#17
昼休みが終わる10分前に、芽榴は教室に帰ってきた。目が腫れぼったく感じるが、鏡で確認した限りでは目が少しばかり赤くなっているだけで、晴れるまでには至っていない。
自分の席に戻ると、滝本と話していた舞子が「おかえり」と優しく芽榴を迎える。けれどすぐに、舞子は芽榴の隣に風雅がいないことに気付いた。
「風雅くんは?」
「……教室に帰るって」
芽榴は苦笑して答える。その答えを聞いて舞子は「ふーん……」と探るような視線を向けてきた。
「……泣いた?」
舞子は鋭い。風雅と何を話したかは隠そうと思っていた芽榴だが、さすがに隠しぬけることでもないため、舞子には全部話すことにした。
風雅の想いを断った。そう舞子に伝えると、舞子は驚きながらも「それがいい」と芽榴の行動を肯定してくれた。間違っていない――。たとえそうだとしても、風雅を傷つけたことに変わりはない。
けじめをつけてすっきり、とはいかない。芽榴は複雑そうに笑った。
午後の授業が終わって、松田先生のホームルームが始まる。連絡事項をいくつか伝えられて、みんなが終わりの合図を待つ中、急に松田先生が「楠原!」と芽榴の名を呼んだ。
「え? あ、はい」
芽榴は頬杖をついていた顔を上げる。すると、松田先生は咳払いをして今度は「みんな、よく聞け」と改まった。
「春から、楠原がアメリカに留学することになった」
松田先生がみんなの前で発表する。一瞬の沈黙の後、教室がざわつく。事情を知っている舞子と滝本以外の全員が芽榴へと視線を向けていた。
「まっちゃん、どういうこと?」
「え!? なんで!?」
そんな声が聞こえる中、松田先生は芽榴の留学先を発表する。大学名を聞いた瞬間、教室の騒がしさが一層増した。疑問と困惑だらけだった声に、今度は感嘆や称賛の声が混ざった。
松田先生は東條グループの話は出さず、単に芽榴の成績がよく芽榴の進路のことも考え,学園側のサポートのもと留学が決定したと告げる。実際、松田先生自体、芽榴と東條の関係を把握しきれていないのだからそのことを隠すのは妥当だった。
「その準備もあって、3月から……楠原がアメリカに行くことになった」
松田先生がそのことを伝えると、クラスは一気に静まり返った。松田先生もみんなの反応は予想済みのようで、そのタイミングで芽榴にあいさつを促した。
芽榴はその場に立ち上がり、教室を見渡す。この教室で、たくさんのことがあった。
「……えっと、留学することにしました」
挨拶と言っても、何を言えばいいかいまいち分からない。でも、F組のみんなへの感謝の気持ちが胸に浮かんで、芽榴は口を動かす。
「クラスメートと会えなくなるのが寂しいって、思うのは……このクラスがはじめてでした」
今まで教室の中に一人取り残されているような、そんな気分しか感じたことがなかった。麗龍に入って、まともに他人と交流をはじめて、自分が傷つかないように距離を保った。
その距離を、F組のみんなは縮めてくれた。芽榴にクラスの楽しさを教えてくれた。
「みんなに、会えてよかったです。……ありがとう、ございました。あともう少し、クラスにいるので……よろ」
「ばーーーか」
頭を下げようとした芽榴に、滝本が告げる。ずっと机の上を見ていた滝本が芽榴のほうを見てニッと笑った。
「また会うんだから、過去形やめろよな。楠原」
「そうよ。挨拶は『卒業式には戻ってきます』にしときなさいよ」
滝本に続けて舞子が言う。笑う2人を見て、嬉しさで心が切なくなる。本当に、いい友達だと思った。
ホームルームが終わり、留学の件で芽榴はクラスメートに囲まれた。「ずっと決めていたのか」「もっと早く言ってほしかった」、いろんなことを言われるけれど、そのどれもクラスメートが芽榴を友人として大切に思ってくれている証だった。
「じゃあ、藍堂くんは楠原さんと離れることになるんだね」
