#05
「ねえ、芽榴」
休み時間、化学室から教室へと帰る道のりで舞子が改まった様子で芽榴に声をかけた。
「ん、何ー?」
「あのさ、ラ・ファウスト学園のー……風雅くんと仲悪い人、名前誰だっけ?」
「……簑原さん?」
「あ、そうそう。その人」
舞子の口から慎の名前が出てきたことに、芽榴は少なからず驚いた。慎がどうしたのだろう、と芽榴が首をかしげると舞子は少し緊張した様子であることを問いかけた。
「その簑原さんって人と、付き合ってる?」
「……はい?」
予想もしていなかった質問に芽榴は目を丸くする。頓狂な声をあげ、芽榴は「なんで?」と彼女に問いかけた。
「昨日部活帰りに芽榴が役員たちと降りてくるの見かけて……そしたら門のところにその人がいて、風雅くんが大声で叫んでたからすぐ分かった」
舞子は昨日見たその現場について語る。芽榴も昨日の帰り際のことを思いだして苦笑した。
芽榴と慎が一緒に帰ることは約1週間前に決定した。あれから1週間、本当に毎日慎は芽榴を迎えに来ている。
最初来たときは役員と慎がもめて(といっても役員が一方的に警戒しているだけの図だったのだが)なかなか帰れなかった。けれど芽榴が慎と帰ることを選んだため、役員も渋々といった様子で納得してくれた。
今では役員も慎に対する警戒は解けていて、風雅だけが彼に突っかかっていた。
「一緒に帰ってたでしょ? その人と」
「うん、まー……いろいろあって。でも付き合ってないよー」
舞子の質問を聞いたら、慎はきっとあのバカにするような笑い声をあげるだろう。慎のケラケラと笑う声が脳内再生されて芽榴は半目になる。「こんな不愛想な女、論外」などと言っている姿まで想像がついた。
しかし、芽榴の返事を聞いた舞子は納得していない様子だ。
「じゃあ、アプローチされてるの?」
「違うよー」
芽榴が即答すると、舞子は「よく考えなよ? 芽榴」と芽榴の前に人差し指を突き出した。
「どういう理由にしろ、他校の人がわざわざ学校帰りに迎えに来るなんて『好きな子』以外ありえない」
「まー……例外も」
「ないわよ」
舞子は芽榴ののんきな発言を即座に否定する。
「しかもラ・ファウストがあるのは隣町なんだよ? それに見た感じ、あの人車で迎えに来てるわけでもなかったじゃん」
舞子がそう指摘し、芽榴は「よく見てるなー」などと的外れに感心していた。
たしかに慎はいつも芽榴と歩いて一緒に帰る。どうやって麗龍まで来ているのか、芽榴を家まで送った後どうやって帰っているのか、一昨日くらいに聞いてはみたのだが教えてくれなかった。おそらく交通機関を使っているのだろうとは思う。だから申し訳なく思うのだが、そう言ったところで慎は例のごとく話を聞かない。
「愛されてるわねぇ」
「……違うって」
芽榴は困り顔で反論するが、舞子も話を聞いてくれない。芽榴は肩を竦めてため息を吐いた。
放課後の生徒会室では、風雅が頰を膨らませながらホッチキスで書類をパチパチと留めている。そんな風雅を見て、来羅が笑っていた。
「風ちゃん、大人気なく拗ねないの」
「オレ、まだ17だもん」
「もうじき18だ」
風雅は「それでもまだ成人じゃないもん!」などと意味もなく自信満々に答えて、翔太郎は盛大にため息を吐いた。
「簑原さんが来るのが、そんなに嫌なのぉ? 別にるーちゃんに何もしてないみたいだし、むしろ送ってくれてるんだからありがたい話じゃない」
来羅は紅茶を飲みながら指摘する。今、生徒会室には芽榴と翔太郎、来羅と風雅の4人しかいない。颯は職員室に行っていて、有利は剣道部に練習を見てほしいと頼まれてそちらへ行っていた。
「まったくその通りだな」
「オレだって芽榴ちゃん送りたいのに。オレと芽榴ちゃんの貴重な時間をあいつにとられてると思うと……あぁぁぁあ!」
風雅はそんなふうに叫んで、両手で顔を覆う。そんな風雅を見て翔太郎は「うるさい」と額を押さえ、芽榴は困ったように笑った。
「ていうか、芽榴ちゃんもなんであんなやつと帰るなんて言っちゃうのさ」
「あははー……いろいろあって」
「いろいろって何?」
風雅は上目遣いで芽榴に問いかける。来羅も翔太郎もそれは気になったらしく、芽榴のほうを見ていた。
普通なら芽榴も慎と帰るのを嫌がるところだ。芽榴が慎と帰ることにした理由はあるのだが、それを彼らには言えない。
役員と日替わりで帰っていたことで、他校の女子に注意された。そんなことを告げたら彼らが気にする。
慎も芽榴の気持ちを察して、役員にそれを言わず「俺が送りたいだけ〜」と軽いノリで話を済ませてくれていた。
「簑原さんが、今政治の勉強してて……ちょっとその話も聞いてみたいなーって。勉強になるし」
