#08
楠原家の電話が鳴る。お風呂上がり、髪の湿り気をタオルで拭いながら圭は電話元を通りかかった。
「圭ー! お母さん今、芽榴ちゃんの料理の味見してるから電話とってー!」
「お母さん……味見は別にしなくてもいいよー」
母親ののんきな声と、大好きな姉の困り声が聞こえる。圭はハーッとため息を吐き、何回目かのコールで電話に出た。
「もしもし、楠原です」
『もしもし。夜分にすみません、藍堂といいます。あの……芽榴さんはいらっしゃいますか』
藍堂という苗字を聞いて、圭は目を見張る。声の高さから相手は有利じゃなく、彼の妹だとすぐに察した。
「あー……えっと、功利さん、っすか?」
『あ、圭さんですか。こんばんは。……お姉さんに代わってもらえませんか』
電話の相手が圭だと分かると、功利は少しだけ声のトーンを下げた。その声のトーンで功利が「早く代われよ」とでも言わんばかりの顔をしているだろうと、想像がついて圭は目を細める。
「今、料理してるんで……また掛け直させます」
「圭! 電話誰からー?」
電話を切ろうと言葉を簡潔に述べた圭の後ろ、キッチンの方から真理子の声がとぶ。圭は「ああ……」と心の中で頭を抱えながら唸った。
「藍堂先輩の妹さん」
「え? こ、功利ちゃん? ちょっと待って、電話きらないでね、圭!」
圭が電話の相手を告げると、今度は焦った芽榴の声が聞こえる。その声はおそらく電話越しに向こう側にも聞こえているだろう。圭は今度こそ額を押さえた。
『と、お姉さんもおっしゃっているので……電話は繋いでいてもらえますよね』
「……本当に忙しそうだったんすよ。別に他意はないっすからね」
『別に私は他意があったなんて思ってませんでしたけど?』
功利は勝気な声音で告げる。これ以上口を開くと、圭の方からボロが出るのは見え見えであるため、圭は黙って芽榴がこちらに来るのを待った。
「ごめんね、圭」
「いいよ。……はい」
圭に受話器を渡され、芽榴はそれを耳に当てた。「もしもし」と芽榴が電話を始める隣で、圭は髪をタオルで拭う。そこにいる必要はないのだが、なんとなく電話の内容に耳を傾けていた。
『あ、もしもし。楠原さん。すみません、お忙しいところ』
「ううん、大丈夫だよー。それより……?」
『あの、明後日……日曜日って空いてますか? 受験前の最後の休日なので、できれば楠原さんに最終確認をしてもらいたいのですが……』
功利が遠慮がちな声で尋ねてくる。前に有利の家に行った時『また呼んでいい』と答えたため、功利がこんなふうにまた頼んでくれるのは嬉しい。
でも今は――。
「あの、藍堂くんは……いいって、言ってる?」
有利のことを、好きになってしまった。
あの日有利を好きだと自覚して以来、有利とまともに言葉を交わしていない。その前からぎこちなかった空気に完全な亀裂が入っていた。
『兄様ですか? もちろんですよ。嫌がるわけないじゃないですか』
功利は疑う余地もないと言わんばかりに答えた。
有利だって芽榴の変化に気づいているはずだ。でも何も言ってこない。有利は芽榴のことを気にしていない。有利は芽榴のことを好きじゃないのだから仕方ない。そう思うけれど、やっぱり少し気にしてほしい。
「そっか。なら……うん、お邪魔するねー」
芽榴は元気なく笑う。芽榴の肯定を聞いて、功利は嬉しそうに『お待ちしています』と答えて丁寧に電話を切った。
「藍堂先輩の家に、また行くの?」
「……うん。功利ちゃん来週受験だから」
圭に聞かれて、芽榴は強張った笑顔で答えた。
功利に勉強を教えるために行く。それは本当。でも心のどこかで、有利に会いたいと思う自分がいる。自分から避けているくせに、矛盾していて勝手だ。
有利は友人だとあれだけ口にしておいて、自覚したら自分を見てほしいと思う。そんな自分の狡さは自分でよく分かっていた。
「……芽榴姉?」
曇る芽榴の顔を見て、圭は心配そうな顔をする。しかし芽榴が笑顔に戻ると、それ以上心配の声をあげることはなかった。
「藍堂先輩の家行くなら、また迎え行くよ。部活帰りの通り道だし」
「え? いいよー」
「いや……あの妹は芽榴姉を泊まらせかねない」
「へ?」
「こっちの話」
圭はボソボソと言いながら、自分の部屋に上がる。芽榴はそんな圭を不思議そうに見ていた。
日曜日。
芽榴は約束通り、有利の家に来た。このあいだよりは遅い時間、昼前にやってきて功利に出迎えてもらった。
「すみません、楠原さん。最後の追い込みで、どうしても……」
まっすぐ功利の部屋に行くと、功利がお茶も用意してくれた。今日は有利の祖父もいないらしく、空いた時間は有利にお願いしていると言われた。
