#09
カーテンからもれる日光が徐々に薄くなり始め、慎は隣で眠る彼女を気遣い、電気をつけて暗くなり始めた部屋を明るくする。
今は夕方と夜の境、曖昧な時間。
慎はベッドに座ったまま、眠る芽榴の顔を見つめる。白い肌は少しだけ青ざめているようにも見えた。
「……後悔してるだろ?」
芽榴に無理をさせた自覚はあった。
今まで理性がなくなることなんて、ほとんどなかった。どんなに愚かな行動も非道な行動も、それはちゃんと慎の頭の中で計画されて行われたことだった。
自分の不利益にならないように、後先を考えて行動してきた。
「俺は……後悔してる」
先を考えずに、そのときの気持ちに任せて行動するのははじめてで、その結果目の前に残る現実は悲惨だった。
「後悔してるくせに……なんで満足してんだろうな」
聖夜を裏切って、芽榴を傷つけた。
そう分かっているのに、芽榴を一瞬でも自分のものにできたことが嬉しくて幸せを感じている。
そんな最低な自分を嘲笑うことしか、慎にはできなかった。
「……最低だよな」
好きでもない男に触れられて、芽榴は何を思っただろう。兄に襲われそうになった芽榴を助けたつもりで、結局自分が襲ったようなものだ。
兄は最低だった。でもそれ以上に最低な自分がいる。
芽榴のことだけは傷つけたくなかった。
これから先もずっと、芽榴のそばで芽榴を影から守ることができれば、それでよかった。
誰よりも、大切だった。聖夜以上に、傷つけたくない。
本当は一番大切だった。
「……ごめん」
微かに涙の跡が残る芽榴の頰に触れ、慎は彼女にキスをする。
これが最後のキス。
自分に言い聞かせて「だから許して」と心の中で芽榴に願ってみる。
キスをして、芽榴を離せなくて、嫌になるくらい思い知らされる。
芽榴のことがどうしようもなく好きだった。
「……ごめんな」
けれどもう、そのことを伝える資格さえなくなった。この気持ちを、慎は心の奥に仕舞い込んだ。
芽榴の前髪を整え、ベッドから起き上がる。
制服を着直して部屋にメイドを呼び、水を持ってくること、芽榴のために車を出すこと、そして、芽榴への伝言を頼むと、慎は部屋を出て行った。
慎の足音が遠ざかるのを聞いて芽榴は目を開ける。慎が出て行ったのを確認して、体を起こした。冷たい体を隠すように、毛布を手繰り寄せたまま上半身を起こすと、体が鈍く痛んだ。
「あ……あの、起きていらしたんですか」
部屋に残っていたメイドは芽榴が起き上がったことに驚いていた。
「慎様の伝言も……聞いておられました、か?」
メイドが遠慮がちに尋ねてくる。芽榴は正面を向いたまま、メイドに視線を向けることなく頷いた。
「支度をしたら……帰ります」
慎はこの部屋にいない。でも隣には彼の温もりが残っている。
「すぐに、水をお持ちします。車の用意も急ぎますので、しばらくお待ちください」
メイドは慎に言われたとおり動く。芽榴に水を持ってくるため、いったん部屋から出て行った。
そうして、慎の部屋に芽榴はひとりきり。視線を下げると黒い髪が肩から滑り落ちて揺れた。
「……バカ」
慎にキスをされて、芽榴は目を覚ました。慎のキスが心地よくて、慎の背中に手を回そうとしたけれど、芽榴にはそれができなかった。
――……ごめんな――
いつもみたいに、バカにして笑ってほしかった。謝ってほしくなんてなかった。
あのとき芽榴に覆いかぶさって、慎は言っていた。絶対に後悔する、と。
けれど全部終わった今、芽榴は後悔していなかった。慎にすべて預けたことを、後悔などしていない。
それなのに涙が止まらないのは、何もかも全部壊れてしまったから。
――もう二度と会わない。この子が起きたら……そう、伝えて――
出て行った慎はもう戻ってこない。
どうせ捨てるならボロボロにして捨ててほしかった。慎のことを憎く思えるくらいに。
最後の最後で優しくキスをして、謝ってサヨナラなんて、納得できるわけがなかった。
