#05
芽榴が生徒会室に帰ると、すでに有利はいつもの席、芽榴の前に座っていた。
「……」
有利は横目に芽榴のことを見た。何か言いたげに、口を少し開け、でも何も言わない。そのまま自分の仕事に手を動かした。
芽榴がそうしろ、と言った。有利は芽榴の言うとおりにしようと思ってくれたのだろう。いつもなら聞こえる「おかえりなさい」の言葉はない。でも、それでよかった。
「芽榴ちゃん、おかえりー」
「……ただいまー。仕事進んだ?」
芽榴は席について、風雅に笑いかける。その様子を翔太郎と来羅は訝しげに見ていた。
下校時刻がやってきて、芽榴は校舎の見回りに向かう。10分くらいで見回りを終えると、すぐに帰り支度を済ませ、みんなと一緒に生徒会室を出た。
今日は颯が送ってくれることになっていた。どうやら芽榴のいないところで誰が芽榴を送るかを話し合っていたらしい。幸いというべきか、有利が送る日は来週の後半になっていて、芽榴はホッとしていた。
そのときになれば、だいぶ距離感にも慣れてくるだろう。そんなふうに考えたら冷静になれた。
みんなで門を出て、最後には芽榴と颯、2人だけとなる。
「神代くんの志望校は、やっぱりT大?」
2人きりの帰り道、芽榴と颯の会話は受験生になる寸前の学生らしい会話だった。
「ああ、一応そう。H大学に留学する芽榴には到底及ばないけど」
「国内なら間違いなくトップレベルだよ。比べることない」
芽榴と比較して自分を下げる颯に、芽榴は困り顔で告げる。
「寂しくなるね」
颯は本当に寂しそうな声で言ってくれた。それを素直に嬉しいと思う。誰かが自分の存在を大切に思ってくれていることが、とても嬉しい。
「私も、寂しいよ。だから最後まで楽しい思い出作りたいなー」
「作ってあげるよ。……みんなで」
颯は「自分が作ってあげる」とは言わない。あくまでみんなで思い出を作ろうと言う。颯は本当に、役員みんなのことが好きなんだな、と実感して、芽榴は微笑んだ。
「私は少し早く離れちゃうけど……でも1年後にはどうせみんなバラバラだね」
「うん。翔太郎は都外のK大志望だし、来羅と有利は私立のW大……だけど学部が違うしね。風雅は……まあ、あいつの場合はなんとかなるか」
颯はそれぞれの進路を口にして、少しだけ寂しそうな顔をする。みんな、別々の道を行くのだ。
颯は、本当にみんなのことをよく知っている。付き合いが短い芽榴は、やっぱり知らないことは多い。
「芽榴?」
「……藍堂くん、W大志望なんだ」
全員の志望校を改まって聞くのは初めてだった。でも特に有利の志望校だけは気になった。
翔太郎は理系で、彼の性格からしても研究重視になると考えれば都外にある有名国立大学K大志望は妥当。理工学系に特化した来羅なら私大のW大というのも、予想しようと思えば難しくはなかった。
でも有利は武道のイメージが強すぎて、彼がどの大学に行くかは全然予想できていなかった。
「うん。おじいさんもお母さんも、W大らしいから」
「……全然、知らなかった」
友人なら気にして知っておくべきことだったのかもしれない。でも「友達」という関係が、どこまで踏み込んで知っていいものなのか芽榴にはまだいまいち分からなかった。
自分の対人スキルの低さが情けなく感じられて、芽榴は視線を下げる。
「有利と、喧嘩したってわけじゃなさそうだね」
颯が芽榴の頭をポンポンと撫でて、優しく言う。芽榴は「え?」と顔を上げた。
「今日ずっと、芽榴が有利によそよそしかった。……僕が職員室から帰ってきた後は、ほとんど会話してないだろ?」
その通り。でも他人である颯が気づくほど顕著なものではなかったと思う。芽榴と有利はもともとよく喋る間柄ではない。ただ、仕事の合間合間に軽く言葉を交わすだけ。
けれど確かに、今日はそれすらしなかった。
「よく、見てるね?」
「当たり前だよ。大切な友人たちの一挙一動、ちゃんと見てる」
「……今度からもう少し行動に気を配ろーかな」
