#11
バレンタイン当日。
学園は役員にチョコを渡すという一大イベントでいつもより騒がしい。
もちろん、受け取る側である役員もそれぞれみんな忙しそうだった。
「藍堂くん。よかったらどーぞ」
昼休み、生徒会室にやってきて芽榴は有利にピンク色の袋を差し出す。直接チョコを渡されるというよりは間接的に渡されることの多い有利は、生徒会室で静かに勉強していた。
「ありがとうございます」
「たくさんもらうだろうから、甘さ控えめで紅茶風味のクッキーにしたんだー。紅茶大丈夫?」
「大丈夫です。……本当に、ありがとうございます」
芽榴の心遣いに、有利が少しだけ笑顔を見せる。
今日はテスト一週間前。芽榴は有利の開いている国語の問題に目を向けた。
「今回は難易度高めだよね」
「はい。いつも通りにとれるか心配です」
「あはは、藍堂くんなら大丈夫でしょー」
「そのまま返しますよ」
そんなふうに言われ、芽榴はまた声に出して笑った。すると有利はぎこちない様子で「あの……」と芽榴に声をかけた。
「……楠原さん」
「んー?」
「蓮月くんに、クッキー渡しました?」
有利が遠慮がちに問いかける。芽榴は首を横に振った。
朝の時点で、偶然登校が重なった来羅と貸していたものを返しに教室へやって来た颯には渡すことができた。ここへ来る前に空き教室へ寄って翔太郎にも渡せ、有利には今渡した。
役員で、唯一風雅だけに渡せていない。この日は風雅が一番忙しいはずだから、それも当然だった。
「全然会えなくて。やっぱり……呼び出しで忙しいのかな」
芽榴が苦笑しながら尋ねると、有利は少しだけ視線を横に投げた。そして目を細め「そうですね」と小さく呟く。
「あの、よかったら……僕から蓮月くんに、渡しておきましょうか?」
「え?」
有利の提案に、芽榴は少し目を見張る。
「自分で渡すからいいよー」
「……でも、たぶん。放課後も捕まらないと思います」
有利にそう言われて、芽榴は「……あ」と小さな声をもらす。今日の放課後、芽榴は学園に長居できない。
「じゃあ……放課後まで会えそうになかったら、お願いしていい?」
「はい」
有利の返事をきいて、芽榴は「ありがと」と笑顔を見せる。芽榴の笑顔を見て、有利はやはり心配そうな顔をしていた。
「楠原さん。……ありがとうございます」
教室へ戻ろうとする芽榴に、有利はもう一度クッキーのお礼を告げる。芽榴は「どーいたしまして」とのんびりな口調で答えて、生徒会室を出た。
扉が閉まるのを確認すると、有利は会長席のほうを見て口を開いた。
「これで、いいんですか?」
会長席には颯も、誰も座っていない。しかし、有利が問いかけると会長席の後ろからちゃんと声が返ってきた。
「……うん。放課後も呼び出されてるのは本当だから」
風雅が会長席の後ろに隠れていた。芽榴がここに来る前、呼び出しの合間に風雅は生徒会室にやってきた。
有利にそのことを頼んでいる途中で、芽榴がやってきたのだ。
「どうして、今もらわなかったんですか?」
今会って受け取ることはできたのに、風雅は隠れたまま芽榴に会おうとしなかった。それを不思議に思って有利が問いかけると、風雅が悲しげに笑う声が聞こえた。
「……義理だって、分かるから」
会長席の後ろに座り込んだまま、風雅は呟く。
芽榴にとって風雅は恋人でも好きな人でもない。だから義理なのは当然で、他の役員もみんなそう。
みんな、義理チョコならそれでいい。でも、そうじゃないから風雅は嫌だった。
「芽榴ちゃんね、放課後ラ・ファウストに行くんだって。……植村さんからメールきた」
「え?」
