#10
あれから数日。
麗龍学園の生徒会室では明るい芽榴の声が聞こえていた。
「神代くん、はいこれ。仕上げたよー」
「……もう、終わったの?」
芽榴は会長席に仕上げた仕事を持っていく。ドスン、と音を立てて書類の山を置くと、颯は眉を下げた。
「うん。次の分もあるならちょーだい」
「……あるけど、少し休んだら?」
颯はそう声かけするが、芽榴は笑顔で「大丈夫だよー」と答える。そうして颯から次の仕事を受け取って席へと戻った。
5冊ほどの分厚いファイルと新たな紙の山を目の前に広げる。バラバラの書類を項目ごとに整理していると、隣で風雅が心配そうに芽榴を見ていた。
「芽榴ちゃん。ペース早くない? そんなに急いでやらなくても……」
「そーかな? これ終わったら、蓮月くんの分も手伝うよー」
芽榴はニコリと笑い、慣れた手つきで書類を仕分ける。そんな芽榴のことを翔太郎も有利も見ていた。
「蓮月にはむしろペースをあげろと言いたいが……楠原、その調子だとパンクするぞ」
「しないよー」
翔太郎が芽榴を気遣う。でも芽榴はあはは、と笑って翔太郎の心配をかき消そうとした。
「今はやる気があるからー」
「……一昨日から、ずっと休んでるところを見ませんよ?」
続けて有利がそう声をかけてくる。
一昨日から、芽榴はずっとこんな調子だ。時間があれば何かに集中していた。
ボーッと体を休めている時間がない。
でも同じだけ、元気に笑っている。疲れた様子は一切見せなかった。実際、疲れは感じていなかった。
「テスト休みも近いんだし、できるだ仕事終わらせておきたいでしょー?」
そんなふうに笑って答える。そのあいだもずっと、芽榴は手を動かしたままだった。
次の日もその次の日も、芽榴の調子は変わらない。制御ができなくなった機械みたいに、ずっと頭も体も動かしていた。
「るーちゃん」
月1の委員会。今回の担当は芽榴と来羅だった。委員会が終わって、教室の掃除をする芽榴に来羅が声をかけた。
「んー?」
「残りの片付けは私がしておくから、先に帰ってていいよ」
各クラスの委員長から委員会誌を集め終わり、来羅は芽榴にそう伝える。残っているのは黒板の清掃と戸締りだけ。来羅だけでできる作業だ。
「じゃあ来羅ちゃんが片付けてる間に、私は委員会誌の内容チェックしておくよー」
芽榴はちりとりで拾ったゴミをゴミ箱に捨てると、教卓のところに山積みにした委員会誌に手を伸ばす。すると、芽榴がとろうとした会誌を来羅がひょいっと取り上げた。
「え?」
「……るーちゃん」
来羅が少しだけ怖い顔をしていた。男子の制服を着た来羅の姿は、女装のときより大人びて見える。険しい顔は男らしく思えた。
「会誌のチェックはいつも颯に任せてるじゃない。るーちゃんが今する必要はないよ」
全クラスの会誌をチェックしてまとめる、その作業はいつも颯が担当しているものだ。
誰がやってもいい仕事だが、それでも習慣的に颯がしている。委員会の担当者は集めた会誌を生徒会室に持って帰るだけでいい。芽榴が生徒会に入る前からそう決まっていた。
「でもほら、やっておいたら神代くんも楽になるじゃん? 来週から生徒会休みで、他の仕事も山積みだし」
芽榴は「ね」と言って、教卓に置いてある会誌に再び手を伸ばす。そして来羅は今度こそ会誌ではなく、芽榴の腕を掴んだ。
「来羅ちゃ……」
「変だよ、るーちゃん。……自覚はしてるでしょ?」
来羅の険しい顔が心配の色を帯びる。
自覚はしている。空元気で、逆にみんなに心配をかけていることも分かっていた。だからといって何も取り繕わなければ、目も当てられない有様になることも分かっている。
だから無理やりでもなんでも、笑うほうを選んだ。
「無理してるでしょ? 顔色悪いもの」
「大丈夫だよー」
それも嘘。
暇さえあればあの日のことを考えてしまうから、何も考えられないように他のことに集中していた。
眠るのが怖くて、夢を見るのが怖くて、睡眠時間もほとんど削っていた。
来羅は芽榴の『大丈夫』を聞いて、余計に芽榴を心配した。
「るーちゃん……簑原さんと何かあった?」
芽榴の笑顔が固まる。
その名前を、出さないでほしい。そう心の中で願っても届きはしない。
「簑原さんが迎えに来なくなってから……るーちゃん変だよ? るーちゃんが学校休んだ日……簑原さんと何かあったんじゃ」
