#12
一週間はあっという間に過ぎた。学園は常に芽榴と有利が付き合ったことで話題になっていて、久しぶりに生徒の視線を強く感じた一週間だった。
日々が過ぎ去るということは、芽榴が留学する日が近づくということ。恋愛だけでなく、芽榴にはやらなければならないことがある。
翌日をバレンタインに控えた日曜日。
芽榴は東條グループの最上階、東條賢一郎のオフィスで難しい顔をしていた。
「なんや……その顔。内容が難しいんか?」
芽榴の目の前には琴蔵聖夜が座っている。芽榴も聖夜も別々の用事で東條に会いに来ていた。互いに用事は終わっていて、今は「ゆっくりしていきなさい」という東條の言葉に甘えている状態だ。
東條のオフィスにある本を読みながら思案顔をする芽榴に、聖夜は水を飲みながらそんなふうに尋ねた。
「分からんのやったら教えるで。経営の基礎ならお前に教えるくらい余裕や」
聖夜が芽榴を気遣う。ぼーっとしていた芽榴はいきなり与えられた聖夜の親切な申し出に驚いて、反射的に手を横に振っていた。
「あ、いえ。えっと、この本は難しくないんですけど……今日麗龍の高等部入試なんで……」
「せやから?」
「知り合いが受けるんです。だからうまくいってるかなーって」
今日は高等部の入試日だ。芽榴も経験済みだが麗龍の入試は特殊で、学園ではなく全国各中学校で行われる。颯から聞いた話では、入試業務で学園を休校にしないよう、他にもいろいろ特殊な方式をとっているらしい。
その高等部入試を、藍堂功利が今受けている。他人事ではあるが、芽榴はそわそわしていた。
昨日応援の電話をしたときも功利自身何の問題もなさそうだったが、受験の運は気まぐれなもの。受けてみるまで何があるか分からない。
「お前が緊張しても何もならんやろ」
「そうなんですけど……」
「他人のこと心配しとる場合ちゃうで。これから一番大変なことなるんやから」
聖夜が心配そうな声音で言ってくる。芽榴は「そーですね」と苦笑した。
「琴蔵さん、帰らないんですか?」
「お前が帰るとき帰る」
聖夜は即答する。「帰りは送る」と付け加えられて芽榴が断るも、それをさらに聖夜に断られた。
聖夜が引かないのは分かっているため、芽榴は素直にお願いする。
「あ、琴蔵さん」
功利のことが頭から離れると、自然に自分のバッグへと目がいった。芽榴はその中を見て大事なことを思い出し、バッグの中からそれを取り出した。
「バレンタインチョコ、作ってみたんですけど食べますか?」
美味しそうなチョコレートを聖夜の前に出す。正方形の箱に詰まった生チョコを見て聖夜は感嘆した。
「さすがやな。手作りは好きくないけど、お前のやったらもらう」
聖夜はそう言って、芽榴から渡された菓子楊枝で生チョコを食べる。ふんふんと頷いているあたり、彼の味覚にもあったみたいだ。
「うまい。……もう1個もらうな」
「よかったら箱ごとどーぞ。簑原さんの分もと思ってもうひとつ用意したんですけど」
「あいつにはやらんでええよ」
聖夜は菓子楊枝でもうひとつ口にする。芽榴が困り顔をすると、少し不機嫌な顔で「貸せ」と手を差し出した。
慎の分のチョコを聖夜に預け、芽榴は満足そうに笑う。
すると聖夜がそんな芽榴の顔をじっと見つめた。
「芽榴」
「はい?」
「なんか、俺に言うことあらへんの?」
聖夜は視線を落として、さらにもうひとつチョコを食べようとする。箱に綺麗に並べられたチョコを選ぶみたいにして、聖夜は菓子楊枝を箱の上でゆっくり彷徨わせている。
芽榴が聖夜と最後に話したのは修学旅行のとき。
役員に留学のことを話したことも聖夜は知っている。だから聖夜が聞きたいのは、それを聞いた役員の反応だろうか。芽榴が少し考えていると、聖夜がその名を出した。
「藍堂有利」
そのフルネームを聞いて、芽榴は眉を下げた。聖夜が聞きたかったことはそれだけで十分わかる。
「ラ・ファウストまで、噂がいくんですか?」
「ちゃうよ。……慎から聞いた」
その答えを聞いて、芽榴はもっと困り顔をする。どうして慎が知っているのか。疑問に思うが、すぐに理由は思いついた。