放課後少ししたら芽榴に会いに行けそうだ、と舞子にメールで伝えると、舞子からそんな返事が来た。
芽榴とラ・ファウスト学園、風雅が知る限りの現状を照らし合わせ、思い浮かぶ人物は風雅の嫌いな彼だった。
「……楠原さんは、あの人に会いに?」
「たぶん……ね」
風雅のため息が聞こえる。有利は風雅から話を聞いて、表情を曇らせた。
「楠原さんが……これ以上傷つかなければ、いいのですが」
芽榴の顔色は日に日に悪くなっている。もし彼に会って、前のような笑顔が戻るならそれでいい。
でもなんとなく、そうはならない気がして有利は視線を落とした。
放課後、芽榴は結局風雅に会うことができず、有利に風雅へのクッキーを託してラ・ファウスト学園にやってきた。
門前の警備員に挨拶をして『琴蔵様と面会の予定が』と伝えると、あらかじめその旨を聖夜から聞いていたらしい警備員たちが手厚い待遇で芽榴を学園へ通した。
学園の生徒の視線を感じながら、芽榴は構内を歩く。きょろきょろと辺りを見渡すようなことはしないが、視線はずっと周囲を気にしていた。
道に迷うことなく特務室に着いて、芽榴は深呼吸をする。少しだけ緊張しながら、芽榴は特務室の扉をノックした。
「……楠原です。入っても、いいですか?」
芽榴が中に問いかけると、すぐに聖夜の声が返ってくる。聖夜の許可を得て、芽榴は特務室の扉を開けた。
「失礼します……」
中に入ると、自分でそうしようと思うより先に、目が動いて特務室の中を一周見渡していた。
部屋の中には聖夜だけ。それは特におかしな話でもない。芽榴の用件は聖夜だけいれば十分済むことだった。
「……思ったより早う来たな」
聖夜はソファーに座っている。芽榴のことを見て、小さく笑んでいた。
「はい。……今日から生徒会が休みで」
「テスト前なんやろ? 知っとる」
聖夜はソファーの真ん中から少し端へと移る。そうして芽榴に「横に座れ」の合図を送ってきた。
芽榴は軽く頭を下げて、そんな聖夜の隣に座った。
「あの……これ。昨日言ってた、チョコです」
芽榴は手提げから茶色の小箱を取り出して聖夜に渡す。聖夜に渡したものはクッキーではなく、チョコだ。
役員と違って、聖夜にチョコを渡す人間はそれほど多くない。身分的問題で『渡せない』というのが正しい言い方だ。
だから聖夜にはちゃんとチョコを用意した。
「開けてもええ?」
「はい。どーぞ」
聖夜が小箱を開けると、そこには綺麗にトリュフが並んでいる。ビターチョコをベースにしたトリュフだ。聖夜はその中の一つを摘まんで食べ、そして感嘆の息をもらした。
「うま……」
「本当ですか? ……よかったー」
聖夜の感想を聞いて、芽榴は素直に喜んだ。聖夜は芽榴の喜んだ顔を嬉しそうに見て、もうひとつトリュフを摘まむ。
芽榴は美味しそうにチョコを食べる聖夜の様子をうかがいながら、視線だけ横に向けていた。
いつも慎が座っている椅子。そこに、慎はいない。
「……慎か?」
聖夜にそう問われ、芽榴は視線を戻す。聖夜はチョコの箱を目の前の机に置いて、ソファーに深く座り込んだ。
「慎ならたぶん図書室におるで。……そのうち来るかもな」
聖夜は静かに告げる。それを聞いて、芽榴は薄く笑った。
「別に……来なくていいですよ。忙しいんでしょうし」
「せやな。……お前が用あったんは、俺やしな」
強調するように言って、聖夜は芽榴に視線を向ける。探るような聖夜の視線に、芽榴の瞳が揺れた。
「……琴蔵さん」
「ほんまは……慎に会いに来たんとちゃうか?」
気のせいではなかった。昨日聖夜は気づいていたのだ。聖夜に会いに行くことを口実にした、芽榴の本当の目的に気づいていた。
