#13
『他の女と一緒だよ。……なんも変わんねぇ』
他の女の子を抱きしめて、慎が告げる。呆然と立ち竦む芽榴がそこにいた。妙な浮遊感は現実味がないのに、その言葉と光景だけはとてもリアルだった。
『また、やらせてくれんの?』
嫌だ、聞きたくない。首を振る芽榴に、慎が笑って言っている。
映像は何度も切り替わる。
慎が何度も芽榴を罵って笑って、他の子をその腕で抱き寄せた。
頭が壊れそうになる。
その度に、芽榴を引き寄せるみたいに映像は切り替わった。
少し骨張った手、筋肉で引き締まった体、芽榴のことを抱きしめる男らしい慎の姿が脳裏に浮かぶ。
『……っ、みの、は……らさん』
痛みで顔が歪む。芽榴が慎の腕を掴むと、慎がそれを解いて優しく芽榴の手を握ってくれた。
『……力抜いて。俺の手握ってれば……大丈夫だから』
あの日の記憶が鮮明に呼び起こされて、芽榴は起き上がる。
冷や汗が額に滲んでいた。
「はぁ、はぁ……」
悪夢は止まらない。慎と一線を越えてしまったあの日からずっと悪夢を見ていた。
だから睡眠時間を削って、少しの時間でぐっすり眠ったなら悪夢を見ることはなかった。
それなのに、ラ・ファウストで慎に会ってからというもの、ごく僅かな時間の睡眠でさえ悪夢を見てしまう。
体に悪いから少しは眠りたいのに、眠るのが怖い。
悪夢も不安定な心も、11月のあの頃と似ていた。
「……簑原さん」
最低なことを言われて、心をぐちゃぐちゃにされて、それなのにまだ慎への気持ちが消えてくれない。
この気持ちが本当に勘違いだったら良かったのにと、心の中で嘆くことしかできなかった。
慎との記憶を、頭の引き出しに仕舞い込んで鍵をかける。そうして芽榴は、残り少ない学園生活を楽しむことに頭を切り替えた。
「芽榴ー、放課後勉強して帰る?」
今日は金曜日。次の週の月曜日にテストを控えていて、クラスの雰囲気も『テスト前』のものになっていた。
「うん。そーしよっかな」
「まじか! じゃあそのとき俺にこの問題教え……」
「じゃあ芽榴。そのとき私にここ教えて?」
芽榴が居残ると知って滝本が飛びついてきたが、それを舞子が止めて滝本の言葉を上書きする。
「今のは俺が先だろ!」
「……知らないわよ」
舞子は大きなため息を吐いて、やれやれと言った様子で彼のことを見た。すると滝本がそんな舞子の反応に文句を言って、いつも通り口論が開始する。
「ほんっと、性格悪いな! お前!」
「うるっさい! 耳元で怒鳴らないでくれる?」
喧嘩するほど仲がいいとはまさにこのことだ。2人を見て、しみじみとそう思った。
会えば必然的に口論してしまう。
そんな相手が芽榴にもいた。それはもう過去の人だけれど、あのとき芽榴たちも他人からはこんなふうに見えたりしたのだろうか。
そんなふうに考えて、その考えから抜け出せなくなる。芽榴は頭を横に振って、その考えも引きだしの中に締まって鍵をかけた。
休み時間。次の授業は移動教室で、芽榴は女子トイレに行った舞子を待って廊下の壁に寄りかかっていた。
「楠原さん」
前方から歩いてきた有利が、芽榴に声をかける。芽榴は有利を見てニコリと笑った。
「おはよー、藍堂くん」
芽榴がひらひらと手を振ると、有利は芽榴のそばまで歩み寄った。
「次、移動ですか?」
「うん」
にんまり笑って有利に答える。すると有利は少し困り顔をして芽榴の額に手を当てた。
「え?」
「……熱は、ないですね」
「当たり前じゃん。ピンピンしてるもん」
芽榴は有利の行動に、あははと笑って彼の腕を自分の額から離す。元気をアピールする芽榴に対して、有利はやはり心配を顔に表していた。
「少し保健室で休みません? テスト前ですし、体壊したら……」
「大丈夫だってー」
「楠原さん」
有利は芽榴の手を握る。すると、廊下の奥から舞子が芽榴を呼んだ。
「芽榴ーっ! 行く、よ……って、あ……私お邪魔」
有利のことを見て舞子が芽榴に振った手をすぐにしまう。芽榴が「待ってー」とのんびりした声で舞子に声をかけると、有利は少し大きめの声で舞子を呼んだ。
「植村さん」
