#09
「今日は……あがりますか?」
芽榴に手伝ってもらいながら一日中勉強をしていた功利だが、夕方の日が暮れる時間になって玄関前に訪れた人物をそんな言い回しで迎えた。
「あー……こんにちは。今日も外でいいっす」
以前来た時と同じ、ジャージの下にパーカーをきてネックウォーマーをした部活帰りの楠原圭が藍堂家の玄関口にいる。
「今日は功利さん中に戻っていいっすよ。受験前に風邪ひいたらいけないし」
「お気遣いありがとうございます。体調管理なら問題ないので、ここにいさせていただきます」
功利はにっこり笑顔で圭の気遣いを跳ね除けた。圭が家にあがってくれれば、有利と芽榴が過ごす時間が延びるのに、と心の中で舌打ちをする。
「芽榴姉、呼んでもらえます?」
「たぶん、そろそろ来ますよ。『18時に弟が迎えに来る』とさっき兄様におっしゃっているのを聞いたので」
「今……藍堂先輩といるんすか、芽榴姉」
圭の問いかけに功利は頷く。少し視線を下げた圭を見て、功利は目を細めた。
「いい雰囲気だったので、私から邪魔をしたくありませんから……兄様たちが自分で来るのを待とうと思ってます。なので、あがりません?」
「……いや、ここで芽榴姉を待つんで」
圭は絶対に有利の家にあがろうとしない。圭に会った日、功利が有利に聞いた話では、圭は藍堂家の武術に興味津々で有利のことも尊敬しているような印象だった。
その印象通りなら、喜んで藍堂家の中を見て回るものだろう。功利は圭のことを不審そうに見つめた。
「圭さんが迎えに来なくても、兄様はお姉さんを一人で帰すようなことはしませんよ」
「知ってますよ。役員さんは芽榴姉のこと学校帰りも送ってるっすから」
なら、どうしてわざわざ迎えに来るのだろう。
思い当たる考えは一つ。圭が極度の姉好きということ。
芽榴の弟に邪魔をされるわけにはいかない。功利は大きく咳払いをした。
「さっき、兄様と一緒にいるお姉さんを見ましたけど……すごく楽しそうにしてましたよ? いい雰囲気でした」
「……言ってましたね」
圭は玄関の戸に背を預けて地面をぼーっと眺めていた。まるで功利の発言など興味もないみたいに足をふらふらと動かしたり小石を軽く蹴ってみたりする。
その姿が気に入らなくて、功利はそのまま言葉を続けてしまう。
「い、今ごろ、兄様がお姉さんに告白してるんじゃないですかね。あの感じなら、ありえなくもないと思いますけど」
明るめの声で言ってみると、圭が大きくため息を吐いた。
呆れるような、バカにするようなため息に聞こえ、功利は眉を寄せて圭を睨む。
けれど圭の顔を見た瞬間、功利は言おうとした文句の言葉を詰まらせた。
「……そうっすか。それは、よかったっすね。作戦が成功しそうで」
圭が切なげに微笑を浮かべている。家族として姉のことが好き。それだけでここまで辛そうな顔をするのは異常だ。
そう思う。けれどその前に、功利の心臓がうるさく鳴っていた。
「あ、の……すみません」
「何が?」
反射的に謝っていた。意味もなく謝る功利に、圭は笑って返す。その笑顔が、切ない。
「圭さ……」
功利が声をかけようとする。でもすでに圭の視線が功利の背後へと向けられていた。
功利も圭の視線を追うように、後ろを振り返る。
功利の立つ玄関口、背後には奥へとつながる長い廊下。そこに仲良く歩く男女がいる。
表情の柔らかい有利と、楽しそうに笑う芽榴が並んで歩いて、こちらへと向かっていた。
「ああ……本当だ」
圭がそう呟いた。
幸せそうな芽榴の顔を見る、圭の顔は笑っているのにどうしてこんなにも切なく歪んで見えるのだろう。
「……姉離れも、私は……大事だと、思います」
圭の顔を見たら、はっきりそう言い切ることができなかった。歯切れ悪い功利の言葉を洗い流してしまうかのように重ねられるのは、明るい芽榴の声。
「圭!」
芽榴が圭のもとへと駆け寄る。笑顔の芽榴を見て、圭は「芽榴姉」と優しく笑った。この会話中功利に見せていた笑顔とは確実に違う。どこが違うかと聞かれたら答えられない。でも絶対に違った。
