#02
修学旅行が明けて、芽榴の日常はいつも通り戻ってきた。少し違うのは、みんなと過ごす時間が惜しくなったこと。
舞子や滝本と交わす何気ない会話も、昼休みにやってくる風雅の笑顔も、役員みんなと過ごす生徒会室での時間も、すべてがもっと長く続いてほしいと思う。
「芽ー榴ーちゃん」
「なにー?」
放課後の生徒会室。黙々と仕事をする芽榴に、風雅が声をかける。声音が芽榴に「かまってほしい」と伝えていた。
芽榴は苦笑しながら風雅のほうを見るが、手は動かしたままだ。
「今日、仕上げるペース早いね?」
「うん。今日はちょっと早く生徒会切り上げる予定で……」
芽榴が風雅に答えると、彼の目の前にプリントの山が現れた。
「……え、ええっ!? は、颯クン!?」
颯が風雅の前にプリントを重ねる。もともと終わってない仕事の上に新たな仕事を積み重ねられ、風雅の顔が青ざめた。
容赦のない行動をする颯は満面の笑みだ。
「ただプリントをまとめてホッチキスで留めるだけなのに、なんでそんなに時間がかかるんだい? 集中してやれ」
颯は冷たくそう言って、会長席に戻る。彼の無慈悲な行動は珍しいものではないが、だいたい彼の機嫌によるものだ。彼が不機嫌な理由を知る芽榴は苦笑していた。
「どうしたの? 颯。ピリピリしちゃって」
来羅はパソコンで文書を作成しながら、颯に問いかける。すると颯は頬杖をついて「別に」と答えた。
「今日は芽榴が早めに帰るから、風雅が芽榴に甘えないようにしてるだけだよ」
「……楠原さん、早く帰るんですか?」
颯の話を聞いて、今度は有利が問いかけてくる。芽榴は頰をかいて笑った。
「うん。ちょっと寄るところあるからー」
芽榴が苦笑したまま答えると、颯のため息が聞こえる。しかし、颯のため息が聞こえなかったのか、風雅は「どこに寄るの?」とのんきな質問をしてきた。そんな風雅に、翔太郎がすぐ反応した。
「馬鹿が! 貴様は何も聞くな! 仕事をしろ!」
「え?」
「風雅。集中してやれって……言ったよね」
口角は上がっているのに、颯の目はまったく笑っていない。翔太郎は大きなため息を吐き、風雅は「すみませんでした!」と叫んで、ホッチキスを手に取った。
颯の不機嫌と、今芽榴が生徒会を切り上げてでも行きそうな場所を照らし合わせれば、風雅以外の全員に芽榴の行き先は分かった。
「でも、どうして? 何か用でもあるの?」
来羅はあえて芽榴の行き先も名前も出さずに、芽榴に問いかける。無難な質問をする来羅に、みんな肩をなでおろした。風雅だけが頭に疑問符を浮かべているが、颯に怒られないようひたすらホッチキスを動かしている。
「アメリカに行く前にちょっと借りたい本と、聞きたいこととかあって……」
「……そっちの方面は詳しそうですもんね」
有利は納得したようにつぶやく。颯もおそらく納得していて、だからこそ不機嫌になるしかないのだろう。何せ、相手は颯の嫌いな琴蔵聖夜なのだから。
「明日からは、ちゃんと残ります」
芽榴はそう言って、残っている自分の仕事に手をつけた。
聖夜と約束していた17時が近くなり、芽榴は荷物をまとめる。颯に与えられた仕事は全部仕上げていた。
「じゃあ、私そろそろ行くねー」
コートを羽織り、マフラーを巻いて立ち上がると、颯も一緒に立ち上がった。
「え?」
「ちょうど僕も手が空いたし、下まで見送るよ」
颯がそんなことを言い出し、芽榴は両手を振って彼の申し出を断ろうとする。しかし、颯は笑顔のまま「遠慮しなくていいよ」などと言ってきた。
「どうせ門の前に来るんだろう? 僕も久しぶりに挨拶しないとね。麗龍の会長として」
「まったく意味わからないんだけどー……」
「楠原。……ここは黙って神代の言うことを聞け」
半目になる芽榴を翔太郎が止める。翔太郎が目で訴えかけてくるため、芽榴は颯と一緒に生徒会室を出た。
「手が空いたなら……俺を手伝ってくれればいいのに。颯クンのバカ」
扉が閉まる寸前、風雅がいじけながらそう言うのが聞こえた。
颯と一緒に校舎を出ると、すでに門のあたりが騒がしくなっていた。役員は全員、生徒会室にいる。となれば、門が騒がしくなる理由はその人しかありえない。
「……来るのが早いね」
「あ、あははー」
うんざりした様子で呟く颯に、芽榴は顔を青くしながら笑いかける。
門には予想通り見慣れた高級車が止まっていた。芽榴が門の前に現れると、まるでそれを待っていたかのように車の中からラ・ファウストの制服を着た聖夜が出てきた。
