#07
ラ・ファウストの男子生徒に連れられ、芽榴は簑原家に来ていた。使いの者が門の前で待っていて、芽榴はその人の後ろをついていく。東條家と似た家の造り。広々とした屋内は、とても寒々しい。
応接間のような場所に連れてこられ、芽榴は中心にあるソファーに導かれた。ふかふかな座り心地のいいソファーに座ると、メイドの女の子が紅茶を用意してくれた。
「ありがとうございます」
芽榴がお礼を言うと、メイドの女の子は少し戸惑った様子で「い、いえ」と頭を下げて部屋を出て行った。
芽榴は紅茶を飲みながら、部屋の扉が開くのを待つ。しばらく待つと、部屋の扉はゆっくり開いた。
そこから現れたのは、柔らかい笑みを浮かべる慎の兄だ。
「初めまして。急に呼び出して、すみません」
そんなふうに声をかけ、慎の兄が芽榴の元に歩み寄る。
「慎の兄、簑原凌です。……弟がお世話になっているみたいで」
凌は芽榴の前に手を差し出した。握手を求められ、芽榴は社交的な笑顔を顔に乗せる。
「初めまして。……楠原芽榴です」
凌の手に自分の手を添える。
挨拶を済ませると、凌は芽榴の向かいのソファーに座った。メイドが凌にコーヒーを持ってきて、部屋の中は凌と芽榴、2人だけの空間になった。
「……私に、何かご用が?」
芽榴から話を切り出す。すると凌は「ええ」と言って、口にしたコーヒーを机に置いた。
「慎が特定の女性を気にかけることはあまりないので、どんな方かと思いまして」
凌の笑顔は社交的で、嫌味がない。芽榴も慎とのことを知らなければ、彼に対して好印象を受けたはずだった。
「……弟のことは気にかけているんです。誰と親しくしているのか、何をしているのか。弟も簑原家の人間ですから」
すべてを知っているからこそ、凌が軽く告げるその一言が嘘であることも芽榴には分かる。
「そう、ですか。……お優しい、お兄様ですね」
芽榴は凌に合わせて笑顔を向ける。凌は「そんなことないですよ」と謙遜するが、芽榴にはそれすら白々しく思えた。
「ですが、お兄様が気にかけるようなことは何もないです。私と慎さんは……」
芽榴はニコリと笑った。
「知り合い程度の仲ですから」
自分で言って違和感がある。言葉にすればそうだが、過ごした時間も思い出も、知り合い程度の仲のものではない。
凌も芽榴の答えを聞いて、少し驚いているようだった。
「……そんなことはないはずですよ? 慎と親しくしていると……」
「誰に聞きました?」
芽榴は笑ったまま、尋ねる。すると凌の兄は口を開けたまま黙った。
「慎さんは……絶対にそんなこと言いませんよ」
芽榴は断定する。慎が芽榴と親しいなどと言うはずがない。この兄に、芽榴のこと自体話さないはずだ。
「そうですね。確かに……慎からは聞いてません」
凌は開き直って答える。
「楠原芽榴さんは成績優秀で麗龍の役員もなさっているとか。イブのパーティーでも拝見しましたよ? 弟と踊っているところ」
彼はあのとき芽榴と慎が楽しそうに踊っていた姿を知っている。そしてそれに苛立ち、あの後慎を殴り倒したのだ。
「それでも慎と親しくないと? それは……おかしいですよね?」
凌の言い分は正しい。芽榴もそれには反論できない。
「……仮に、慎さんと私が親しかったら、なんなんですか」
芽榴は眉間に皺を寄せ、尋ねる。身体を重たく感じながら、それでも姿勢は正した。
「……慎のことは、やめたほうがいい」
凌は眉を下げ、まるで芽榴を心配するかのような声音で言ってくる。それすら今は不気味だ。
「恥ずかしながら……弟はたくさんの女性を悲しませていると耳にしています。あなたのような優秀な女性まで弟に傷つけられるのは本意じゃありません」
凌の言葉は表面上ではとても優しく聞こえる。でも慎がそんな生き方をするようになったのは目の前にいる、この人のせいだった。
「……楠原さん」
眉を寄せる芽榴の手を凌が両手で包み込む。引っ込めようとした手は、芽榴の思うようには動かなかった。
「僕はパーティーで……あなたに一目惚れをしました」
凌の手に力がこもる。見え透いた嘘を吐く凌を、芽榴は目を細めて見つめた。
「慎ではなく、僕があなたのそばにいてあげましょう」
何を考えてそんなことを言っているのか分からない。芽榴は重たい手を動かして、なんとか凌の手を振りほどいた。
「……結構です。親しくする人は、自分で決められますから。……話は、それだけですか?」
芽榴の予想以上に、簑原凌は浅はかな人間だった。これ以上話しても意味はない。
芽榴が立ち上がると、凌は残念そうに息を吐いて、そしてどういうわけか、薄く笑った。
「もし……あなたが慎ではなく、僕を選んだら……今後慎に何もしない。そう言ったらどうします?」
立ち上がった芽榴に、凌はそんなことを問いかける。芽榴はすぐに凌のことを見下ろした。
芽榴の瞳は揺れている。
これはあくまで仮定の話。慎の兄が絶対に約束を守る保証もない話だ。
それでも芽榴は考えてしまった。
もし芽榴がそうすれば、慎の傷がこれ以上重ねられることはないのだ、と。