「そんなわけ……ないじゃないですか」
それなのに、まだ隠し続けようとする。そんな芽榴を見て、聖夜は悲痛な表情を浮かべた。
「もう、俺に嘘吐くのやめや」
聖夜は優しい声で言って芽榴を抱きしめた。
「……嘘、なんか」
「俺が分からんと思うか?」
聖夜の声が耳元でする。声音はとても寂しくて、芽榴の心は締めつけられた。
「俺には分からんって、思うとった?」
聖夜は何度も問いかける。抱きしめる腕にはどんどん力がこもっていた。
聖夜に嘘をついた罪悪感が、芽榴の心に充満していく。
でもそれなのに心が求めるのは別の温もりだった。
聖夜にこんな顔をさせても、それでも慎に、会いたかった。
「ごめん……なさい」
「……慎に会いに来て、どうするつもりやったん?」
その問いかけに芽榴は答えられない。自分でもどうするつもりだったのかは考えていなかった。
ただ慎に会って、ちゃんと話がしたかった。
「あいつのこと好きやって、言うつもりか?」
聖夜の言葉に芽榴は目を丸くする。首を横に振ろうとするけれど、聖夜の手が芽榴の頭を固定していた。
「違います……。違いますよ、私はあの人のことなんか……」
否定しようとした。でも、できなかった。慎への想いは偽りようがない。
慎のことが好き。この気持ちだけが、今の芽榴と慎を繋いでる気がした。
だから言葉で否定することすら拒んでしまう。
「私は……」
続ける言葉がなくて、空気だけが漏れていく。滲む涙が溢れないように必死に堪えて、芽榴の体が震えた。
「もう……言わんでええよ」
震える芽榴の背中を聖夜は優しくさすってくれる。
「……好きな女が誰のこと想うて、何を考えとるかくらい分かる」
一瞬、聖夜が何を言っているのか理解できなかった。聖夜の言う『好きな女』が自分であると理解して、続けてその『好き』の意味を考える。そうして出てきた答えを芽榴は自分で否定した。
でも聖夜はそんな芽榴の考えを察したみたいに、しっかりと言葉を付け加えた。
「……友人として気にかけとるんちゃうよ」
友人じゃない。だとすれば、その『好き』の意味は一つしか残らない。
「俺は……お前のことが好きや。一人の女として、好きなんや」
聖夜の想いが自分に向けられている。聖夜にとって芽榴は本当に特別だったのだ。
そしてその気持ちを知った今、芽榴の気持ちが絶対に叶わないものであることも理解できる。
「……嘘」
そうであってほしかった。でも聖夜の気持ちが嘘でないことくらい、分かっていた。
「嘘やない。芽榴……ほんまにお前が好きなんや」
聖夜の「好き」という言葉が頭の中を駆け巡る。何度も何度も木霊するように響いて、芽榴は堪えきれず涙を流した。
聖夜の気持ちを知って、より一層芽榴の心に慎への想いが広がる。
芽榴も聖夜も、互いに求める気持ちは手に入らない。
目の前に広がる現実はあまりにも残酷だった。泣いたって変わらない。それでも悲しくて、涙が止まらない。
慎は聖夜を選ぶ。
聖夜が芽榴のことを好きでいる以上、何があっても慎が芽榴を好きになることはなかった。
それを、芽榴は知ってしまった。
慎のことを思って涙を流す芽榴を、それでも聖夜は抱きしめたまま離さない。
芽榴の背中をさする聖夜の手は、心が苦しくなるくらい優しかった。
「気持ちなんか後でええよ」
聖夜の強い想いが芽榴の心に響く。涙のせいで声が出ない。「そんなことを言わないで」と心の中で呟いてみても、聖夜には届かない。
聖夜の優しさを、慎は与えてくれない。
「せやからそばにおって。……俺を選んで」
静かな部屋に木霊する、聖夜の声は扉の向こう側まで響いていた。




