#04
聖夜と慎に会ってからもう2日。あの日早く生徒会を切り上げてしまったため、その分昨日今日はしっかり仕事をしていた。自分の分を早々に終わらせて、風雅の分も手伝っている。
「楠原。貴様が助けると、蓮月は永遠に成長しないぞ」
「してるよ!」
「うーん。少しは手際よくなった気がするよー?」
「気がするだけだろう。俺にはまったく進歩しているようには見えん」
翔太郎は風雅と芽榴を説教するが、風雅はそれに反論し、芽榴はのんきに笑っていた。芽榴の笑い声を聞いて、みんなが頰を緩ませる。小言を言う翔太郎も心なしか、穏やかに見えた。
生徒会の仕事が終わって帰宅時間になると有利が芽榴の隣にやってきた。
「楠原さん、今日は僕が送ります」
「え? あ、いいよいいよ。今日は食材の買い出しも頼まれてるし」
帰りに寄り道しなければならないことを伝えると、有利は「問題ないですよ」と言って鞄を手に取った。
みんなと一緒に校門を出て、有利と一緒に歩き始める。結局安売りのスーパーの前まで送ってもらって、芽榴は有利のほうを向き直った。
「藍堂くん。ここでいいよ。むしろここまで送らせちゃってごめんなさい」
「大丈夫ですよ。荷物持ち手伝います」
なんとなく、有利がそう言いだす気はしていた。だから芽榴は困り顔で眉を下げた。
「ううん、本当にいーの。……圭も帰りに寄るって言ってたから、そろそろ来てくれるだろうし」
芽榴はそう付け加え、有利を納得させるように「ね?」と声をかける。圭が迎えに来てくれるとなれば、有利も「家まで送る」とは言い張れない。有利はどこか不服そうにしながらも納得してくれた。
「はい。……じゃあ、気をつけてくださいね。また明日」
「うん。本当にありがとー。また明日ー」
芽榴は有利にひらひらと手を振り、ホッと息を吐いてスーパーの中へと入っていった。
最近は芽榴が料理をする回数も減っているが、それでも冷蔵庫事情は芽榴がちゃんと把握している。冷蔵庫から消えていた食材を一通り買い足して、芽榴はスーパーを出た。
圭の姿はない。圭が来ると言ったのは、有利を帰らせるための嘘だった。
有利に嘘をつくのは嫌だったが、有利に買い物まで手伝わせてしまうのは申し訳なくてそっちのほうがはるかに嫌だった。
芽榴は一人で家までの道のりを歩く。
少し歩くと、通学路の道と合流した。歩き慣れた道は、人通りが少ない。最近はいつも役員の誰かと帰っていた道のり。久々に一人で帰ると、なんとなく寂しい気がした。
「これで寂しがってちゃダメなんだけどなぁー……」
もうあと1ヶ月と少し経てば、みんなと過ごす毎日がなくなる。きっと感じる寂しさはこんなものではない。
芽榴は深く息を吸って、吐き出した。
「あ、いた」
一人で歩く芽榴の耳に、高めの声が聞こえる。少し先を見ると3人組の女子が立っていた。制服は圭の高校の近くにある私立高校のものだ。
「今日は一人みたいだし、言おうよ。……ねぇ、ちょっと」
3人組の1人に声をかけられ、芽榴は左右を見る。芽榴以外にそれらしい人はいないため、芽榴は「はい」と小さな声で返事をした。
「麗龍の役員といつも一緒に帰ってる子だよね? このあいだ風雅くんと帰ってた」
「あたしが見たときは神代颯くんと帰ってたよ」
「ミカは葛城翔太郎くんと帰ってるのも見たって」
役員の名前を並べられ、芽榴は半目で笑う。さすがは有名人、風雅はともかく他のメンバーもしっかりフルネームを他校の生徒に知られていた。
そしてそんなふうに名前を並べられると、芽榴自身、自分がとても問題のある女の子に思えた。
「あー……はい」
しかし、日替わりで役員に家まで送ってもらっているのは事実だ。芽榴は小さな声でその事実を肯定した。すると、予想通り3人の女子の顔が歪んだ。3人とも綺麗な顔立ちだかれ余計に睨まれると迫力があった。
「ねえ、何様なわけ? 役員取っ替え引っ替えしてさ」
「そうそう。あんたさ、自分のことかわいいとか思ってるんでしょ? ユイやアンナのほうが余裕でかわいいから」
「そのくせに役員のことたぶらかしてありえなーい」
芽榴が反論する暇なく、罵倒が浴びせられる。なかなかにひどいことを言われているのだが、数ヶ月前に似たようなことを毎日毎時間のように聞いていたため、耐性がついていた。
彼女たちの言いたいことも分からなくはない。だから余計に芽榴ら苦笑するしかない。でもそのヘラヘラした態度が余計に彼女たちを苛立たせてしまった。
「何笑ってんのよ! バカにしてんの?」