「……どうして神代会長までいらっしゃるんですか?」
聖夜は笑顔で尋ねるが、眉がピクピクと上がっている。対する颯も相変わらず目が怖い笑顔だ。
「もし琴蔵様が遅れてしまったとき、芽榴を1人寒空の下にいさせるのは嫌ですから。念のためですよ」
颯が間を空けず答えると、聖夜は「……そうですか」と低めの声で答えて芽榴の手を引いた。
「では、神代会長のお役目は無駄だったということで……僕たちは失礼します」
聖夜は颯に言い返して、素早く芽榴を車の中に押し込んだ。聖夜が「はよ出せ」と運転手に告げたため、すぐに車は発進する。最後に颯がどんな顔をしていたかは分からないが、きっとこのあと誰かの仕事が追加されてしまうだろう。そう思って、芽榴はため息を吐いた。
「……ったく、あんなやつ突き飛ばしてくればええのに」
「無茶言わないでください……」
聖夜は頬杖をついて窓の外に視線を投げる。「ああ、腹立つ」と呟いて、聖夜は長い足を組んだ。
「忙しいところすみません」
「アホ。お前の頼みごとに関して、面倒や思ったことないねんから謝んな」
謝る芽榴に聖夜は優しい声音で告げて、車のシートに深くもたれかかった。
「それに今日分の仕事は全部やり終えてるからほんまに忙しくない。せやから昨日お前に電話したんや。気にすんな」
今日の約束は、聖夜から提案してきたものだ。昨日の夜、いきなり聖夜から電話があり、留学中に使えそうな本を譲ってくれると言われ、急遽今日は生徒会を切り上げることにしたのだ。
「それなら、いいんですけど」
芽榴が笑うと、聖夜は複雑そうに笑顔を返した。
「……今は俺よりあいつのほうが忙しいで」
聖夜は小さな声で呟く。気遣うようにして放たれた『あいつ』という言葉に反応して、芽榴は眉を下げた。
聖夜が気遣う相手がいるなら、それは芽榴の他にもう一人、彼しかいない。
「簑原さん……ですね」
修学旅行で電話した夜、慎は簑原家に戻ることになったと言っていた。簑原家の簑原慎として生きることを選んだ彼は、彼が今まで逃げ続けた籠の中に戻った。
「あいつのことや。……そのうち要領よくこなし始めるやろうけどな」
聖夜は呟いて、再び窓の外に視線を向ける。芽榴もその視線を追うように、窓の外を見つめた。
信号につかまることなく、車は進む。窓の外の風景は留まることなく変わっていった。
芽榴は聖夜とラ・ファウスト学園に来ていた。昨日の夜の電話で、最初は家に来るよう言われたのだが芽榴は断固拒否した。だから聖夜は芽榴に渡すものをわざわざラ・ファウストに移してくれたらしい。
「すみません。手間かけさせちゃって」
「そう思うんなら、意地張らんで家くればええのに」
芽榴は聖夜の後ろをついていく。
時間が時間であるため、ラ・ファウストに生徒の姿は少ない。おかげで芽榴は悪目立ちせずに済んでいた。
何度も訪れたことのある場所。でもやはり好きにはなれない。煌びやかな装飾、構内の上品な香り、それらは変わらず気品を漂わせたまま。
芽榴は軽く息を吐く。すると、聖夜の元に男性が走り寄ってきた。スーツ姿であるところからして、彼は生徒ではない。
「琴蔵様、お探ししました。学園長が寄付金のことでお話があるそうで。今から少し時間をとれないかと、おっしゃっているのですが……」
男性に言われて、聖夜は思案顔をする。詳細は分からないが、学園長の話が大事なものであることは芽榴にも分かった。
「琴蔵さん」
「ん?」
「私、先に特務室行ってます。場所は覚えてるから大丈夫ですよー」
芽榴はそう提案して首を傾げてみせる。すると、聖夜は心配顔をした。
「遅くなるかもやけど……ええか?」
男性から距離をとって、聖夜は小声で芽榴に尋ねてくる。芽榴は笑って「いいですよー」とのんびり答えた。
「悪いな。できるだけすぐ終わらせる」
聖夜は申し訳なさそうに言って、男性の後をついていった。最後まで芽榴のことを心配するように、後ろを振り返ってくれた。
聖夜の姿が見えなくなり、芽榴は階段を上がって特務室へと向かった。ラ・ファウストの構内は広いが、芽榴の頭はしっかり特務室の場所を覚えている。
間違うことなく道を進んで、芽榴は特務室の前へやってきた。軽く息を吐いて扉を開ける。
誰もいないだろうと思いながらも「失礼します」と声をかけ、芽榴は固まった。
「……え?」
特務室の広々とした部屋の中を見て、芽榴は目を丸くする。
「あれ……なんであんたがいんの?」
そこには、暗い茶髪に眼鏡、芽榴が見たことのない真面目な簑原慎の姿があった。
 