慎は学園の女子数人と連絡をとっている。おそらく彼女たちから聞いたのだろう。どういう経緯で聞いたのかはわからないが、それなら納得できた。
「なあ、芽榴」
「はい」
「俺は……藍堂有利に劣るとこあるか?」
「はい?」
聖夜が突拍子もないことを尋ねてきて、芽榴は思わず聞き返す。けれど聖夜は自分の発言を訂正しないため、聞き間違いではないのだと芽榴は理解した。
「……劣るところなんて、ないですけど。……ダンスが苦手なところくらいですかね?」
「それはカウントせんでええ」
芽榴が答えてすぐに否定された。聖夜にとってダンスのことは本当に触れてほしくないゾーンなのだろう。
「じゃあ、ないですよ。ていうか、琴蔵さんは他人に劣らないように頑張ってきたんですから、当然じゃないですか?」
「……その通りやけど。なんか言ってくれへんと納得できんやろ」
「何がですか?」
「……なんでもない」
聖夜は全然納得できていないと表情で語って、他所を向く。そんな聖夜の行動に、芽榴は困ってしまう。
聖夜が有利に劣るところなど特にはない。逆もそうで、有利が聖夜に劣るところも家柄くらいのもの。それだって藍堂家も名家であるから、たいした差ではない。
「……そう、ですねー」
けれど一応考えてみる。「特にないと」という答えは関心がなさすぎる気がして、あまりしたくはないが聖夜と有利を比較してみた。
「藍堂くんは……」
聖夜が劣っているとは思わない。だから芽榴は有利だけが持っていた何かを考えて、口を開いた。
「藍堂くんは……自分のことをよく知ってるんです」
「……そんなん、大差あるか?」
聖夜は不審げに芽榴を見る。芽榴も口にして、言い回しを間違ったと思った。
「なんていうか……藍堂くんは自分の位置をちゃんと知ってるんです。だからその位置から前進しようとして、努力するんです。――全力で」
言い始めたら、続きは考えなくても芽榴の口からどんどん出て行った。
有利は「努力しなければ自分は全然すごくない」とよく言っていた。でもその努力こそ芽榴はすごいと思っていた。
維持している成績にもおごることなく、もっと努力を重ねて。
もともと才能のあった武道も努力を重ねて、今では祖父以外に上はいない。相手のいない世界で、過去の自分と戦って高みを目指して。
前を見て、諦めずに全力で。
「藍堂くんはそれで得られた賞賛とか尊敬とか、そういうものに心を奪われないんですよ。謙遜とは違って、とにかく真摯なんだと思います」
努力する人はたくさんいる。努力して得られた賞賛や尊敬は嬉しくて、つい自分の装飾みたいにまとってしまう。それは悪いことではない。そのために努力するのが普通だ。
でも有利はそうじゃなくて、ただ自分が満足のいくまで上を目指しているだけ。周りからの強制や評価、それが理由で努力しているわけじゃない。
「……強い人だなって、仲良くなった時からずっと思ってました」
有利のことを考え、答えて、芽榴の中で有利への「好き」の気持ちがもっとあふれた。
自分の顔の筋肉が緩んでいくのが分かる。だらしない笑顔を見せてしまう芽榴を、聖夜は複雑な顔で見ていた。
「……強い、か」
芽榴に出会った時の聖夜は家柄や名声、賞賛や尊敬、それらを自分の装飾にして偉ぶっていた。出会いが変われば、今は変わったのかもしれない。
でもきっと、芽榴と再会することのない道へと変わっていただろう。
どうしたって、芽榴が聖夜に振り向いてくれないことは決まっていた。
「……完敗やな」
聖夜は背もたれに深く背を預け、ため息を吐くようにしてそう言った。
「でもな、芽榴」
聖夜はソファーに深く座り込んだまま、芽榴を見つめる。その瞳は優しさや悲しみ、いろんな感情であふれて見えた。
「お前を恋人として幸せにするのは藍堂有利やけど……お前を最高の女にするのは俺や」
留学から戻ってきた芽榴を、東條グループの後継として支えるのは他でもない聖夜だ。それは聖夜にしかできない。
誰も文句の言えない、本当の「最高」を芽榴に与えられるのは聖夜だけだ。
「はい。……約束ですよ?」
芽榴はそう言って聖夜に笑顔を見せる。
聖夜は「約束や」と言って満足げに笑ってくれた。




