前言えば分かりますって!」
「簑原様に確認しましたが『知らない』と」
「はぁぁぁあ!?」
警備員の返答に風雅は目を丸くする。知らないはずがない。意図的に拒否したことが分かるため、風雅は「くっそ簑原ーっ!」と心の中で叫んだ。
「お願いします!」
「ですから……」
「……何の騒ぎですか、これは」
風雅がめげずに騒いでいると、門の前に車が止まった。その車と窓から顔を出した人物を見て、警備員の顔が一気に強張った。
「こ、琴蔵様!!」
門前の警備員が全員、琴蔵聖夜に向かって頭を下げている。
とても仰々しい空気に、さすがの風雅も緊張してしまう。そんな風雅を見て、聖夜は目を眇めた。
「これはこれは……麗龍学園の蓮月風雅さん。どなたかに面会で?」
「……簑原クンに」
風雅は少し遠慮がちに答える。風雅が会いに来る人物などむしろその男しか考えられない。
聖夜はその答えを分かっていたみたいで、驚く様子を見せなかった。
「そうですか。……なら、車にどうぞ」
聖夜が運転席に合図を送り、車の扉が開く。驚く風雅に、聖夜は紳士然とした態度を貫いた。
「慎に会わせてあげますよ」
「こ、琴蔵様。簑原様は、取り次ぐなとおっしゃっていましたが……」
「何かの勘違いでしょう。それとも……僕の意見は聞けませんか?」
警備員に聖夜は真顔で問いかける。聖夜に睨まれ、蒼白になった警備員は首を横に大きく振った。
聖夜と慎の意見、天秤にかけるなら聖夜の意見を取る。それが当然なのだ。
風雅は聖夜に頭を下げ、彼の車に乗り込む。そしてラ・ファウスト学園の敷地に入っていった。
図書室で本を読む慎にも、その連絡はすぐに回った。
「聖夜が……?」
警備が『琴蔵様の命により、麗龍の生徒を学園へ通しました』と申し訳なさそうな様子で慎に告げる。
警備のしたことを責める気はない。ただ、聖夜が蓮月風雅を学園に通したことが驚きだった。
警備からの電話を切り、慎はスマホを机の上に放る。今から逃げれば、聖夜と風雅に鉢合わせず学園を抜けることも可能だ。
けれど、慎はそこから動かない。そうしたところで風雅は慎を追いかけ続ける。聖夜のことを避け続けるのも限界があった。
どうせこのときが来るなら、早く終わらせてしまったほうがいい。
図書室の一席に座ったまま、慎は薄く笑っていた。
しばらくして、図書室の扉が開く。扉の奥、風雅の姿が一番に見えて、その背後から聖夜の姿が垣間見えた。
「簑原クン……っ!」
慎の姿を見るなり、風雅は慎の方へと飛んでくる。早速慎のネクタイを掴んで、キャンキャンと騒ぎ始めた。
「知らないってなんだよ! 逃げたでしょ!」
「話すことねぇから知らないって言っただけ。第一逃げてねぇからここにいんだろ?」
慎は薄ら笑いを浮かべながら風雅に答える。そんな屁理屈を言うと、余計に風雅がうるさくなった。
「キミはないかもしんないけど! オレはキミにすごく話したいことがあるよ!」
風雅にまっすぐ睨まれ、慎は彼から少し視線を外す。慎の視線の先、図書室の扉に背を預け、聖夜は床に視線を落としていた。
慎はそんな聖夜を見て、少しだけ目を細めた。
「話、ね。一応聞いてやるよ。……何話したいのかはだいたい分かるけどさ」
風雅に視線を戻して、慎は告げる。余裕そうに見せて言葉を放つと、風雅の眉間に皺が寄った。
「……芽榴ちゃんに、何したの」
風雅は少しためらいながら、そう問いかけた。慎の視界の端で、微かに聖夜がその質問に反応した。
「何、ねぇ。それ、いつの話について答えればいいわけ?」
慎はふざけた態度を崩さない。彼らしいと言えば彼らしい。しかし、その態度が今は余計に風雅を苛立たせた。
「そんな挑発してないでさ……心当たりがあるなら、全部話しなよ!」
風雅の怒鳴り声が響く。風雅の険しい顔を見ても、慎はまったく怯まない。変わらず薄く笑っていた。
「あの女に聞けば早いのに、わざわざ俺に聞くのはさ……。あいつがそれを言わないからだろ? あいつが知られたくないと思ってること、知りたがるんだ?」
「それは……」
風雅が言葉を詰まらせる。芽榴の名を出せば、風雅を抑え込むのは簡単だった。
けれどここにいるのは、風雅だけではない。
「俺がそれでも知りたい言うたら、教えるんか?」
聖夜の声が慎の耳に届く。その瞬間、慎の顔から余裕の笑みが消えた。
「あの日……。お前の兄貴が芽榴のことさらった日、ほんまは芽榴と何かあったやろ?」
聖夜は慎の姿を見つめ、静かに問いかける。対する慎は聖夜から目をそらしていた。
「俺に言い続けた……『ごめん』の意味はなんや」
「……そのままの意味だろ。兄さんのことを聖夜に」
「お前まで、俺に嘘つくんか」
聖夜が慎の言葉をさえぎる。
顔を上げると、悲痛で歪んだ聖夜の顔が慎の視界に映った。
たとえ聖夜が真実を望んでいるのだとしても、慎は真実を隠し通さなければならない。この真実はどんな嘘よりも聖夜のことを傷つける。
それなのに、簡単に浮かぶ嘘たちが慎の口から出て行かない。
「お前が、芽榴のこと好きなんは分かっとる。それでもって……俺に遠慮しとることも知っとる」