1人の女子が芽榴の肩を勢いよく押した。芽榴はバランスを崩して2、3歩後ろへ下がる。倒れはしなかったが、はずみで買い物袋を地面に落としてしまった。落ちた時の音からして、卵がいくつか確実に割れている。
芽榴は「あちゃー……」と困り声をもらした。
「人の話聞いてんの!? ねえ、あんた……」
「なんか騒がしいと思ったら、ここにいたんだ?」
3人組の女子の後方からその声がとんでくる。芽榴は驚いて顔をすぐに上げた。
「簑原さん?」
目の前の女子たちの後方から慎がやってくる。その方向には芽榴の家があるだけで、隣町を拠点としている慎がわざわざ訪れるような場所などない。考えられる理由は唯一、芽榴に会いに来たというくらいだ。
芽榴が驚いた声で慎の名を呼ぶと、慎は薄く笑んだ。そんな慎を見て、芽榴を罵倒していた女子は慌てた様子を見せる。
「あ、あの……別に、あたしたち……っ」
女子たちは一生懸命事情を取り繕おうとしている。役員に負けず劣らずの美形な慎に対して、彼女たちの顔は焦りとともに薄く赤に染まっていた。
「ああ、いいよいいよ。俺もあんたらの言ってること間違ってねぇと思うから。そこのとこはもっと言ってやってよ」
慎はそう言いながら、芽榴に近寄る。慎に賛同された女子3人組は嬉しそうで、一瞬消えた威勢を再び取り戻そうとしていた。しかし、彼女たちがそれらを取り戻す前に慎が声をかぶせた。
「でーもなぁ、卵は割っちゃいけねぇわ。もったいねぇし」
慎は芽榴の買い物袋を手にとって、そう呟く。慎の台詞を聞いて「絶対思ってない」と芽榴は瞬時に確信した。
慎は聖夜とともに「もったいない」という言葉から無縁の人間だ。
芽榴が訝しげに見つめると、慎はフッと鼻で笑って3人組の女子を振り返った。
「ほら、2個割れてる」
「……え?」
慎は満面の笑みで彼女たちにパックの中で割れている卵を見せる。たしかに2個、中身がもれてしまっていた。
それを見せられた3人組は困惑している。
「楠原ちゃん、この卵いくらだった?」
「え? あ……198円です」
芽榴はすぐに慎の質問に答えるが、質問の意図は全く分からない。
「んじゃあ、ざっと計算してあんたらはこいつに50円払うべきだよね?」
慎は笑顔で彼女たちに50円を要求する。慎にとっては手にすることすらほとんどない金額だ。慎の行動に3人組は戸惑っているが、慎はそれに苛立ったように1人の腕を引っ張った。
慎とその女子の距離は異様に近くなる。しかしその女子の顔は赤くなるどころか青ざめていった。
「文句言うのはいいけどさ……これはまた別問題だろ? 人間として、さ?」
慎の声が少しだけ低くなる。ゾッとした表情で、慎に捕まえられた女子が慌てて50円玉を取り出した。
「楠原ちゃん、はい」
慎は50円玉を芽榴に向かって放る。芽榴はそれをしっかりキャッチして、とりあえず3人組に頭を下げた。
それを見て慎は「なんで頭下げてんの」と楽しげにケラケラ笑っている。
慎の奇行でここに居づらくなったのか、3人組はコソコソとその場を離れようとするのだが、慎はそれを見逃さない。
「ああ、それとさ」
何事もなかったかのように帰ろうとする女子3人組に向けて、慎は少しだけ大きな声を出した。
「この女、今はそうでもねぇけど。化粧したらあんたらなんかより100倍は美人になるから。あんだけ美人ならまあ……役員のことたぶらかしても文句言えねぇわ。……だろ?」
慎は彼女たちが並べた理屈に沿って反論してみる。そうすると3人組は悔しげに走って、その場からいなくなった。
「簑原さん」
芽榴は慎がくれた50円玉を見つめながら彼に声をかける。慎は「何」と短く返事をした。
「……ありがとうございます」
別に50円玉が欲しかったわけでも弁償してほしかったわけでもない。慎がわざわざそんなことを気にしていたとも思わない。
彼に言えばたぶん「勘違いすんな」と言われるだろう。でも確かに慎は芽榴を助けてくれた。
慎はハハッと笑った。
「なんで今日は1人なんだよ? 役員の誰かがいたら、面倒なことならなくて済んだのにさ」
「送ってもらったんですけど、スーパーの前で帰ってもらったので……」
「あー……そういうこと」
慎は適当に相槌を打って、芽榴の買い物袋を持ったまま歩き始めた。
「え……あ、あの簑原さん」
「んー」
「私に、何か用が……ありました?」
慎がここにいる理由を改めて考え、芽榴はそう問いかける。芽榴の荷物を持って歩き始めたのだから、その考えはきっと正解だ。
問いかけられた慎は「あー……」と声をもらして笑った。
「別に」
「はい?」