圭のことを見つめる功利の顔は複雑な色を浮かべていた。
有利と功利に挨拶をして、芽榴と圭は帰り道を行く。門を出るまで、何度か芽榴が有利の方を振り返ったことにも、圭はちゃんと気づいていた。
功利にあんなことを言われて特に敏感だったから気づいたのだと思う。でもきっと、言われなくても芽榴の変化ならすぐに気づけていただろうと圭は思っていた。
「部活、おつかれさまー」
圭の横を歩きながら芽榴が優しく言ってくれる。
「ありがと。芽榴姉もおつかれ」
「私は疲れてないよー」
芽榴はそんなふうに言ってカラカラと笑った。芽榴は元気で、帰り道を行く足取りもリズムを踏むみたいに軽やかだ。昨日、今日の朝までの芽榴と違う。
「……芽」
「圭、あのね……」
芽榴が口を開いて、圭は口を閉じる。芽榴に話すよう促すと、芽榴は照れ臭そうに笑った。
「あのね……私、藍堂くんと付き合うことになったよ」
その幸せそうな笑顔はとびきり可愛くて、抱きしめたいくらい好きなのに、圭にはあまりにも残酷だった。
今は激しい運動をしているわけでもないのに、息切れしてしまいそうな苦しさが襲う。全身まで鳴り響く心臓の音を感じていた。
「そう……。そっか」
絶対に泣いてはいけない。堪えろ、と圭は拳を握り締める。幸せそうな芽榴の顔を曇らせたくない。
「よかったね、芽榴姉」
圭はニカッと笑って、芽榴を祝福してみせる。
本当によかった、と。芽榴が有利とうまくいって自分も嬉しい、と。感情を偽って、上書きする。自分に言い聞かせて、思い込ませて、そしたらちゃんと笑える。芽榴が不審に思わないくらい、本気で祝福できる。ずっと練習してきたこの演技を、圭は上手に芽榴の前で披露した。
「うん。ありがとー」
芽榴は気づかない。気づかなくていい。他の人を思っていていい。他の人のためでいい。
だから、自分にとびきりの笑顔を見せてほしい。
それが、楠原圭が最初から決めていた恋の終着点。
「功利」
玄関に立ったまま、功利は有利と一緒に芽榴と圭の後ろ姿を見ていた。
「……なんですか」
有利の声かけに、功利は静かに返事する。また勝手なことをして、とお説教をされるのだろうか。そんなことを考えていると、有利がどこか照れた様子で「あのですね」と切り出した。
「……楠原さんと付き合えることに、なりました」
「え?」
圭に言ったことが現実になっていた。言ってはみたが、そんなこと全然予想していなかった。
「そうですか。よか……」
よかった、そう言おうとして声が出てこなくなる。
それはとても喜ばしいこと。功利が望んだ結果だ。作戦通りで、有利を祝福するところ。おそらく数分前の功利ならそうしていた。
有利を茶化すように祝福して、何があったのか事細かに説明させただろう。
でも今は、そうする気にならない。
――ああ……本当だ――
圭の顔が浮かんだ。功利の不用意な言葉が彼にあんな顔をさせた。もし本当にそうなら、功利の作戦が成功した今、圭はどんな顔をしているのだろう。
考えて、心がキュッと締め付けられた。
「……功利? どうか、しました?」
「え? あ、ああ、よかったじゃないですか、兄様。私の……おかげですね」
功利は笑顔を繕って、幸せそうな兄を祝福する。有利は苦笑しながらも功利の言葉を否定はしなかった。
「そうですね。功利のおかげです。……ありがとうございます」
有利は嬉しそうに、功利に感謝してくれた。明るい空気をまとって廊下を歩く、有利の姿は言い尽くせないくらいに幸せそうだ。
「私の……おかげ」
それは嬉しいことのはずなのに、なぜか罪悪感でいっぱいになる。
芽榴と有利を幸せにして、そしたら役員や他の誰かが傷つけることは分かっていた。でもそれで構わなかった。有利に幸せになってほしかったから。
ずっとそう思っていて、今も思っている。それなのに、圭のことだけが功利の頭に浮かんでいた。
「これで……よかったんですよ」
功利は自分に言い聞かせ、有利の背中を追いかける。
功利がこの気持ちの意味を知るのは、まだ少し先のこと。




