#19
有利の祖父の部屋を出て、芽榴は庭を見渡せる廊下に立つ。感じる肌寒さすら、今の芽榴には心地よく思えていた。
有利に会う前に心を落ち着かせようと深呼吸をする。すると、すぐ近くから芽榴を呼ぶ声が聞こえた。
「楠原さん」
後ろを振り返り、視線を下げる。どうやら有利は芽榴が祖父の部屋から出てくるのをずっと待っていたらしい。
「藍堂くん。……待ってたの?」
「僕抜きで、何を話してたんですか?」
有利は少し拗ねたような声音で問いかけてくる。有利のそんな様子を珍しいな、と思っていると、有利が顔を上げて芽榴と視線が絡んだ。
芽榴の顔を見た瞬間、有利の顔が強張った。
「え?」
「楠原さん……泣きました?」
有利はすぐに立ち上がって、芽榴の目元に触れる。少し赤い芽榴の目元はまだ湿っていた。
「あ、えっとね……」
誤解されると思った芽榴は何を話していたのかを伝えようとするが、その前に有利の顔色が変わる。
しまった、と思った時には遅かった。
「藍……」
「あの、くそジジイが……!」
ブラック有利がバンッと大きな音を立てて祖父の部屋の戸を開ける。
中にいる有利の祖父と母はいきなり開いた戸に驚くが、すぐに愉快そうに笑い始めた。今の有利を見て、こんなふうに笑えるのはこの人たちくらいだろう。
「ジジイ! こいつに何した!」
「あ、藍堂くん! 違う! 違うから!」
「ふぉっふぉっふぉっ。有利には教えられんのぉ」
「……んだと?」
「おじいさん!?」
さっさと誤解を解くべきところで、有利の祖父はあえて有利を茶化す。有利がついに木刀を取り出し、芽榴は本気で有利を止めにかかるが、そんな芽榴を有利の母が止めた。
「み、美弥子さん」
「父様は、あんなふうにして有利と遊びたがるのよ。放っておいてあげて」
「ええ……っ」
そうこう言っているあいだに有利の祖父まで木刀を取り出して、2人とも庭へと飛び出した。荒れる有利の姿を見ながら有利の母はニヤリと笑う。
「察するに、芽榴さんが父様に泣かされたと思って、荒れてるのね?」
「……みたいです」
「はぁぁぁ、ベタ惚れねぇ。あんな有利ならもっと見たいわ」
あはは、と有利の母は声に出して笑った。
それから約5分ほど祖父が有利と手合わせをして、落ち着いた頃やっと有利に事実が告げられた。
「功利ちゃん、合格おめでとー」
芽榴は有利と一緒に功利の部屋へ行って、そう告げる。合格祝いに、昨日用意したプレゼントを功利に渡した。
「たいしたものじゃないんだけど……」
薄い桃色の包装紙に包まれた中身は、藍色を基調とした花柄のハンカチだ。手触りのいいハンカチを手にして、功利は薄く笑む。
「ありがとうございます。気を遣わせてしまって……」
「何言ってるのー。合格したのは功利ちゃんなんだから」
芽榴はカラカラと笑って、もう一度「おめでとー」と功利のことを祝う。すると功利は部屋の奥に用意していた小さな紙袋を持ってきて、芽榴の前に差し出した。
「これ、私から……。お世話になったお礼です」
「私、本当に何もしてないんだけど……」
芽榴は遠慮するが、芽榴の隣に座る有利が「もらってあげてください」と受け取るよう促してくる。有利にまでそう言われると、断りきれない。芽榴は功利の厚意をありがたく受け取った。
紙袋の中身を確認すると、よく耳にするブランドのボディクリームが入っていた。香りがとても良く、舞子も欲しがっていたものであるため芽榴もよく知っている。しかもそのパッケージは新商品だ。一本で少なくとも樋口一葉がとぶ値段だ。
「わ、私……こんなのもらうようなこと全然してないのに……」
「いえいえ。家族そろってこれでも足りないくらいお世話になってますから」
慌てる芽榴に、功利が笑顔で返す。申し訳なく思うが、プレゼントが嬉しくて芽榴はもう一度しっかりお礼を言った。
さっそく少量のクリームを手にとってみると、甘いバニラの香りが広がった。
「わぁー、ほんとにいい香り」