芽榴が眉を寄せると、慎は横目にそれを見てケラケラと笑った。
「今日はなんかあんたのこといじめたい気分になったから会いに来ただけ」
「……どういう気分ですか、それ」
「でもあんたが別のやつにいじめられてるからさ〜、やる気なくした」
慎は大きくため息を吐いてみせる。姿や行動が真面目に変わっても、慎の芽榴に対する態度は変わらない。
そのことに、芽榴はやはり安心してしまう。
「よかったなぁ。俺が気まぐれに会いに来て。俺が来なかったら今頃ヒステリックに怒鳴られてるぜ?」
慎はその現場を想像して愉快にケラケラと笑っていた。
「笑い事じゃな……あ、簑原さん」
芽榴は慎の腕を引く。車が後方から来ていて、狭い通りを2人歩いていたら邪魔だ。芽榴は車を先に行かせようと、慎を自分のほうへと引き寄せた。
慎が目の前に立って、芽榴は正面から彼の顔を見た。近くで見て、はじめて分かることがある。
「簑原さ……」
芽榴は慎の顔、彼の前髪の隙間から微かに見えた額を見て、目を見開いた。
その芽榴の顔を見ても、慎は分からない笑顔を浮かべたまま。
「楠原ちゃんにしては積極的だな? そんなに俺とくっつきたかった?」
慎はそんな冗談を言うが、芽榴は慎の額から目をそらさない。髪の生え際に近いところに何かで切ったような細長い傷口がある。芽榴は慎の前髪に触れ、その傷口を見た。
「これ……」
「……机に頭ぶつけただけ。いちいち気にすんなよ」
慎は薄く笑んで答える。でも芽榴には慎が不注意で机に頭をぶつける姿など想像つかない。そんな言い訳をする慎の瞳は真っ黒に染まっていて、誰かにぶつけられたとしか考えられない。
彼にそんなことができる人などいない。誰がそうしようとしても慎はうまくかわすはず。でも芽榴は、唯一慎に傷をつけられる人物を知っていた。
「お兄さん……ですか?」
慎は間を空けて「ちげーよ」と答える。でもそれが嘘だということくらい芽榴にだって分かった。そうやって、慎は笑って全部隠そうとしてしまう。
「とりあえず家に来てください。そのままでいるなんて、傷口が……」
まだ薄く血の滲んでいる傷口は、つけられてから時間が経っていない。出血しやすい場所とはいえ、傷はそんなに浅くもない。
「いい。消毒はしたし……ガーゼやら包帯やら変なもん巻かれたら目立つだろ?」
慎はそう答えて、芽榴の腕を握った。
笑う慎は何もないみたいに、すべてを放り投げる。
芽榴のことは助けるくせに、自分のことを助けさせようとはしない。
芽榴が表情を曇らせると、慎が芽榴の頰を引っ張った。
「……っ、ひひゃひへふ(痛いです)」
「ははっ、変な顔」
引っ張られて伸びた芽榴の顔を見て、慎は楽しそうに声を出して笑う。
芽榴は眉を寄せてみせるが、慎の笑っている顔を見たら少しだけホッとした。
しかし、そこで慎の笑い声が突然止まる。芽榴は不思議に思いながら慎の視線を追った。芽榴たちの右方向、そこには通りが続くだけで何もない。
芽榴が首をかしげると、慎は軽く息を吐いた。
「楠原ちゃん」
「はい?」
「……兄さんには気をつけろ」
慎はそう言って、再び歩き出す。芽榴はそんな慎を急ぎ足で追いかけ、彼の隣に並んだ。
「簑……」
「あー、そうだ。楠原ちゃんさ、役員と帰るのやめろよ。また今日みたいなことあったら面倒だろ?」
慎は話を変える。芽榴の思考が慎の話に追いつくと、芽榴は困ったように笑った。
芽榴も1人で帰ることはできる。しかし、芽榴が1人で帰ることを役員は許さない。
芽榴が言いたいことを分かったのか、慎は「安心しろよ」と夜空を見上げながら言った。
「俺が迎えに行ってやるよ」
「は?」
予想外な話に芽榴は驚く。しかし、慎はそんな芽榴の様子も気にせず、話を進めた。
「この時間なら、俺がいつも通りラ・ファウストを出たらちょうどいい頃に着くしさ。……はい、決定」
「え? ちょっと待ってください」
それから芽榴は「申し訳ない」「距離が遠すぎる」「大丈夫だ」などといろいろな言い訳を口にするが、慎はまったく聞き入れない。というより、聞いてもいないようだ。
慎はずっと空を眺めたまま。芽榴はそんな慎の視線を追って真っ暗な空を見上げる。
星の見えない、真っ暗な夜空。
慎は小さく白い息を吐いて、茶色のマフラーを口元まで持ち上げる。
「……暇人かよ」
慎がそう呟く。空に向かって投げかけた言葉が、誰に向けられたものなのか分からない。芽榴は慎の呟きに返事をせず、ただ空を眺める。
すべて飲み込んで消してしまいそうな、どこまでも真っ暗な空を、見つめていた。