宮田がまるで自分のことのように悲しげに言う。芽榴と離れる有利の気持ちを思って、彼女は悲しげな表情をした。そんな彼女の姿を見て、本当に有利のことが好きなのだなと実感する。
「楠原」
クラスメートからの質問攻めにあっていると、教室の扉の方から少し面倒そうな声が芽榴を呼んだ。
振り返ると、翔太郎がいる。翔太郎がやってきたことを知ったクラスメートは「あ、生徒会か!」と残念そうにしながら芽榴を翔太郎のほうへと送り出した。
「ごめん、葛城くん。あの、留学のことクラスの人に言ったから……」
「ああ、そのようだな。騒がしいからすぐに分かった」
翔太郎はそう言って眼鏡を押し上げる。F組の騒ぎはきっとE組には筒抜けだっただろう。芽榴は苦笑した。
「生徒会行くんだよね? 私も行くからちょっと待……」
「そのことだが、今日は休め」
自分の席に鞄を取りに向かう芽榴を、翔太郎がその言葉で止めた。芽榴は「え?」と首を傾げて翔太郎のほうを振り返る。
「クラスのやつもまだ貴様と話したそうだ。神代には俺から言っておく。理由が理由だから問題ないだろう」
「ちょっと待って。大丈夫だよ」
芽榴はそのままE組へ帰ろうとする翔太郎を引き止める。自分も生徒会に出るという芽榴を見て、翔太郎は小さなため息を吐いた。
「今日は……行かないほうがいいだろう」
翔太郎は静かに言った。最初は意味が分からなかったその言葉も、翔太郎の顔を見つめればなんとなく理解できた。
翔太郎は、もう知っているのだ。
「あいつは気丈に振る舞って貴様とも普通に接するだろうが……だからこそ今日だけは、そっとしてやれ」
きっと風雅は芽榴に気を使わせないように、無理してでも笑ってくれる。そんな簡単に立ち直れることではないけれど、風雅ならそうしてしまう。
翔太郎の言いたいことは分かりすぎるくらいに理解できた。
「……うん。じゃあ、今日は……休むね」
芽榴は元気のない笑顔を見せる。風雅のことを考えて表情に影を落とす芽榴を見て、翔太郎は芽榴の肩に触れた。
「……貴様も頑張ったな」
翔太郎はポンポン、と芽榴の肩を叩いて、今度こそE組に戻っていった。
風雅のことを傷つけて自分を最低だと攻める芽榴に、翔太郎のその言葉はとても優しい。
また涙が出そうになるのを堪えて、芽榴は上を向いた。
生徒会に行かない芽榴は、そのあとも教室でクラスメートに囲まれていた。楽しそうな芽榴と一緒にいる時間を大事にしたいからと、舞子と滝本は部活を休んで芽榴のことを見守っている。
「最終日は送別会しようよ! 役員も呼んで!」
「それお前らが役員に近づきたいだけだろ」
「そうだよ! 悪いか!」
元気なクラスメートの会話の中に芽榴はいる。みんなの輪の中で笑っている。それが嬉しくて、芽榴は自然と微笑んでいた。
下校時刻が近づいていることにも気付かずに、芽榴はクラスメートと会話を弾ませる。
芽榴が窓の外の暗さに気づいたとき、教室の外から大好きな声がした。
「失礼します。もうすぐ下校時刻ですから……残ってる人は帰り支度をしてください」
有利が2学年棟の見回りに来た。遠慮がちにそう告げる有利を見て、クラスメートはもう一度芽榴へと視線を戻す。
「楠原のお迎えだな」
「そうね。邪魔しちゃいけないから、さっさと教室出ましょ」
滝本と舞子が切り出して、クラスメートは納得したように頷いた。
みんなが教室を出て行って、有利が困り顔で教室に入ってきた。
「見回りに来たのは本当なんですけど……楠原さんを迎えに来たこと、みなさんにバレバレでしたね」
「……だって藍堂くん、帰り支度済ませて来てるから」
芽榴は有利の姿を見て苦笑する。ただの見回りなら、今みたいにコートをと鞄まで持って来ることはない。帰り支度を済ませた有利がF組にやって来る理由は、簡単だ。
「皆さんと話せましたか?」
「うん。……おかげさまで。生徒会休んでごめんね」
「いえ。……今日は、その方がよかったと思います」
芽榴は言葉を返せない。有利と視線が絡んで、芽榴は逃げるように目をそらしてしまった。
