#12
聖夜に「好きだ」と言われた。
芽榴の気持ちは聖夜と同じものではない。それを分かっていて、聖夜はそれでも芽榴を好きだと言ってくれる。
「そばにおってくれるだけでええよ。すぐ好きになれなんて言わん」
聖夜にそこまで言わせて、それでも芽榴は首を縦に振れない。
「それでも……俺じゃ、ダメか?」
聖夜の気持ちが痛いくらいに伝わってくる。芽榴を強く抱きしめて、聖夜は離さない。「そばにおって」と聖夜のすべてが芽榴に伝えていた。
けれど、それじゃダメだった。そうしたらきっと今よりもっと聖夜を傷つける。
それが目に見えて分かっていた。
「……琴蔵さん」
聖夜の腕に手をかける。聖夜の胸を押して、聖夜のことを正面から見つめた。
「私……、私は……」
言いかけて、芽榴は言葉を止める。扉の方で足音が響いていた。芽榴はすぐに扉の方へと視線を向け、微かに開いた扉を見る。
「……簑原さん」
芽榴は小さくその名を呟いて、ソファーから立ち上がろうとする。でもその芽榴の腕を聖夜が掴んだ。
「……離してください」
「嫌や。離さん」
聖夜は真剣に芽榴のことを見つめている。でも芽榴は今、この部屋を出ていかなければならなかった。
きっと、慎がそこにいた。だから今追いかければ、慎に会える。
そんな芽榴の考えを分かっていて、聖夜は芽榴を離さない。
「お願いです。……琴蔵さん。私……」
愚かなことをしている自覚はあった。聖夜の気持ちを今ここで受け入れれば、芽榴は確実に幸せになれる。
でも芽榴は――。
「私は……簑原さんが好きです」
聖夜の目が大きく開く。聖夜の手に力がこもって、芽榴の腕が軋んだ。
「……それでもええって、俺は言うとる」
「それじゃ、ダメなんです」
「なんでや」
聖夜は引かない。聖夜の真剣な瞳がまっすぐ芽榴を貫いていた。
「俺じゃ慎の代わりにはならんか? どうしても……慎やないとあかんのか?」
聖夜の声が悲しく響いて、芽榴は聖夜の手を振り払えない。
「……行くな、芽榴」
聖夜は立ち上がって、もう一度芽榴を抱きしめる。抱き寄せて、そして芽榴にキスをしようとした。
「……っ」
でも芽榴がそれを拒んだ。聖夜のキスを拒んで、顔を下げた。
「ごめん……なさい」
聖夜のことを傷つけた。でも慎のことを想ったまま、聖夜のそばにいたら、もっと聖夜を傷つける。
「ごめんなさい」
聖夜の胸を押して、一歩下がる。
聖夜の顔を見た。辛そうなせ聖夜に、芽榴がかけられる言葉はない。
芽榴は聖夜に頭を下げて、特務室を出て行く。
「……アホ」
聖夜がそう呟いてソファーに座り込む音を聞いたけれど、芽榴はもう振り返ることをしなかった。
ラ・ファウスト学園の廊下を走る。芽榴の靴音が木霊して、心臓はうるさく音を立てた。
慎の行き先はきっと図書室だ。芽榴は見えない彼の姿を追いかけて走る。
走って、走って、廊下の角を曲がった。
そこに知った背中がある。
「みの、はら……さん!」
頭で考えるより先に声が出ていた。走りながら背中に声をかけていた。
大きな声で呼び止める。でも慎の歩みは止まらない。
「簑原さん! 待って、ください!」
声は聞こえているはずなのに、慎はそれを無視して歩き続ける。芽榴は慎の背中を追いかけて、距離を詰めた。
あともう少し、もう少しで慎のことを引き止められる。
そんな距離になって、慎が歩みを止めた。ピタリとその場に止まって、芽榴はそれに驚いて急ブレーキをかける。
距離は3メートルあるだろうか。芽榴は少し先にいる慎を見つめていた。
慎は立ち止まったまま、振り返らない。
「簑原さん……」
上がる息を抑えて、芽榴は慎に声をかける。でも慎の反応はなくて、芽榴は一歩前に足を踏み出した。
「みの……」
「もう、会わないって……聞かなかった?」
芽榴の足が止まる。
慎の声は冷たい。芽榴のことを見ずに、慎はそう問いかけた。
「聞きました。……聞きましたけど、私はまだ返事してないです」
「返事なんか求めてねぇよ」
突き放すように言って、慎は歩き始める。反射的に芽榴は足を動かして、慎がそれ以上先へ行かないように彼の腕を掴んだ。
「聖夜のところに戻れ」
「……嫌です」
「戻れよ」
慎は強くそう言って、芽榴のことを引き剥がそうとする。そうしてやっと、慎は芽榴はのことを見てくれた。
芽榴の腕に手をかけて、慎は怖い顔をしている。
「聖夜に『好き』って言われたんだろ? なのに、なんで聖夜を置いてこんなとこ来てんの。さっさと戻れよ」
慎は芽榴の気持ちより聖夜の気持ちを優先する。芽榴の意見など聞いてはくれない。だからきっと、芽榴が聖夜に出した答えを知れば、慎は怒るのだろう。
「琴蔵さんのことは……断りました」
静かにそう伝えると、慎の目が大きく開いた。信じられないとでも言うように、驚いた顔をしている。
驚いた顔のまま、慎は「冗談」と乾いた笑いをもらした。