慎がどんなにひねくれたことを言っても、芽榴への想いは特別で、その特別は彼女への『好き』という想いに他ならない。
「芽榴に好きやって言われたんやろ? それを、振ったんか」
だから慎も芽榴も両方傷ついてしまう事情は、それくらいしかない。聖夜にはたったそれだけ、でもそれだけのことが分かった。
「あいつの想いなんか……あいつの勘違いだから。だからそれを教えただけだ」
慎は小さな声で答える。そんな慎の答えに反応したのは風雅だった。
「勘違い? なにそれ。そう言って、芽榴ちゃんのこと振ったの?」
風雅は信じられないと言うような顔で慎のことを見ていた。風雅には慎の気持ちなど絶対に分からない。
たとえ勘違いだとしても、芽榴に告白されてフる意味は分からないだろう。
でもそれ以上に、風雅には分からないことがある。
「どんな酷いふり方したら……芽榴ちゃんがあそこまで崩れるの?」
慎がちゃんと理由をつけて、正当に芽榴のことを振ったのなら、芽榴はそれをちゃんと受け入れるはずだ。
今みたいに壊れる寸前まで気を紛らわせるようなことはしないだろう。
慎と何があったのか、頑なに秘密にすることもないはずだ。
芽榴が傷ついた、本当の理由はもっと深いところにある。
それを風雅は見抜いた。そして慎は、そのことを見抜いた風雅を恨めしく思う。
「……絶対に消えない傷、つけたから」
慎はそう言って、俯く。大きなため息を吐いて、額に手を当てた。
目を瞑れば、苦しそうなあの日の芽榴の顔が浮かぶ。壊してしまいそうなくらいに抱いて、何度もキスをして、想いは全然抑えきれなかった。
きっと言葉で拒絶しても、気持ちは全部芽榴に伝わっていた。
それなのに、逃げた。芽榴のことを汚した背徳感と聖夜を裏切った罪悪感から逃げたくて、芽榴のことも全部忘れようとした。
もう二度と会わないなんて言って、本当はまた会いたかった。芽榴を自分のものにした日からずっと芽榴のことを夢に見ていた。
芽榴が会いに来てくれて、自分を好きだと言ってくれて、またキスができて嬉しかった。
芽榴のことを奪いたくなって、芽榴のことを離すまいとキスを返した。
それなのにまた、取り返しのつかない聖夜への罪悪感で心が満ちて、最低な言葉で芽榴を傷つけた。
芽榴に好かれることを何より望んでいて、でも何より拒んでいた。
「……俺への申し訳なさで芽榴のことふった言うんか?」
聖夜は呆然とした様子で慎に問いかける。いまだ顔を上げない慎を見て、表情を歪ませていた。
「俺のせいに、すんな」
聖夜はそう言って慎のほうに歩み寄る。慎の近くに立つ風雅を突き飛ばして、慎のそばにある机をバンっと叩いた。
「俺に気使って、芽榴のこと傷つけんな。そんな情け誰が求めてんのや。……あいつはお前が俺に気使おうと気使わんと、どっちにしたってお前のこと選ぶんや」
聖夜がどんなに引き止めても、芽榴は慎の元へ走った。慎がどんなに芽榴を拒絶しても、芽榴は聖夜の元へは走らなかった。
たとえ慎への想いが叶わなくても、芽榴は代わりに聖夜を好きになるようなことはしない。
慎のやっていることは、聖夜の気持ちも救いはしない。ただ、幸せにできる芽榴の気持ちさえ傷つけているだけだ。
「それでもお前が俺のため言うんやったら……俺をこれ以上情けない男にすんなや」
聖夜は慎を今度こそ自分という檻から解放する。知らず知らずのうちに慎は聖夜の檻に閉じ込められていた。
けれど、解放されたときにはもう籠の外に慎の行き場所はない。
「もう、おせぇよ」
慎は笑っていた。
「あんだけ傷つけて……もうあいつだって俺のことなんか好きじゃねぇって……気づいたはずだ」
今さら好きだと言い直しても、もう届かない。信じてももらえないだろう。
「だから、もう……」
「――遅くないよ」
芽榴のことを諦める慎に、風雅がそう言った。
慎が風雅に視線を向けると、風雅が泣きそうな顔で慎のことを睨みつけていた。
「オレはキミのことなんか大っ嫌いだけど……。でも芽榴ちゃんは今でもキミを待ってるよ」
芽榴のことを想う風雅だから、芽榴の気持ちもちゃんと分かっていた。
「待ってるから……誰にも頼らないんだ」
芽榴は誰の手も掴まない。慎のことを忘れたいなら、誰かの手を取って新しい気持ちを上書きしてしまえばいい。
でも芽榴はそうしない。理由は、一つだった。
「それでも、簑原クンが動かないなら……オレは全力で芽榴ちゃんを奪うよ。オレは芽榴ちゃんが好きだから、誰にも遠慮したりしない」
慎の芽榴への想いが他人に遠慮できるくらいの気持ちなら、風雅は絶対に負けない。
「……慎」
慎と聖夜の絡まり合う視線は切なく、苦しい。
「俺は芽榴のことが大事やし、好きや。でもな……お前のことも、大切に思っとる」
慎は目を見張って固まる。
聖夜に初めて言われた「大切」という言葉が胸にじわりと染み渡った。
「もう俺のためやなくて……自分のために動け」
静かな図書室。想いの在り方はそれぞれ違った。
けれど3人の想いが絡まり合う先には、大切な女の子の笑顔があった。