「……そんなこと、あの人は」
望んでない。でも芽榴にできることはそれ以外にない。
答えを迷う。そこで芽榴の視界が大きく乱れた。
体の力が抜けて、芽榴は倒れるようにして床に座り込んだ。
「大丈夫ですか? 楠原さん」
やけに冷静な慎の兄の声が聞こえる。目の前に歩み寄ってきた凌を、芽榴はボーッとする頭で見ていた。
「な……んで」
「ああ、すみません。手違いで、睡眠薬が紅茶に入っていたみたいだ」
凌は愉快げな声で言う。あのときメイドが挙動不審だったわけも今なら分かった。でも、もう遅い。
芽榴の視界はぐらついていた。
「少し休みましょうか。……お楽しみは、起きてから」
凌の声を聞きながら、芽榴は意識を手放した。
芽榴は目を覚ます。ふかふかなベッドの上で芽榴は眠っていた。
薄い水色の枕とシーツカバーからは、微かに慎と似た香りがしていた。
「ここ、どこ……」
芽榴は起き上がる。頭も体も重たい。カーテンから漏れる光で、まだあれからそんなに時間が経っていないことは分かった。
「やっと起きた」
芽榴はその声で、寝ぼけた頭を覚醒させる。声のした方を見ると、簑原凌が椅子に座ってこちらを見ていた。
意識を手放す前のことはしっかり覚えている。この男が芽榴に睡眠薬を飲ませた。芽榴が鋭い目つきで睨むと、凌はニヤリと不気味に笑った。
「……どういうつもりですか」
「あっはは、分かってるんだろ? 僕が慎のこと傷つけたくて傷つけたくて仕方ないこと」
意識を手放す前とは全く違う。これが凌の本性。芽榴はベッドから立ち上がるが、まだ体がふらついていた。
「その姿……私に見せていいんですか?」
「問題ないよ。だって数時間後には、君は僕に逆らえなくなる」
凌はそう言って、芽榴に近寄ってくる。芽榴は逃げようとするが、体がうまく動かない。
「やだ、離して!」
芽榴は掴まれた腕を振り払おうとするが、うまくいかない。そのまま凌にベッドの上へ押し倒された。
「な……っ」
「ここがどこか、聞いてたよね? 教えてあげるよ」
凌は暴れる芽榴を押さえつけ、楽しそうに告げる。
「ここはね、慎の部屋だよ」
芽榴は目を丸くして、さっきよりも強く腕に力をいれる。でもどんなに頑張っても芽榴の腕には半分の力も入らなかった。
芽榴が感じている慎の香りは間違いじゃない。このベッドは慎が使っているものだ。
「ああ、ゾクゾクするなぁ。自分のベッドでさ、大事な女が兄に汚されたら……あいつどんな顔するんだろ」
凌はそんなことを想像して、笑っている。狂気的な笑顔は芽榴をゾッとさせた。
「やめ、て……」
「ちゃんと君の嫌がる声は録音するよ? それを聞かせなきゃつまらない。……だから君が起きるまで待っててあげたんだから」
両手を頭上に持ち上げられ、芽榴は足を動かす。でもその足も凌の足が挟み込んで、身動きが取れないようにした。
「あいつがさぁ、誰かを本気で好きになることなんてなかったから。僕は嬉しいんだよ? あいつ、自分の女とられても『よかったね』なんて言って笑うんだ。ムカつくだろ?」
「い……っ」
芽榴の手に凌の爪が食い込む。芽榴が痛みに顔を歪ませると、凌はあはは、と声をあげて笑った。
「君は初めてだ。優秀な僕より慎を選んでさ? そんなに慎が大事なら、君もしっかり僕に傷つけられて……泣いて苦しんで慎を傷つけてよ」
凌は興奮気味に笑って、芽榴の制服のリボンを解く。芽榴はずっと抵抗しているが、全然相手にならなかった。
「慎と経験済みなんだし、そんなに嫌がらなくてもいいだろ? あいつと僕、血はちゃんと繋がってんだからさ」
「や……だ」
凌の手が芽榴の黒いワイシャツのボタンを外し始める。芽榴は体をよじって抵抗するが、凌の言葉に体を固まらせた。
「そんなにあいつにこだわる必要ないだろ? あいつなんて君以外の女と数えられないくらい寝てるんだからさぁ」
慎がたくさんの女の子と遊んでいたことは知っている。言葉として、知っているつもりだった。
でも実際に今、慎の兄に襲われそうになってはじめて実感に変わる。慎は顔も知らない誰かと、何度もこんなことを経験しているのだ。
「へぇ? ショック?」
「やめ……て」
凌は芽榴を苦しませるために、わざとそんなことを言っている。芽榴は泣きたい気持ちを抑えて、歯を食いしばった。
「君は、すごく楽しいよ。最高だよ。……慎のやつ、どんな顔するかなぁ?」
凌の手が芽榴の髪に触れる。凌は芽榴の髪にキスをして、そのまま芽榴の顔を手で固定した。
芽榴の抵抗は激しくなる。さっきよりも力は入るようになったけれど、それでも敵わない。
「い、や……っ!」
芽榴が叫ぶ。
その瞬間、部屋の扉が壊れる音がした。
勢いのいい音に、凌はすぐさまそちらへと視線を向ける。芽榴も涙で歪む視界で、扉の方を見ていた。
「簑原さ……」
「楠原、ちゃ……」
慎は芽榴の姿を見て、これ以上ないくらい目を大きく開けていた。
慎に、助けてほしかった。でもこの姿を、この状況を、慎にだけは見られたくなかった。