「え……」
「え? だめですか?」
空いた時間は有利の部屋に行くよう言われ、芽榴が動揺を表情と声で表すと、逆に功利が驚いた顔をした。
たしかに、いつもの芽榴なら「りょーかい」とのんきに答えるところ。芽榴はそれに気づいて、誤魔化すように笑った。
「あ、あはは。うん、分かったー」
有利と顔をあわせられるのは嬉しい。けれど、ちゃんと話せる自信はない。
できるだけ功利の勉強を見ていようと思うが、そういうわけにもいかなかった。
しばらく勉強を見ると功利が問題を解き始め、芽榴は功利の部屋を出ることになった。功利から有利の部屋の位置を教えられ、また何かあったら呼びに行くと言われてしまい、別のところに行くわけにもいかない。
芽榴は震える足を動かして有利の部屋に行った。障子一枚で仕切った向こう側に、彼がいる。
「……あ、あの……楠原、です」
裏返りそうになる声を必死に落ち着かせた。震えないように区切った声は、ちゃんと向こう側へと届いて障子戸が開いた。
似合う和服を着て芽榴の前に立つ、有利がいる。一瞬目があって、芽榴はすぐにそらした。
「功利から聞いてます。……どうぞ」
有利は柔らかい声音で言ってくれた。有利は中へ導くように手を動かす。芽榴はその手の動きに従うように、有利の部屋の中に足を踏み入れた。
「お邪魔……します」
有利の部屋も、功利と同じくお香がたいてある。香りは功利の部屋のものより優しく、爽やかに感じた。部屋の中はそれなりに片付いていて、丸机の前に有利の分の座布団と、おそらく芽榴の分の座布団が用意されていた。
「座ってください。お茶用意しますね」
有利に促されるまま、芽榴は座布団に座る。そしてそのまま盆の上に置いてある湯呑みに緑茶を注ぎ、芽榴の前に出した。
「……ありがと。……ごめんね」
「なんで謝るんですか」
有利は困ったような声で言う。またぎこちない空気が流れた。理由は間違いなく芽榴にある。
「功利の勉強、はかどってますか?」
「……うん。ほとんど、大丈夫」
会話が続かない。座布団に正座をしたまま、芽榴は手を温めるように湯呑みに触れている。視線はずっと茶の水面に向けていた。
何か言わなければいけないと思えば思うほど、言葉は消えていく。前までどんなふうに有利と話していたのか分からない。
有利もきっと困っている。有利を困らせたくない。そんな思いが芽榴の心の中に溢れるけれど、震える手をぎゅっと握りしめることしかできない。
「……あ、の」
「楠原さん」
何も言い出せない芽榴に、有利が声をかけた。顔を上げて、恐る恐る有利の目を見た。
いつも通り冷静に、有利は芽榴のことを見ていた。何も、変わらない。
ずっと芽榴が望んでいた「変わらないもの」がここにある。でも芽榴の気持ちは、変わってしまった。
「……僕、道場の方に行きますね」
「……え?」
「その方が楠原さんも落ち着くんじゃないですか?」
有利は優しい顔でそう言ってくれた。芽榴のぎこちない様子を分かって、それでも有利は優しいことを言ってくれる。
「楠原さんが僕と距離を置こうって言ってるのに……部屋になんか呼んでしまってすみません。僕のことは気にせずに、ゆっくりしてください」
有利は申し訳なさそうに言って、立ち上がった。
距離を置こう。そう言ったのは芽榴だ。有利のために、有利の好きな人のために、距離を置こう、と。それなのに功利に言われるがまま有利の家に来て、有利の部屋に来て、謝らないといけないのは芽榴のほうだ。
勝手なことばかりして、ぎこちない態度で有利を困らせて、今だって有利に気を使わせている。
「あ……」
「じゃあ、僕は……」
「ま、待って!」
背を向ける有利の腕を、芽榴は掴んでいた。膝は足につけたまま慌てたように有利の腕を掴んで、有利の和服の襟が少しだけ乱れた。
「ご、ごめん。えっと……」
「……楠原、さん?」
芽榴は俯いたまま、顔を上げられない。有利のことを引き止めたけど、何を言えばいいのか分からない。
有利の困った声が聞こえる。
「……距離、置くの……やめよ」
震えた自分の声が聞こえた。無意識に自分の口から漏れた言葉に芽榴は自分で驚いていた。
「え?」
「ごめん。い、今のなし」
はっきりした頭で芽榴は前言撤回を試みる。慌てて有利の腕からも手を離すが、離した芽榴の手を今度は有利が掴み直した。
「あ、藍堂くん」
有利が芽榴と視線を合わせるように、その場にしゃがみこんだ。目の前に有利の顔があるのは分かる。芽榴は自分のひどい顔を見られたくなくて、俯いたまま絶対に顔を上げない。
