#15
慎の革靴がアスファルトと擦れあって、軽快な音を鳴らす。芽榴はその場に立ったまま、こちらへと歩み寄る慎を見つめた。
「彼氏ができてもまだ、あの馬鹿に思わせぶりなことしてんの?」
慎がそんなふうに問いかけてきた。すぐに「違う」と答えようとしたが、声が出ない。
不安げな有利の顔を思い出すと、否定ができなかった。
「へえ……否定しねぇの?」
芽榴の態度が思わせぶりで、風雅を引き止めて、だから風雅はまだ芽榴に会いに来る。そう考えるのは簡単なのに、考えようとしなかった。
風雅とは仲のいい友達でいたくて、変に突き放したくなかった。それは都合のいい言い訳かもしれない。でも芽榴の本音だった。
「……でも、蓮月くんは応援してくれてます」
「本気でしてると思ってんの?」
芽榴の返事に対して、慎は間髪いれずに次の質問をしてくる。芽榴はそれに答えられない。風雅は毎日会いに来て、バレンタインの日だって芽榴に会うために迎えに来た。
有利とのことを本当に応援しているなら、全部遠慮するはずの行動だった。
「分かってて突き放さないのは問題だろ。そりゃあ藍堂有利もあんな顔するよな」
慎はそう言って、深く息を吐いた。
有利は風雅のことを悪く言わず、芽榴のことも責めなかった。さっき有利が言いかけた「でも……」の続きはきっと2人を責める言葉だったのだろう。だから有利は言わなかった。
どこまでも優しくて、それゆえに有利は傷ついてしまう。
「言えばいいのにな。蓮月風雅と喋るな、とかってさ。すっげぇダサいけど」
「……藍堂くんは、言いません」
「分かってんじゃん。なら、あんたが自分で蓮月風雅と距離置けよ」
それが芽榴にはできない。できることなら風雅とずっと仲良くしていたい。
表情を曇らせる芽榴を見て、慎は目を細めた。
「なあ藍堂有利のこと好きなくせに、あの馬鹿のことかばってさ。それって本当にあいつのためなの?」
芽榴が風雅のことを突き放せば、きっと風雅は傷つく。風雅が傷つかないように、芽榴は彼を拒絶しない。
確かにそうだ。でも風雅に強く当たらない理由はそれだけじゃない。
「蓮月風雅の前でも『いい子』でいたいだけだろ」
誰も傷つけたくない。優しい楠原芽榴はたとえ他の人を好きになっても風雅のことを突き放さない。
いい子の楠原芽榴を演じて、誰も傷つけないようにして、結局自分を傷つけたくないだけだ。
「あんたが誰かを選んだ時点で、あの馬鹿は傷ついてんのにさ。それでも傷つけたくないって、それはあんたの独りよがりだろ。……あんたが自分を傷つけたくないだけだ」
慎の言葉が胸に突き刺さる。突き刺さる分だけ、それが事実だということ。
慎は厳しくても本当のことを伝えてくれる。
彼の視線が痛い。それでもその視線から、芽榴は目をそらしてはいけない。
「聖夜の家で……俺と約束しただろ?」
慎の白い息が暗闇に溶けて消えた。慎との約束を、芽榴はちゃんと覚えている。
――分かってて期待させんのは最低な女のすること。あんたは、絶対そんな女に成り下がんな――
芽榴は有利のことを好きになった。だからあのとき交わした慎との約束を守らなければならない。
「今の楠原ちゃんは、あの馬鹿には『いい子』に映るかもしれないけど……俺にとって、他の奴にとっても『最低』だ」
それでも芽榴が風雅のための『いい子』を貫くなら仕方のないことだ。
「でも俺は……楠原ちゃんを最低と思いたくねぇよ」
慎がそう言った。芽榴が最低になろうとかまわない。そんなふうに言ってしまいそうな慎が、表情を歪めてまで言ってくれた。
「……簑原さん」
「俺だってさ、上から楠原ちゃんに言う気もないし……。だからちゃんと楠原ちゃんとの約束を守る」
芽榴が慎と約束を交わしたとき、芽榴も慎に一つだけ約束を示した。あのときはあしらった約束を、慎はちゃんと覚えてくれていた。
「好きな人、できたんですか……?」
「……いたよ。あのときにはすでに」
慎の笑顔が少しだけ曇って見える。でもすぐに曇りを隠して、慎はいつもの読めない笑みを浮かべた。
「叶わなくても、好きなやつのことだけ見ることにする。あんたって、知らずに残酷なことさせてんだぜ?」
慎は芽榴の額を、そろえた人差し指と中指でトン、と押した。
「だから、蓮月風雅だけ甘やかすのやめろよ」
慎はそれだけ告げると「ああ、やめやめ!」と会話を打ち切るように大きな声を出した。
「本当はそんなこと言いに来たんじゃねぇのに」
慎は「無駄な時間使わせやがって」などと言ってケラケラ笑いながら両腕を前に伸ばす。
「よかったなって、言おうと思っただけなのにさ。今言ってもまったく感動しねぇだろ? つっまんねぇな」
芽榴に有利とのことを祝福して、その反応を見てからかう予定だったらしい。でもそれが失敗に終わって、慎は大きなため息を吐く。「つまんねぇー」を連呼しながら芽榴の帰り道を歩き始めた。
「……簑原さん」
「なに」
「……明日、話してみます。……蓮月くんと」
決意した芽榴の顔を見て、慎は薄く笑った。
「ボロクソに言ってやれよ。そのほうが俺もスッキリする」
「……無茶言わないでください」
芽榴は困り顔で答える。でもそれくらいの気持ちでちゃんと言わなきゃいけないことはもう理解できていた。
長く感じた帰り道。家の前まで来て、慎は立ち止まる。芽榴が振り返ると、慎は「入れよ」と払うように手を振った。
「……あの、ありがとう……ございました」
「貸しはちゃんと覚えとくから安心しろよ」
冗談か冗談でないか判別のつきにくいことを言って慎はケラケラと笑う。普段なら癇に障る笑いも今は安心できた。
「それじゃあ……また」
慎に頭を下げて、楠原家のドアノブに手をかける。扉を開けようとして、慎が「楠原ちゃん」ともう一回芽榴の名を呼んだ。
「その髪、結構似合ってる」
さっきまでとは違う、今まで見たことないくらい爽やかに笑った慎がそう言った。
驚いて芽榴が目を丸くすると、いたずらが成功した子どもみたいに笑って踵を返す。一歩踏み出して、慎はもう一度芽榴のほうを振り返った。
「嘘じゃねぇよ。……じゃあな」
ひらひらと手を振って、慎は帰っていく。
そんな慎の背を見送りながら芽榴は眉を下げた。
「約束……守ってないじゃないですか」
好きな子以外に優しくしない約束だ。それなのにさっそく芽榴に優しくする慎は、約束を破っているように芽榴には思える。
きっとこれが最後の優しさなのだろう、とそんなふうに思いながら、芽榴は家に帰った。