「う、うん?」
有利に声をかけられ、舞子は少しだけ挙動不審になる。芽榴が有利に視線を向けても、有利は視線を返さなかった。
「楠原さんを保健室に連れていきますから、先生にそう伝えてください」
「え? 芽榴、体調悪かったの?」
「いや、全ぜ……」
「悪いです」
芽榴の声にかぶせて、有利が言う。真逆のことを言われてしまい、芽榴は困ったように眉を下げた。
「藍堂くん……」
「だから、お願いしますね」
「え? ……あ、うん。気づかなくてごめんね、芽榴。授業終わったら保健室寄るから」
舞子が心配そうな顔で芽榴を気遣う。舞子にそんな顔をさせたくなかったため、芽榴は有利のことを恨めしげに見た。
けれど有利はそんな芽榴の視線など気にすることのないまま、芽榴の手を引いた。
有利に保健室へと連れて行かれ、中に入ると医務の先生がちょうど学外に出ている時間帯だった。
「……藍堂くん。先生もいないし、私授業に出るから」
「寝てください」
「眠くないよ」
「全然……寝てないでしょう?」
寝てないのではなく、眠れないのだ。でも芽榴はその事実を口にはしない。首を横に振って必要な時間は寝ていると答えた。
「じゃあどうして……顔色が全然良くならないんですか」
有利の芽榴を心配する声が保健室に響く。芽榴は少しだけ視線を横に流し、保健室にある鏡を見た。
少しだけ顔は青白い。けれど「寒さのせいだ」とでも言えば、誤魔化せるような顔色ではあった。
「バレンタインの日、あの人に……簑原さんに会いに行ったんですよね?」
有利に問いかけられ、芽榴は顔を上げる。反射的に顔を上げた自分が辛くて、芽榴は表情を歪ませた。
「……違う。琴蔵さんに、お世話になってるお礼に……チョコ渡しに行っただけ」
「それだけじゃ、ないですよね?」
芽榴が慎に会わないわけがない。まるでそう言いたげな有利の発言に芽榴は笑った。
「じゃあ……藍堂くんは、私と簑原さんに何があったと思うの?」
問いかけて、芽榴は有利の目を見る。感情を押し殺した芽榴の顔を見て、有利の顔が少しだけ強張った。
有利を責めたくはないのに、言葉が強くなってしまう。有利がせっかくこんな自分でも心配してくれているのに、投げやりな態度をとってしまう自分が情けない。
芽榴はまだ制御しきれていない自分の感情に呆れ、小さく息を吐いた。
「楠原さん……」
「……ごめんね。 ムキになっちゃって」
芽榴はあはは、と困ったように笑って頭を掻く。髪に指を滑らせて、芽榴は目を閉じた。
「でも……うん。せっかくだし、藍堂くんの言うとおり休むよ。連れてきてくれてありがとね」
芽榴は笑って、有利の肩に触れる。そうして有利に回れ右をさせ、彼の背中を押した。
「もう授業始まるよ。私はちゃんと休むから、ね?」
芽榴は首を傾けて、有利にそう約束する。有利は芽榴のことを心配しながらも授業へ向かった。
有利との約束を守って、芽榴は保健室のベッドに横になる。目を閉じることはしないが、横になるだけでも気だるい身体は少し楽になった。
静かな部屋の中、暖房の音まで鮮明に聞こえていた。
体を丸めて横たわり、しばらく時間が過ぎた。
誰かの足音が保健室の中に響いた。保健室に残っていたメモによれば、保健医が帰ってくる時間はまだ少し先。
体調が悪くなって、誰かが休みに来たのだろうか。そんなことを考えながら足音に耳をすます。するとどんどん足音が近くなって、芽榴は体を起こした。
ベッドの上に座り、閉じたカーテンの合わせを見つめる。靴音が止んで、そのカーテンは開いた。
「……神代くん」
颯がそこに立っている。芽榴は驚いて、少しだけ目を丸くした。
「……どーしたの?」
「別に。……頭が痛くなったから、薬をもらいに来ただけ」
颯はそんなふうに返す。でもそれだけなら、誰かが休んでいるはずのベッドのカーテンを開けたりしない。
颯は芽榴が保健室で休んでいると分かってて、このカーテンを開けたはずだ。
「……休み時間に植村さんに会って、聞いた」
颯はそう言って、芽榴のベッドの傍にある椅子に腰掛ける。
