#06
修学旅行が終わって、もう数日が経つ。修学旅行の浮かれた空気は徐々に学年棟から消えていた。
「はぁ……さっきの授業意味不明だったわ」
「舞子ちゃんが苦手そうな範囲だったねー」
一限目が終わり、移動教室からの帰っていると舞子が大きな溜息を吐いた。さっきは化学の授業だったのだが、舞子の苦手な物理の範囲と内容がかぶっているため、内容がいつもより難しく感じられたようだ。
「次のテスト範囲、あそこなのよね。勉強しなきゃ。芽榴教えてね」
真面目な会話をしながら芽榴と舞子は歩く。
もうすぐ高3。受験生となる舞子にとって、一回一回のテストが手を抜けない。分からない分野をそのまま放置しておけない時期に入っていた。
「ああもうっ、これから芽榴に教えてもらわなきゃいけないところがたくさん出てくるのに……」
「舞子ちゃんならなんとかなるよー」
高3にあがったとき、芽榴はどこのクラスにもいない。舞子が芽榴に頼れる時間も残りわずかになっていた。
「こうなったら、芽榴の友達特権を使って役員に質問しようかしら」
「たぶん葛城くん以外は『教えて』って言ったら教えてくれるよー」
「……そうお願いするのが一番難しいのよ」
溜息を吐きながら舞子に言われ、芽榴は苦笑する。クラスが同じだったり仲が良かったりすれば、役員に質問するのも難しくはない。でもそのどちらでもない舞子は質問をすること自体が難関。
だから『芽榴の友達』という札は舞子にとって唯一にして最大の効果があるのだ。
「はぁー、芽榴も役員もどんな頭してんのよ本当。……と、噂をすれば」
舞子が尖らせていた唇を元に戻す。舞子の視線を追って、芽榴の顔が少しだけ強張った。
視線の先、教科書とノートを片手に抱えて歩く有利がいる。視線を落としている有利は、まだ芽榴のことに気づいていない。
「そういえば次化学室使うのD組だったね」
「……だったねー」
5メートルほど先にいる有利を見て、芽榴は唾を飲む。
芽榴の歩く速度は変わらない。有利も変わらないペースで歩いている。有利が芽榴の存在に気づくまで時間はかからなかった。
「……あ」
有利と目があって、芽榴はマヌケな声をもらす。有利も少しだけ驚いたように見えたが、すぐにいつも通りの無表情に戻っていた。
「楠原さん」
有利が名前を呼んでくる。芽榴は呼ばれるまま、有利へと視線を向けた。
「おはようございます」
「……おはよ」
声が裏返りそうになって、芽榴は小さな声で挨拶を返す。すると有利はほんの少しだけ表情を緩ませると、立ち止まることなく芽榴の横を通り過ぎた。
「……え? ……なんか、この光景前も見た気がするんだけど」
立ち止まることなく通り過ぎた有利を視線で追いかけ、舞子がつぶやく。
前、というのは芽榴が嫌がらせを受けていた時のことだろう。あの時は芽榴が有利に挨拶をするだけで立ち止まることなく彼の横を通り過ぎた。
でも今回はその逆。
「今度は何事よ」
「……何があったってわけでもないよ。ただ、私が……」
「楠原ー! さっきの授業のノート貸してくれー!」
芽榴が舞子に事の次第を伝えようとすると、後ろからものすごい足音とともに滝本が走ってきた。
いいところで乱入してきた滝本を、舞子が凍てつく視線で睨む。
「な、なんだよ。怖い顔して」
「大事な話してんのに邪魔しないでよ、滝本」
「大事な話? 何? 俺も聞きたい」
滝本は興味津々だ。楽しい話でもなければみんなに聞いてほしい話でもない。しかし滝本が「俺も聞きたい」とうるさいため、芽榴は2人に先日の出来事と自分の発言を伝えることにした。
「藍堂くんに好きな子がいたら、その子が芽榴と藍堂くんの関係を誤解してしまうかもしれない。それは2人に悪いから距離を置こう……ねぇ」
芽榴が全部を話すと、ちょうど教室に戻ってきた。舞子は席につき、芽榴から聞いた話をまとめて目を細める。芽榴の隣の机に座った滝本も似たような顔をしている。
「藍堂の好きなやつ、なぁ。……それって意味ねぇと思うけど」