「ないよ。……何もない」
芽榴はそう言い張る。
慎が迎えに来なくなったことは、役員にとっても一番分かりやすい変化だった。
もう一緒に帰る用がなくなったから、と芽榴はそう言い訳したけれど、誰もその答えに納得していないことは分かっていた。
何もなかった。この状況でそう言い張るのは、あまりにも滑稽だ。そう分かっているのに、芽榴は無理やりな答えにしがみついた。
「簑原さんは……ほら、そういう人じゃん。私のこともとうとう飽きたんだよ」
うまく、笑えない。
自分で言っておいて、悲しくなるなんてバカみたいだ。芽榴は俯いてハハッと乾いた笑いをこぼす。
「……そんなこと、あるわけないでしょ? ねぇ、本当は何が……」
「本当だよ。……本当に」
他の子たちと同じように、捨てられた。慎に都合のいい女の子になって、捨てられたのだ。
そう言い聞かせて割り切ろうとするのに、最後のキスが忘れられない。慎の『ごめん』という声が頭から離れなかった。
「だから……大丈夫だよ」
無心になって、別のことを考えて、芽榴は笑ってみせる。平気だと言い聞かせて笑顔を顔に飾った。
慎に会わないまま、日にちは過ぎた。
日曜日、明日をバレンタインに備えたその日、芽榴は東條に呼ばれて東條グループのオフィスに立ち寄った。
「アメリカに行く前に、東條家の現状を教えておいたほうがいいと思ってね。……貴重な時間を割かせて悪いんだが」
「そんなことないですよ。あの……ついでなんですけど、ここにある経営学の本借りて帰ってもいいですか?」
芽榴は東條のオフィスにある書棚を眺め、そう尋ねる。すると東條は「構わないよ」と言って、芽榴と一緒に書棚のほうへ足を運んだ。
「これなんかは、どうかな? 分かりやすいし読みやすい」
「あ、それは琴蔵さんに借りてもう読み終わったんです。……こっちの本はどんな感じです?」
芽榴は別の本をとって、東條に尋ねる。東條と本を数冊選んで、それから2時間ほど大事な話が始まった。
帰り仕度を済ませて、芽榴は東條のオフィスを出る前に持ってきたそれを東條に渡した。
「明日、バレンタインなのでよかったらどうぞ」
遠慮がちに、ダークブラウンの小箱を渡す。すると東條は嬉しそうに目を細め、目尻を下げた。
「ありがとう。……とても嬉しいよ」
東條は芽榴の頭を優しく撫でる。東條に喜んでもらえたことが嬉しくて、芽榴も笑っていた。
「アメリカへ発つときには出張が入っていて送りに行けないかもしれない。……すまない」
「大丈夫ですよ。仕事を優先してください」
「そのあとアメリカでの会議も控えているから、そのときに顔を出しに行くよ。本当に……すまないね」
東條は困り顔で言う。東條の場合、アメリカでの仕事もたくさんあるため、そんなふうにアメリカでも定期的に会うことができる。だから芽榴は「気にしないでください」と笑った。
「アメリカで待ってます」
そう告げて、芽榴は東條のオフィスから出た。
東條のオフィスを出て、大通りに面した通りをしばらく歩く。ボーッとしないように、頭の中では昨日の夜読んだ本の内容を思い返していた。
そうして歩いていると、前方の騒がしい様子に意識が向かって、視界には見知った人が映り込む。それが誰であるかを頭で認識して芽榴は立ち止まった。
「芽榴」
大通りの傍に見慣れた高級車。その車の後部座席に背中を預けて立つ、琴蔵聖夜がいた。
隠れて会いに来たときと同じように、彼なりの変装をして立っている。その変装が相変わらず周囲の人間の目を惹いていた。
周りに騒がれていることも気にせず、聖夜は現れた芽榴を見つけて芽榴だけに視線を送る。
「……琴蔵さん」
芽榴が名前を呼ぶと、聖夜は穏やかに笑った。
芽榴は聖夜の車に乗っていた。車はゆっくり芽榴の家へと向かっている。
聖夜の向かい側に座って、芽榴は膝の上に置いた自分の手を見つめていた。
「……慎の兄貴は」
静かな車で、聖夜の口からそう切り出す。芽榴がビクッと肩を震わせると、聖夜は一旦声を止めて、そしてまた言葉を続けた。
「慎の兄貴は、後継者候補から外されたで」
聖夜は小さな声で、その事実を芽榴に伝えてきた。芽榴がすぐに顔を上げると、聖夜の視線と絡む。そして聖夜の表情が申し訳なさそうに歪んだ。
「あのあと本家からも呼び出されて……なかなか会いに来れんくて、ほんまに悪い」