芽榴がパァっと顔を明るくすると、それを見て有利が薄く笑む。そんな有利を見て、功利がニヤリと笑った。
「実はそれ、たくさん香りがあって……選んだのは兄様なんです」
「……え?」
「功利!」
芽榴が目を丸くすると、有利が体を乗り出す。有利の反応からして、功利の言葉は本当らしい。
「そーなの?」
「はい。楠原さんの香りに似てるとおっしゃ……」
「功利。それ以上は言わないでください」
有利は慌てた様子で功利の口を塞ぐ。しかしすでに功利が伝えてくれた内容だけで十分な情報量があった。
「もう楠原さんに用はありませんよね。……行きましょう、楠原さん」
これ以上は功利の波にのまれると判断したらしい有利が芽榴の手を引く。有利の力に任せて、立ち上がった芽榴は「あ」と言って立ち止まった。
「功利ちゃん」
「はい?」
「今日、夕方くらいに圭が功利ちゃんに会いに来るってー」
芽榴が笑顔で告げると、功利が予想以上に驚いた顔をした。
「え……私に?」
「うん。……嫌だった、かな?」
功利の反応を見て、芽榴は苦笑する。もしかしたら功利は圭のことを苦手に思っているかもしれない。勝手なことをしてしまったかと不安になっていると、功利が首を横に振った。
「いえ……全然。分かりました」
にこりと笑って、功利は部屋に残る。芽榴は有利に連れられ、彼の部屋に向かった。
芽榴から圭の訪問を知らされてしばらく経つ。時間を何度も確認してしまう自分をバカらしく思いながら、功利は玄関近くの部屋で花を生けていた。
「……夕方」
今はもう一般的に『夕方』と呼ばれる時間帯だ。あと1、2時間経てば『夜』になる。
ボーッとそんなことを考える。自分の行動を頭が把握できていない。
なんとも形容しがたい気持ちが、功利の心を乱している。
「バカバカしい……」
功利が呟いた。まるでその声に導かれたかのように、玄関のほうから微かに音がする。功利が敏感に反応すると、続いて客人が来たことを知らせるベルが鳴った。
功利は手にしていた鋏と生花をそこに置いて、パタパタと足音を立てて玄関へと向かった。
玄関にやってきて、戸に手をかける。自分でも驚くくらい素早くここまで来ていた。功利は視線をさまよわせて、大きく息を吸い込んだ。
「……どちら様ですか」
戸を開けながら功利は尋ねる。そこには功利の望んでいた、楠原圭の姿があった。
「……こんにちはー」
「……圭、さん。……こんにちは。お話は、聞いております」
功利は冷静を装いながらそう言って、圭を中へと通そうとした。しかし、圭がそれを断る。
「あ、今日もここでいいっすよ。すぐ帰るんで」
「え? あ……じゃあお姉さんも呼びますか?」
「あー、いや、芽榴姉は先輩に任せますよ」
圭は苦笑しながら言う。その顔を見ると、功利の胸がチクリと痛む。自分らしくもない、その痛みに苛立ちを感じて功利はしかめ面をした。
「……シスコン」
「え?」
「ほんと、圭さんってシスコンですよね。異常ですよ、それ」
功利は目を眇め、挑発的な口調で圭に言う。すると圭は少し黙った後、笑顔で「そっちこそ」と答えた。
「功利さんもなかなかのブラコンだと思うっすけどねー、俺。……いやぁ、芽榴姉も大変っすよね」
「な……っ、私は別に!」
圭に言い返されて、功利はムッとした顔で反論しようとした。しかし、ムキになる功利を見て、圭はプッと笑い声を漏らした。
「ははっ、冗談っすよ」
圭は楽しげに笑う。その笑顔と笑い声が、功利の心を揺らしていた。
「功利さんはお兄さん思いっすよね。俺はそういうの好きだから、悪いとは思わないっすよ。ほら、俺も功利さんの言うとおり、シスコンなんで」
圭は肩をすくめてペロッと舌を出した。そんなふうに、圭は功利の挑発も軽く返してしまう。功利は圭の歳下だが、それでもあまりに自分が子どもみたいで恥ずかしい。
「……私に、用があるって……お姉さんから聞きましたけど?」
「あ、そうっすよ。麗龍合格したって聞いたんで。すごいっすねー」
「……バカにしてます?」