芽榴はニコリと笑ってそう告げる。苦しい言い訳で、翔太郎も来羅も、もちろん風雅も納得しているようには見えなかった。
でも芽榴が理由を話す気がないと伝わったようで、それ以上は聞かないでいてくれた。
今日は慎のことでやけに疲れる日だった。
芽榴がため息を吐くと、隣を歩く疲れの原因がケラケラと笑った。
「疲れてんね? 今日忙しかった?」
「簑原さんのことで、いろいろと」
「俺?」
帰り道。芽榴の歩幅にあわせて、慎はゆっくりと歩いてくれている。
「ああ、分かった。あの馬鹿が喚いてんだろ。俺と一緒に帰るなーとかって。想像つくわぁ」
慎はハハッと笑い、腕を持ち上げて後頭部で両手を組んだ。慎の予想は半分あっていて、芽榴は肩を竦める。
「あと友達からも……」
「友達?」
芽榴は言おうとして、やめた。舞子に聞かれた内容は慎に話せない。しかし、言葉が途中まで出て行ってしまったため、芽榴は「しまった」と心の中でつぶやいた。
「友達が何?」
慎はそれを察してか、興味津々に尋ねてくる。芽榴は恨めしげに慎を見上げた。
「友達に! あなたと一緒に帰ってるの見たよーって言われただけです!」
「ははっ、何ムキになって言ってんの」
大きめの声を出す芽榴に、慎は笑う。そしてすぐに芽榴の言いたいことを全部見透かしたように目を眇めた。
「で、俺との関係を聞かれた……とか、そういうところ?」
「……別に、そんなこと聞かれてません」
「へぇ〜。なんて答えたの? 彼氏とか? いやぁ、期待させて悪いけどさ、俺は」
「人の話を聞いてくださいねー」
勝手に話を進める慎に、芽榴は声をかぶせる。笑顔だが、芽榴にしては低い声が出た。けれど慎は怯むどころか、愉快に笑うだけだ。
「でもさ、当たってるだろ? なんて答えたの」
慎は芽榴の嘘をちゃんと見抜いている。慎の場合、芽榴が隠そうとしても芽榴が話すまで聞いてくるからタチが悪い。
「何も。特に説明するような関係じゃないのでー」
芽榴はそう言って自分で納得する。芽榴と慎の関係は何と言っていいのか分からない。もちろん恋人ではないし、友人とも少し違う気がした。
「ははっ……そうだな」
微笑むだけの慎は何を考えているのか、まったく分からない。慎の行動も、その理由も、芽榴には何一つ掴めない。
「簑原さん」
この曖昧な関係は、いつまで続くのだろう。友人でも恋人でもない。だからいつのまにかお互いに忘れて、この関係が消えてしまってもおかしくはない。
「……簑原さんがもし同じ質問をされたら、なんて答えますか?」
慎は「さぁな……」と呟くようにして答えた。その声はとても静かで、抑揚もない。
「たぶん楠原ちゃんと同じように答えるよ。『なんでもねぇ』って」
そう、芽榴と慎のあいだには何もない。
嫌味なことばかり言って、芽榴のことを嫌いだと言って、それなのにこんなふうに優しくして、芽榴のことを心配して、慎の考えが分からない。
芽榴は慎に何も返せないのに、慎はそれでも芽榴のそばにこうしていてくれる。
慎の考えを知りたい。そう思う芽榴に、慎がかける言葉は冷たかった。
「……別に、俺らに関係は必要ねぇだろ」
芽榴が慎を見上げると、慎も芽榴のことを見下ろしていた。
「俺があんたのそばにいるのは聖夜のためだ。……あんたに何かあったら、聖夜が気にかける」
慎は芽榴の目をまっすぐに見つめている。芽榴から目をそらさない。
「全部聖夜のため。……それ以外ありえねぇよ」
慎はそう言って、芽榴の先を歩く。
芽榴は立ち止まったまま、慎の後ろ姿を眺めていた。広い背中は目の前にあるのに、とても遠く感じる。
そんなこと、分かっていた。
分かっていたのに、慎に直接そう言われて、ショックを受けている自分がいた。
同じ頃、別の道を風雅は来羅と一緒に帰っていた。
「芽榴ちゃん……簑原クンのこと、好きなのかな」
風雅の呟きに、来羅は温かいレモンティーを飲みながら「さあ」と小さな声で答える。
「……嫌いではないと思うわ」
来羅は視線を下げたまま、風雅に答えていた。
「でも簑原さんは……るーちゃんのことを選ばないわよ」
「え?」
来羅の呟きを聞いて風雅は驚いた声を出す。「どうして?」と問いかける風雅に、来羅は苦笑した。
初詣で、慎と話した時のことを来羅は思い出す。あのとき垣間見えた慎の本音は、とても印象的だった。
「簑原さんは、きっと琴蔵さんを選ぶもの」
風雅は意味が分からないという顔をする。風雅にはきっと分からない。だから慎は風雅を嫌うのだ。
彼は誰よりも自由なようで、誰よりも不自由に生きている。あのとき来羅はそんなふうに思った。
だからこそ、芽榴が傷つかないか、それだけが来羅は心配だった。