「楠原さん、顔あげてください」
「い、いや。……道場、行くんでしょ。離して」
行ってほしくなくて腕を掴んだのに、醜い自分を見られたくなくて有利を突き放す言葉が口から出て行く。でも声は弱々しくて、今にも泣き出しそうなくらい頼りない。
「行きます。でもその前に、楠原さんと話したいです」
有利の手が芽榴の頰に触れた。少しだけ力が加わるその手は、容易に芽榴の顔を上向かせた。
反射的に顔を隠そうとするが、片手は有利に掴まれていて、残った片手だけではうまく隠せない。
今にも泣きそうな、真っ赤な顔の芽榴が有利の瞳に映った。
「……っ、見ないで」
「楠原さん」
有利の手から逃れようと芽榴はもがくけれど、それを有利が許さない。顔を背けることができず、芽榴は視線だけでも有利から逃げた。
「僕は……やめてもいいですよ。距離を置くの」
有利は静かに告げる。その答えに、芽榴の心は苦しくなった。
「……よくないよ。好きな人、いるんでしょ?」
「います」
芽榴の質問に有利は間を空けることなく答える。有利に見られているとわかっていても、芽榴は自分の表情が歪むのを抑えられない。
「楠原さんは『よくない』って思ってるのに、今さっきどうして『やめよう』なんて言ったんですか」
「だから……あれはなしって」
「一瞬でも思ったから言ったんですよね?」
有利に言葉で追い詰められる。
一瞬どころじゃない。本当はずっと心の奥底で感じていた。
距離を置きたくない。有利の恋がうまくいかなくたっていい。
そんなふうに感じていた。
今は、強くそう思っている。
「藍堂くん……ごめんね」
有利に謝ったら、涙が出てきた。有利はそれに驚いて芽榴の手を離す。芽榴は自由になった手で、涙を拭った。けれど一度溢れた涙はなかなか止まらない。
「ごめんね。勝手ばっかり……嫌いにならないで」
「楠原さん、泣かないでください。楠原さんのこと嫌いになんか……」
「私、最低だよ。ごめん……ごめん。でも、藍堂くんに嫌いになってほしくない」
勝手なことをして、勝手なことを言っている。その自覚があるのに、芽榴の口は止まらない。
「楠原さん」
「藍堂くんの好きな人……知りたいけど知りたくないの。もう分かってるのにどこかでまだ期待してるから、絶対ショック受けるの、分かってるから……」
頭が働いていない。自分で何を言っているのか、よく分からない。でもだからこそ、たぶん今自分が言っていることは本音なんだろう、と頭の隅に追いやられた冷静な芽榴は思っていた。
「……え?」
驚く有利の声が聞こえる。でも、もう止められなかった。
「藍堂くんの好きな人が、私だったらいいなって……そんなことまだ期待してるの」
いっそ、もう有利に否定してほしい。有利の好きな人は、芽榴じゃないと。そう伝えてほしいと、芽榴は思う。
有利は、何も言わない。言葉が紡がれない静かな部屋では、芽榴の啜り泣く声がやけに大きく聞こえた。
「楠、原さん」
有利の声は驚きで少し掠れていた。芽榴がキュッと目を瞑ると、ふわりと体が優しい体温に包まれた。
「あ……いどう、くん?」
芽榴の声が上擦る。目を丸くした芽榴の正面に、有利の姿はない。少し視線をずらすと有利の首が見え、肩越しに有利の顔が見えた。
有利に、抱きしめられている。そう分かるのに、少しだけ時間がかかった。
「な、に……」
「期待、してください」
有利がゆっくりとそう言った。その意味がまだよく分からない。でもこの意味を知りたくて、芽榴は有利の言葉の続きを待つ。息が詰まって苦しい。
「期待してください、楠原さん。……僕は楠原さんの期待にこたえられますから」
芽榴の大きく開いた目から、涙がもっと溢れる。流れる涙の質量が増していく。
「僕は、楠原さんのことが好きです」
芽榴の体を支える有利の腕がしっかりと芽榴の体を包み込む。
「……ほんと? ほんとに?」
「はい。僕の好きな人は楠原さんだけです」
ひんやりした部屋の中が、熱く感じる。部屋の外は雪でも降るのではないかと思うくらい寒いのに、芽榴の体は熱い。
「楠原さんは、どうですか?」
耳元で囁くように問われる。
答えはもう有利も分かっている。芽榴にも迷いはなかった。有利の背中に回す腕が、とても軽い。
「私も……藍堂くんのことが、好きです」
恥ずかしくて、でも嬉しい。有利の気持ちも芽榴と同じで、芽榴の答えを聞いた有利は「嬉しいです」と照れくさそうに返してくれた。
向き合った有利は少しだけ顔が赤くて、久々に見た有利の顔はとても愛おしくて、伝えきれないくらい有利のことが好きだと芽榴は思った。
 