颯の言葉に少し怖さを感じて、芽榴は苦笑まじりにそんなことを言ってみる。
でも颯はそれだけ友人ことを思って気にしているということだ。
「ね……神代くん」
「何だい?」
もし、それだけ思っていたら気づけるのだろうか。
「神代くんは……藍堂くんに好きな人がいると思う?」
もしも彼が知らないときのために、まずは遠回しな言い方で問いかける。
「……いるよ」
颯は少し間をおいて、断定系で返した。「思う」と付け加えない。それはつまり、確信があるということだ。
颯が芽榴から少しだけ視線をそらす。芽榴も同じように正面へと視線を向けていた。
「相手が誰かも知ってるの?」
互いに歩みは止めない。コンクリートにぶつかる革靴の音が、コツンコツンとまばらに響く。2人の足音は揃わない。
「知ってるよ。……知りたい?」
颯はそう尋ねて、芽榴を見下ろした。颯の視線を感じて、芽榴は顔を上げる。視線が交差すると、芽榴は唾をのみこんだ。
芽榴が頷けば、颯は答えを教えてくれるのだろうか。
知りたい。けれど、知りたくない。
もし仮に有利の好きな人が芽榴だとして、そしたら颯は本人である芽榴に教えようとはしないはずだ。
有利の好きな人は、芽榴じゃない。状況が芽榴にそう告げている。
有利に聞かなかったのも理由は同じだ。
知りたくても、有利がそれを答えられるのは相手が芽榴じゃないからだ。よき友人に伝える、秘密事。
でも、それでいいはずだった。
友人なら、その秘密も共有したいと思うはず。なのに、ショックを受けているのはなぜだ。
芽榴は締めつけられる胸に、そっと手を当てる。キュッとシャツを握りしめて、颯の瞳を見つめた。
「……それは」
知りたい、知りたくない。答えは両方だ。きっと瞳は揺れている。心がどうしようもなく揺れていたから。
そんな芽榴の姿を見て、颯は静かに笑った。
「……教えないよ、芽榴には。これは有利と僕の、秘密だから」
颯はそう言って、再び芽榴の頭を優しく撫でてくれた。芽榴を落ち着かせるように。
まるで、芽榴の混沌とした心の中を見透かしたように、優しく。
それが恥ずかしくて、芽榴は顔を上げられない。
「ねえ……芽榴」
颯の声は優しい。いつも変わらない、芽榴を落ち着かせる優しい声だ。
「僕はずっと、君の友達だよ」
芽榴を元気付けるための言葉なのか、颯はそんなふうに声をかける。彼の思惑通りかは分からないが、その言葉で芽榴の心は落ち着いた。
颯はちゃんと自分を友達と思ってくれている。その事実は芽榴を安心させてくれた。
颯と友達になれて、友達でいられて、それが嬉しい。それが素直な芽榴の気持ちだ。
「うん。ありがとう」
心の底から笑って芽榴は颯を見上げた。
アメリカに言ってもずっと、颯は友達で、芽榴の味方でいてくれる。そんな心強いことは他にない。
「神代くんは、大切な友達だよ」
アメリカに行く前に、感謝の気持ちも自分の思いもちゃんと伝えておきたい。芽榴は自分の中にある感謝の気持ちを「大切な友達」という言葉で颯に向けた。
「……嬉しいよ」
そう言って笑う颯は儚い。でもその儚さすら、夜闇に光る月明かりに映えて綺麗だった。
芽榴は颯と2人、夜道を歩く。2人の距離はある一定の間隔を保ったまま離れることも近づくこともない。
それがこれから先も変わらない、芽榴と颯の関係。
アメリカに行く前に、みんなに伝えたい。芽榴の感謝の気持ちを、思いも、全部。
「……全部」
心を締めつける、この思いがなんなのか芽榴にはまだ分からない。でももし、この気持ちの正体が分かったならこれもちゃんと伝えなきゃいけない。
残された時間に悔いを残さないために、芽榴はそうしなければいけない。
「芽榴? ……大丈夫? 怖い顔してる」
そう思うと、胸がまた切なく、苦しくなる。
「え? あはは、だいじょーぶだよ。少し考え事してただけ」
芽榴は笑う。
ほとんど分かっているはずの気持ちを押し込んで、見ないフリをするように笑っていた。