今の流れで言われ、つい功利はそんなふうに返してしまう。圭の声かけを嬉しいと思うのに、思ってもいない気持ちを告げてしまった。
言い直そうと思うけれど、言葉が出て行かない。しかし、失礼な功利の言動にも、圭はただ困り顔で笑うだけだ。
「ってなると思ったんすよね。……でも、ちゃんと思ってるんで。合格おめでとうございます」
圭は爽やかに笑って功利を祝う。ちゃんと仕切り直して祝いの言葉を言うと、圭はジャージのポケットの中を漁り始めた。
「これ……せっかくだし、合格祝いにどうぞ」
圭は可愛らしい手のひらサイズの袋を功利に渡す。予想にもしていない事態に、功利は目を丸くして固まった。
「え……?」
「あー、あんま期待しないで。それ、帰り道に急いで選んだやつだし……一応功利さんっぽいの選んだつもりだけど……安物だし、捨ててもいいっすからね」
圭は頬をかきながら、まるで注意書きのようにして告げる。けれど功利にはその言葉が断片的にしか伝わってこない。
圭にプレゼントを渡された。その事実に、胸が高鳴って思考がうまく回らなかった。
少し震えている手で、袋を開ける。そこには青い花がポイントの、シンプルでかわいいヘアピンが入っていた。
「髪長いし、そういうの使うかなーと思ったんすけど、いらなかったらポイッとー」
「使います」
圭が捨ててもいいと告げる前に、功利は答える。即答して、功利は慌てたように言葉を付け加えた。
「ちょうど……ヘアピンが欲しかったところなんです。前髪も伸びてきて、邪魔だったので……」
功利はごにょごにょと小さな声で言い訳を口にし、そしてさらに小さくなった頼りない声で「ありがとうございます」と圭に頭を下げた。
圭はそんな功利を見て優しく微笑む。
「なら、よかった。……じゃあ、俺もう帰ります」
圭は名残を見せずに、背を向ける。
圭の足音が一歩また一歩と功利から遠ざかる。
今日圭がここに来たのは「功利を祝う」という理由があったからだ。これから先、圭が功利に会いに来る理由はもうない。
芽榴が有利に会いに来るからといって圭まで来ることも、もうないのだろう。
「あ……」
もう会えないことが嫌だと思う。この気持ちは、すでに芽生えていた。
「あ、の……圭さん!」
功利は玄関から飛び出して、足袋のまま石畳の道に立つ。まだ藍堂家の門を出ていない圭が真後ろを振り返った。
「え……功利さん? 寒いから早く中に……」
「また、来てくれますか?」
功利の問いかけに、圭が驚いていた。圭の不思議そうな顔も丸くなった目も、全部が功利の胸を高鳴らせている。
吐き出す息は真っ白だ。体が火照って熱い。
「また……来てください」
恥ずかしくて自分の赤くなっているはずの顔を功利は手の甲で隠す。
「今度はちゃんと家にあがってください。もっと……ちゃんと、お話を……」
圭の顔を見るのが怖い。何を言っているんだと呆れ顔をされたらと思うと、怖くて前が見れない。功利は白い自分の足袋を見つめる。
すると功利の視界に、スニーカーが現れた。顔を上げるとすぐそこに圭がいた。さっきまで5メートルくらい先にいた圭が目の前にいる。
功利は慌てて、視線を下げた。すると頭上で圭の笑う声がする。
「そういえば……もうすぐ、うちで美味しいお茶とお菓子が食べれなくなるんすよね」
圭がそう呟いた。いきなり何を言い出すのか、不思議に思って功利は恐る恐る圭の顔を見上げる。赤くなった顔を押さえたまま顔を上げた。
「だから今、他に食べれるところ探してるんすよ」
圭が功利に笑いかける。その笑顔は彼が芽榴に見せていたものには、まだまだ全然及ばない。
「美味しいお茶とお菓子……用意します。用意して、待ってます」
それでも、圭が自分に笑ってくれるのが嬉しい。その気持ちは間違いなく恋だった。
「じゃあ……今度はちゃんとお邪魔させてもらうっすね」
今は少しずつでいい。少しずつでいいから、圭に近づきたい。
功利の恋は、そうしてこれから走り出す。
本日22時に最終話も更新するので、よろしくお願いします!