頭痛を言い訳に授業を抜け出して、颯はここへやってきた。芽榴はそんな颯を見て困り顔をする。
「薬飲んで……早く授業に戻らないと」
「厳しいこと言うね。……僕も少しくらい休ませてよ」
颯は薄く笑って肩を竦める。芽榴はベッドに座ったまま、颯のことを見つめていた。
「……心配かけて、ごめんね」
芽榴の口からはその言葉がもれていた。颯が芽榴を心配して来たことも、心配の理由も分かっている。有利も、他の人だってみんなそう。
元気に振る舞っているのに、そのせいで余計にみんなに心配をかけている。
「そんなに、分かりやすいかな」
芽榴が苦笑まじりに尋ねると、颯は「そうだね」と小さな声で答えた。
「分かるよ。……芽榴のことだから」
颯の手が伸びて、芽榴の冷たい頬に触れた。
「簑原くんのことが、好き?」
颯が静かに問いかける。心の奥に仕舞い込んだ気持ちを隠したまま、芽榴は首を横に振った。
「……好きじゃないよ」
否定すれば、それが本当になる気がした。
芽榴と慎を繋ぐものが、ただひとつこの『好き』という気持ちだけなら、この気持ちを否定すれば離れられるはずだ。
この気持ちだって芽榴の一方的なもの。
否定すれば、気持ちは薄れて消えていくはずだった。
「好きじゃないよ。……好きじゃない」
言い聞かせるように、何度も言った。颯の「もういいよ」という声も聞かずに、慎のことなど好きではないと、芽榴は何度も口にした。
「簑原さんのことなんか……好きじゃ」
「うん。もう……分かったから」
颯に抱きしめられていた。芽榴は身じろぎをするけれど颯の腕からは逃れられなかった。
「簑原くんのこと……忘れたい?」
颯はそう問いかける。でもそんな方法なんてあるはずがない。芽榴が何かを忘れることなど不可能だった。
「どう、やって……?」
けれどもしできるなら、そうしてほしい。すがるようにして芽榴が尋ねると、芽榴のことを抱きしめたまま、颯は芽榴をベッドに押し倒した。
「簑原くんにされた酷いことも……全部思い出せなくなるくらい……もっと酷いことを上書きすればいい」
電気の光を背にして颯の姿が陰りを帯びる。その姿があの日の慎の姿と重なって見えた。
「や、だ……神代くん」
颯が芽榴のリボンに手をかける。でも芽榴は颯の手を掴んで、その手を止めた。
「待って。……待ってよ。……神代くんがこんなことする必要なんて……」
「どうせ傷つくなら……僕にしなよ」
颯は芽榴の手を握り、ベッドに押し付ける。
――俺の手、握って――
握られた手が、まだ慎の温もりを覚えていた。記憶の鍵が壊れ始める。軋むベッドの音が生々しくて、あの日の記憶を簡単に呼び起こした。
「僕は何があっても……君のそばにいるから」
颯は芽榴の制服のリボンを解いた。
――ごめん……ほんと余裕ねぇや……――
芽榴の首筋に颯がキスをする。リップ音がして、芽榴は颯の肩を押した。
「芽榴……」
「やめ……て。いやだ。やだよ……やだ」
颯の肩を押しながら、芽榴は体を起こしてベッドの上に座り込む。
溢れる涙は拭っても拭っても、とめどなく芽榴の頰をつたった。
「ふっ……うっ。うぅっ」
堪えようとしても、涙で濡れた声が漏れてしまう。颯に謝りたいのに、言葉は出せなかった。
「……芽榴」
そんな芽榴を優しく抱きしめて、颯は芽榴の背中をさすった。
「……ごめんね。……ごめん」
颯の声が悲しくて、もっと涙の質量が増した。
もう二度と慎には会えない。もう二度と慎が芽榴に触れることはない。
でも体は慎の温もりを嫌になるほど覚えていて、彼の温もりだけを求めていた。
「……みの、は……ら、さん」
どうにかして、この想いを捨てなければいけないのに、どうしても捨てることができない。
『楠原ちゃんがアメリカ行ったら……聖夜と一緒に遊びに行ってやるよ』
『結構です』
『はぁ〜? 何かイラっときたから行くわ、絶対』
いつかの帰り道、慎とそんなことを話した。どうして今さらこんなことを思い出すのだろう。
「……嘘つき」
届かない想いばかりが宙を舞う。
芽榴の解けたリボンは、ベッドの上で絡まっていた。