滝本は溜息を吐きながら言う。舞子も滝本の意見に賛同した。
「ねえ、芽榴。藍堂くんの好きな人って芽榴でしょ? そういう無駄なことしてないでいい加減認めなよ」
舞子が呆れ顔をして芽榴に言う。滝本も「そうそう」と言った。
それを聞いて芽榴は「ほら、みんな勘違いしてる」と苦い顔をする。今まで感じたことのない、複雑な感情が入り乱れた。
「……違うよ。だって、私じゃないから藍堂くんも納得して……私と距離を置いてるんだよ」
有利は芽榴のことを無視したり避けたりはしない。でも確実に、今までよりかまわなくなった。放課後の生徒会室でも必要なこと以外は話さない。
芽榴の言う通りに距離を置いてくれた。
その理由は一つで、有利が自分の好きな人のために、芽榴の提案を受け入れたから。事実はそうで、芽榴はそう思うしかない。
「……俺はそうじゃねぇと思うけど」
滝本は肩を竦めながら言う。舞子も滝本と同じような顔をしている。
しかし、芽榴はぎこちない笑顔一つで話を全部切り上げた。
気を抜けば、ボーッとして考える。
有利の好きな人が誰なのだろう、と。彼が芽榴以外の女子と目立って話しているところは見ない。密かに想っているのだろうか。それは彼らしいとも思う。
その子のことが好きだから、クラスメートの宮田あかりのこともフった。ずっと彼女を作っていなかった。
有利の好きな子はどんな子なのだろう。彼と並んでも違和感のないくらい綺麗な子なのだろうか。彼とは正反対な元気で笑顔な子、彼と同じようにおとなしい子、どういう子なのだろう。
ボーッと考えている。そんな芽榴の耳、舞子が「芽榴!」と大きな声で呼びかけるのが聞こえた。
「え……あ、舞子ちゃん」
「どうしたの。箸、止まってる」
昼休み、お弁当を食べている途中で芽榴は意識を手放していたようだ。手元を見れば、食べかけのお弁当と箸が目に映る。
「あはは……あの、さっきの数学の問題、考えてた」
芽榴は4限目の数学の授業で宿題にされた難問について口にする。たしかに難しい問題だったが、芽榴がそこまで悩むほどの問題でもない。舞子もそう思ったのだろう。少し不審そうに芽榴のことを見ていた。
「藍堂くんのこと、考えてたんじゃないの?」
「……考えないよー」
舞子に言い当てられたが、芽榴は苦笑ながら首を横に振る。
「そんなことより、舞子ちゃん……」
「芽ー榴ーちゃん!」
話題を変えようとした芽榴の耳に、風雅の声が届く。芽榴が振り返り、教室の扉のほうを見ると、風雅が笑顔で手を振っていた。
「蓮月くん。どーしたの?」
こちらへと歩み寄ってくる風雅に芽榴は首を傾げる。芽榴が問いかけると、風雅はにんまりと笑った。
「できるだけ芽榴ちゃんと一緒にいたいから、来ちゃった」
「さっすが、熱烈な愛だね。風雅くん」
素直な風雅の答えに、舞子が拍手を送る。聞いた芽榴は困った顔をしてみせるが、結局正直な気持ちが表情に出て、笑顔になった。
「聞いたよー、補習に引っかかったって?」
「……うん。英語が見事に」
芽榴の隣の席を借りて風雅がそこに腰掛ける。売店で買ってきたらしい200ml紙パックのストレートティーを飲みながら、風雅は溜息を吐いた。
「また神代くんに怒られそーだね」
「本当……想像しただけで泣けるよ。……芽榴ちゃん助けて」
「それは私にもどーしようもないや。補習がんばれー」
「うぅっ、見捨てないで」
泣き目ですがりつく風雅に、芽榴は思わず笑ってしまう。すると風雅もすごく嬉しそうで、特に楽しい話題でもないのに2人の笑い声が室内に響いた。
「さすがだなぁ、風雅くん」
さっきまで神妙な顔をしていた芽榴が笑っている。カラカラと楽しげな笑い声をあげているのは間違いなく風雅のおかげだ。
芽榴と風雅のことを見て風雅に感心していた舞子だが、ふと廊下の方へと目を向け、溜息とともに目を細めた。
「距離置いてる場合じゃないと思うけど……頭がいい人は何を考えてるか分からないわ」
窓の外、廊下を歩く人物に投げかけるように舞子は呟いていた。