慎のことが忘れられなくなるだけだった。芽榴の心は囚われて、もう抜け出せない。
でもどんなに思っても、慎は芽榴の前に戻ってこない。
「……大嫌いです」
毛布に顔を埋める。漂う慎の香りに涙が止まらない。やっと気づいたのに、もう慎には届かない。
芽榴は慎が嫌いだった。
嘘ばかりつく慎が、大嫌いで、大嫌いで、そして、誰よりも大好きだった。
慎の命令どおりに用意された車で、芽榴は家へと帰る。暖かい家の中に入ると、真理子が優しく迎え入れてくれた。
朝、ラ・ファウストの男子生徒の車の中で、学校に休む連絡はしたため、家に連絡は来ていないはずだ。
何も知らない真理子に芽榴は安心して、夕食の時間になるまで2階にいることにした。
階段を上がって自分の部屋に向かおうとすると、部活を早く切り上げた圭が芽榴の帰りを待っていた。
「芽榴姉」
「……圭」
圭は芽榴の姿を見て、少しだけ安心した顔をする。見た目上、何も変わりのない芽榴を見てホッとしていた。
「今朝、ラ・ファウストの人とどっか行くの見て……心配で」
そうして芽榴は慎があのとき助けに来た理由を知る。
芽榴を心配した圭が風雅に連絡をして、その風雅からの連絡を受けて慎は芽榴を探しに来たのだと。
「先輩に琴蔵家の人から『大丈夫だ』って電話があったって聞いて……。安心してたけど、本当によかった」
大丈夫だと思っていても、実際に芽榴を見るまでは心配だったのだろう。圭はその場に座り込んで「よかった」と大きく息を吐く。
「先輩も、心配してるから……電話、してあげて」
圭にスマホを渡され、芽榴は眉を下げて笑う。画面には風雅の番号が出ていて、1回タップすれば彼に電話が繋がるようになっていた。
「……うん。……ね、圭」
「何?」
「お母さんに黙っててくれて、ありがと」
芽榴が真理子や重治に心配をかけたくないことを、圭は一番よく理解してくれている。それでも大事だったなら、報告していただろう。言うべきことと言わなくてもいいことを、圭はちゃんと判断していた。
「……芽榴姉のことは俺が一番分かってるつもりだよ」
圭はそう言って、立ち上がる。
芽榴にスマホを預けたまま圭は部屋に戻って、芽榴もそれを見送って自分の部屋へと帰った。
明かりをつけて、扉を閉める。深呼吸をして、芽榴は圭のスマホを耳に当てた。
数回のコール。そして風雅の声が聞こえた。
『圭クン! 芽榴ちゃん、帰ってきた?』
風雅の焦った声が聞こえて、思わず芽榴は頰を緩めた。心配かけて申し訳ないのに、心配してくれてることが嬉しかった。
「……うん。帰ってきたよ」
『え、芽榴ちゃん!? 大丈夫!?』
さっきよりももっと大きな声で聞かれて、芽榴は「うん」と短く返事をする。小さく笑った声はスマホ越しに風雅にも聞こえただろう。
『琴蔵聖夜から電話があって……、簑原クンが迎えに行ったって……本当に、大丈夫だった?』
風雅の声は真剣だ。
そしてその質問に、芽榴はすぐに答えられない。
「…………大丈夫だよ」
そう言って、芽榴は自分の鼻を押さえた。鼻の奥がツンとして痛い。身体はもっと痛かった。
『……芽榴ちゃん?』
「心配かけて、ごめんね。明日はちゃんと学校行くから」
風雅にそれ以上心配されたくなくて、芽榴は言葉を畳み掛ける。慎と何があったのかを、聞かれたくなかった。
聞かれても、答えることなんてできない。
『芽榴ちゃん、本当に大丈夫? ねえ、簑原クンに何か……』
「何も、なかったよ」
これ以上、言いたくない。引き裂かれていく心が痛くて、芽榴はしゃがみこんだ。
「蓮月くん。また、明日ね」
風雅の声を無視して、芽榴は電話を切る。体操座りで体を丸めた。皺になる前に制服を脱ぎたいけれど、自分の体を見たくなかった。
見たら慎を思い出してしまう気がした。
「大丈夫なんかじゃないよ……簑原さん」
誰にも言えない本音が木霊する。スカートにはいくつも涙の痕が残った。