聖夜は視線を下げ、膝の上で合わせた手を見つめる。そんな聖夜を見て、芽榴は苦笑した。
「次の日に電話くれただけで十分です。……心配かけてすみませんでした」
次の日、聖夜は芽榴に電話をくれた。
慎の兄に襲われかけたことを知って、聖夜はすごく心配してくれていた。
でも慎が聖夜にそのことを伝え、それ以上のことを伝えなかったのだと思うと、いろんな感情が溢れて言葉が出なかった。
電話元でただ、聖夜に「大丈夫」と答えることしかできなかった。
「あのときはちょっと動転してて、でも今は本当に、大丈夫です」
芽榴は薄く笑って、そう付け加える。すると聖夜は「……そうか」とまだ心配顔のまま頷いた。
そうして少しの間をとって、聖夜は再び口を開いた。
「……あれから、慎に会うたか?」
慎の名前が出て芽榴は目を見張ってしまう。うるさく鳴る心臓の音を感じながら、ゴクリと唾を飲んだ。
「会って、ません」
芽榴がそう答えると、聖夜は「……そうか」と目を細める。少しだけ眉間に皺を寄せ、聖夜はため息を吐いた。
「……簑、原さんは……どうしてますか?」
慎の名を口にするのをためらって、声が揺れる。心臓の音を体中に響かせながら、芽榴は聖夜のことを見つめた。
「変わらんよ。ずっと勉強しとる。……兄貴が後継者候補から外れて、実質的に後継者に決まったから当然やけど」
慎が後継者になれる。それはとても喜ばしいことなのに、芽榴も聖夜もうまく喜べない。きっと本人はもっと複雑な気持ちだろう。
「そんでもって……俺に何度も謝るだけや」
聖夜は視線を下げたまま、静かにそう答えた。
『聖夜……ごめん。……ほんとに、ごめん』
『お前が俺に謝ることちゃうやろ。全部お前の兄貴がしたことや。お前の兄貴は許さへんけど……お前のことは怒っとらん』
『……ごめん。俺……、ごめん』
慎のせいではない。それなのに、慎は聖夜に謝り続けた。聖夜にそう語られ、芽榴は聖夜から目をそらした。
「兄貴のことで、だいぶ責任感じとるんやろ。……せやからむしろ、お前に会いに行っとると思うたんやけどな」
聖夜はそうつぶやいて、確認のために芽榴に問いかける。
「慎は……お前のこと、助けたんやろ?」
そう尋ねられ、芽榴は少しの間をおいてから頷く。慎が芽榴を助けてくれた。その事実は変わらない。
そのあと何があったとしても、あのとき芽榴を助けたのは慎だ。
「……そうか」
聖夜は少しだけ安心するように笑った。
「無事で、よかった」
慎はこの安心した顔を見るためだけに芽榴のそばにいた。
いつだって、慎が芽榴を助けてきたのは聖夜のため。聖夜ができる限り芽榴のことを心配しないで済むよう、芽榴のそばにいて芽榴のことを気遣っていただけ。
聖夜の大切な友人である芽榴に手を出してしまった。あの日のことは慎にとって過ち以外の何でもないのだろう。
慎が最後に告げた「ごめん」の意味も今なら分かる気がした。
「……芽榴?」
慎のことを考えると、胸が苦しくなる。
どんなに慎のことを考えても、あの日のことをいいふうに考え直しても、現状が芽榴の甘い考えを否定した。
慎のキスは優しかった。でもそれだって、芽榴に特別なものなんかじゃなくて、他の子たちと同じものだったのだと。
芽榴のことを気遣って「ごめんね」とサヨナラをした。そういうふうに考えてみても、結局芽榴は慎に捨てられたのだと現実が伝えてくる。
それなのに、まだ慎のことを信じてるバカな自分がいる。慎との綺麗な思い出が、慎のことを信じていた。
「琴蔵さん……」
どうしようもない思いも、空回りしている今も、このままじゃ何も変わらない。
「心配かけたお詫び、ってわけじゃないですけど。明日バレンタインですから……放課後、ラ・ファウストにチョコ持って行っていいですか?」
「……俺に、渡しに来るん?」
聖夜はそう尋ねてくる。
聖夜にチョコを渡しに行くのは事実だ。でも本当の目的は別にあった。
少しの罪悪感を覚えながら、芽榴は頷く。
「琴蔵さんに、です」
「……そっか」
聖夜は優しく笑って、芽榴の提案を受け入れる。嬉しそうな声で聖夜は答えた。
「せやったら……楽しみにしとく」
だからきっと、これは芽榴の気のせい。
そう告げる聖夜の笑顔が、芽榴には少しだけ悲しげに見えた。
 