「何考えてんの、あんた。相手は聖夜だぞ? 聖夜以上の相手がいると思ってんの?」
芽榴の考えを浅はかだと慎は笑う。
慎の意見は間違っていない。
琴蔵聖夜はすべてを持っていて、彼は絶対に芽榴を幸せにする。確約された幸せを投げ捨てた芽榴はどんな理由であれ愚かだ。
そんなことくらい分かっている。分かっていて芽榴は慎を追いかけた。
「それでも、私は……簑原さんのことが」
「まさか……俺のこと好きになったなんて、言わないだろ?」
芽榴の声にかぶせて慎はそんなふうに尋ねる。
慎の問いかけに、芽榴は答えない。答えないからこそ、その気持ちは慎に容易に伝わった。
「……っ」
慎の手に、微かに力がこもる。芽榴は自らの腕でそれを感じていた。
「んなの、勘違いに決まってんだろ……」
「……え?」
芽榴が顔を上げると、慎はハハッと笑った。目を眇め、芽榴を哀れむように眉を下げた。
「一回やって、それで好きって勘違いしただけだろ。……あのときしたのだって、俺への同情でしかなかった。そうだろ? あんた、優しいもんな」
慎は笑っている。感情の読めない笑顔を浮かべ、芽榴のことを見下ろしていた。
芽榴の顔が歪む様を、笑って見ている。
「だからあんたの気持ちは勘違い。……今戻れば、聖夜は考え直してくれるよ。だから、早くもど」
「勘違いじゃ……ないですよ」
芽榴は慎の緩んだネクタイを掴んで、引き寄せる。芽榴との距離が一気に近くなって、慎の瞳は揺れた。
慎の動揺が見える。不意打ちで見れた、その顔が本当。芽榴を嘲笑った余裕の顔は全部慎の嘘だった。
「ずっと、簑原さんが嫌いでした」
慎の目を見つめたまま芽榴は口を開く。言葉を口にして、また涙が滲んだ。瞬きをしたらこぼれてしまいそうで、だから重たい瞼を必死に開けたままでいた。
「簑原さんのことが嫌いで、嫌いで……でも一番信頼してました」
芽榴が辛い時も悩んでいる時も、誰より早く気づいてくれたのは慎だった。
いつもそばにいるわけではないのに、それでも芽榴のことを気遣って、芽榴の不安を笑い飛ばした。
それはたしかに聖夜のためだったのかもしれない。でも100パーセント全部聖夜のためだったのだろうか。
たった1パーセントでも『芽榴のため』の気持ちはあったはずだ。芽榴はそう、信じている。
「『好き』は『嫌い』に一番近い感情でしょ?」
芽榴の問いかけに、慎の体がビクッと反応を示す。歪んだ慎の表情が少しだけ芽榴を安心させた。
「簑原さんの嫌いなところ、私はたくさんあげられますよ。だから同じくらい、好きなところだってあげられます」
無理やりな理屈かも知れないけれど、それは本当だった。慎を嫌いになった理由も、好きになった理由も、いくらだってあげることができる。
「私は……簑原さんのことが、好きですよ」
そう告げて背伸びをした。慎の唇に自分の唇を押し当てる。目を閉じて、慎にキスをした。
そうして離れるつもりだった。
でも慎の腕が背中に回って、芽榴は慎から唇を離せなくなる。離れかけた芽榴の顔を慎が引き寄せた。
芽榴から仕掛けたキスは、気づけば慎のものになっていた。
荒々しく、でもどこか優しいキスはあの日と同じ。
壁に背中が当たっている。慎によって両手を壁へ押し付けられていた。体の自由は奪われて、慎にされるがままキスをしていた。
「みの、はらさ……」
答えられたキスが嬉しくて、芽榴は慎の胸を掴んでしがみつく。
慎の気持ちも同じだったのだろうか。そんな甘い期待は、けれどもすぐに打ち砕かれた。
「これで……満足?」
大きなため息の後、慎はそう問いかけてきた。芽榴が顔を上げると、慎はさっきと同じように目を眇めて笑っていた。
「俺にとって、あんたは特別じゃない。他の女と何も変わんねぇよ。……それを、勘違いすんな」
慎の胸に当てた手が震える。頭の中で芽榴の悪魔が「ほらね」と愚かな芽榴を嘲笑った。
「……ああ、でもあんた俺のこと好きなんだっけ?」
慎はそう言って、芽榴の耳元に唇を寄せる。
「じゃあまた……やらせてくれんの?」
パシン、と小気味よい音が響く。
芽榴は反射的に、慎の頬を叩いていた。
慎も本当は自分のことを想ってくれていたのではないかと。どこかで期待していた慎の気持ちは、所詮芽榴に都合のいい思い込みでしかなかった。
「……バカ。……っ、バカ!」
慎を責める言葉は頭にたくさん浮かぶのに、うまく声が出せなかった。「バカ」と口にするのが精いっぱい。でも涙で濡れた声はそれだけの言葉に全部の気持ちを乗せていた。
「……もう」
綺麗な思い出が全部真っ黒に染められた。
もう芽榴と慎は戻れない。本当に、すべてを壊してしまった。
「もう二度と……会いになんか、来ません」
芽榴は慎の胸を押して彼から離れる。彼に背を向けて、歩いた。
響く足音は芽榴のものだけ。慎は追いかけてこなかった。