沈黙の中、有利の足音だけが聞こえる。
有利は扉の近くの席に荷物を置いて芽榴に歩み寄ってくる。芽榴の前に立って、有利は視線を落とした。
「蓮月くんから……聞きました」
教室はさっきまでの賑わいを忘れて、小さな有利の声も鮮明に響かせるほど静かだ。
風雅が有利にどこまで話したのかは、分からない。
「……ごめんなさい」
芽榴は有利に頭を下げる。すると有利は驚いた声で芽榴に顔を上げるよう促してきた。でも芽榴は顔を上げられない。
「ごめんなさい。……私が、中途半端だったから……ごめんなさい」
芽榴が最初からはっきりさせていれば、傷つけたのは風雅だけで済んだ。有利まで傷つけずに済んだ。風雅の傷だって、浅く済んだのかもしれない。
「お願いです。顔を、あげてください」
有利はそう言って、芽榴の顎を持ち上げた。芽榴は有利の力に抗えないまま、顔を上げる。目の前には優しい顔の有利がいる。
「楠原さんのほうこそ……大丈夫ですか?」
有利の指先が芽榴の唇に触れる。その質問とその行動、そして有利の悲しげな顔がすべてを語っていた。
有利は芽榴が風雅とキスしたことを知っている。
「ごめ、なさ……」
声が、出ない。
最低なことをして、最悪な事態を招いた。たとえ芽榴が望んでいなかったとしても、芽榴は有利のことさえ裏切ってしまった。
「ごめん、なさい……ごめんなさい」
唇を覆って、何度も何度も芽榴は謝る。自分が泣くのは間違いだ。そう思って必死に涙をこらえるけれど、声が上擦ってその我慢が無意味になる。
「ごめ……」
「楠原さん」
有利の手が芽榴の手に重なる。芽榴の大きな瞳には有利の真剣な顔が映っていた。
「すみませんでした」
芽榴の力が緩んで、有利の手が絡め取るように芽榴の両手を握った。
「なんで……なんで、藍堂くんが謝るの」
「僕のせいです」
有利の手に力がこもる。有利に握られた手が痛い。芽榴は悲痛に歪む有利の顔を見ていた。
「だから……楠原さんは謝らないでください」
「違うよ。藍堂くんは……」
「僕は!」
有利をかばおうとする芽榴に、有利が声をかぶせる。その声は大きくて荒々しい。驚いて芽榴が黙ると、有利は言葉を続けた。
「僕はそれでも……楠原さんが僕を選んでくれて嬉しいって、思ったんです」
有利は苦しげに言って、芽榴の両手を握ったままその手に自らの額を乗せた。
「蓮月くんのことも、楠原さんのことまで傷つけて……でも僕はそんなのも全部覚悟して、楠原さんにそばにいてほしいって思ったんです」
「……藍堂くん」
「一番最低なのは、僕ですよ」
有利は最初から全員を傷つける覚悟で芽榴を好きになった。それでもいいから、芽榴にそばにいてほしいと思った。
そう言うくせに、有利の手は震えている。
「………こんな最低な僕を、それでも楠原さんは好きでいてくれますか?」
有利は芽榴に問いかける。
全部覚悟していた。後悔がない。震えた声でそう言う有利を、芽榴はどうしても最低だと思えない。
本当は風雅のことも芽榴のことも、自分が我慢すればよかったと有利は後悔しているはずだった。
「好きだよ。……好きだから、どうしていいか分からなくて間違ってばっかりだよ」
どの道を行けばいいのか正解が分からなかった。分からなくて、突き進んで、誰かを傷つけて、後悔して。そうしてやっと正解は分かる。
そうやって、一つずつ分かっていけばいい。
「藍堂くんだって……そうでしょ?」
誰も傷つかない恋なんて、どこにもない。だからこそ傷つけた思いの分まで正解を探し続けなければいけない。
「はい。……誰に恨まれることになっても」
有利は芽榴の手を握ったまま、顔を上げる。大好きな有利が目の前にいて、どんなに傷ついても傷つけても、やっぱり有利が好きだと芽榴は思った。
「楠原さんが好きです」
誰もいない教室。
手を握り合ってキスをした。
傷ついて、傷つけて、それでもやっと見つけた、これが正解だった。




