#03
それから数回功利の部屋に立ち寄って、芽榴は勉強を教える。その合間に何度か祖父と囲碁をして、祖父の「手加減するな」という言葉通り、芽榴は手心を加えることなく祖父を負かしていた。
「芽榴坊はいいのぉ。戦いがいがあるわい」
祖父は敗北をとても楽しんでいるようだった。彼の場合、武道の道では負けなしなのだから新鮮なのだろう。
「楽しんでいただけたならよかったです」
「すみません、楠原さん。何度もおじいさんがリベンジを挑んでしまって」
「あはは、全然いいよー」
芽榴は有利に笑顔で答えた。意識的に、有利の顔を直視しないようにして笑う。そうすることで、変なことを考えずにいつも通り有利と接することができた。
そんな芽榴を有利の祖父がジッと見つめている。
「そうじゃ有利、そういえば居間の方にわしの羽織が置いてあるんじゃが、とってきてくれんかの?」
祖父が有利にお願いする。彼が突如として有利をこき使うのは今日一日見慣れたもので、特に不自然なものでもない。
有利が溜息ひとつで部屋を出て行くと、祖父が湯呑みを手に取った。
「芽榴坊」
「はい。……もう一手打ちますか?」
「そうしたいところじゃが、そろそろ夕飯の時間じゃでのぉ」
祖父はそんなふうに笑って、茶を啜る。彼の目の前に正座する芽榴は「そーですね」と笑い、彼と同じように湯呑みを手にとって口をつけた。
「芽榴坊は……有利のことが好きかの?」
祖父に問われ、芽榴は喉を通過しようとしたお茶をむせ返した。ゴホッゴホッと大きな咳を繰り返し、芽榴は「ごめんなさい」と謝る。
「図星かの?」
祖父の問いかけに、芽榴は視線をそらして唇を浅く噛む。「図星」とは少し違う気がした。
「……好きですよ、友人として」
「最後の言葉はつまらんのぉ」
祖父はそんなふうに言って笑う。やはり有利の祖父が芽榴に求めている「好き」はそういう「好き」なのだ。それが分かって、芽榴は頰を薄く赤らめた。
「有利くんもきっと、私のこと友人としか思っていません」
「じゃあ、仮の話をすればよい」
有利の祖父は目尻を下げ、優しい顔をする。「仮の話」と前置きをされてしまえば、芽榴お得意の逃げ道は塞がれてしまう。
「仮に有利が芽榴坊のことを好きじゃったら、芽榴坊は有利の隣におってくれるんかのぉ?」
彼の言う「隣」とは、有利の恋人ということだろう。芽榴は首を縦にも横にも振らない。
「……おじいさんは、本当にそれを望んでますか?」
芽榴は碁盤をジッと見つめ、真剣な口調で尋ねる。
「藍堂家は名家、その道でいえば最上級の家柄です。……だから、有利くんの相手に良家のお嬢様をと考えてるんじゃないですか?」
芽榴の留学が成功すれば、芽榴は最上級の良家のお嬢様になる。けれど祖父はそのことを知らない。有利の祖父が問いかけている楠原芽榴はまだ、ただの一般人。相応しい地位の人間ではない。
芽榴が事を真剣に考えていることを察し、祖父の方も咳払いをした。
「芽榴坊はやはり思慮深い娘よのぉ。……芽榴坊の言う通り、有利の見合い相手の候補はおる」
有利の祖父は湯呑みを置く。空になった彼の湯呑みに、芽榴は茶を注いだ。祖父は「気が効くのぉ」と笑って、再び湯呑みを手にした。
「でもわしは、有利に好いた娘がおるなら……そっちを選べばいいと思っておるんじゃよ」
有利の祖父はそう言って少し真面目な顔をしてみせる。
「それがもし芽榴坊で、芽榴坊が有利を選ばんのじゃったら……有利にはわしが決めた相手と結婚してもらう。それだけのことじゃ」
有利の祖父の茶を啜る音が室内に響く。
部屋に面した庭から鹿威しが刻みのいい音を鳴らすのが聞こえた。
「まあ、たとえ話じゃ。わしも孫は可愛いからの。全部有利の気持ちを尊重するだけじゃよ」
そう。これはただのたとえ話。
もしこのたとえ話を芽榴じゃない他の女の子で仮定しても同じことが言える。
つまり祖父は有利の好きになった子が誰であっても有利の意思を尊重するということだ。たとえ祖父が芽榴を気に入っているとしても、そんなことは関係ない。
「優しい、おじいさんですね」
少しだけ、心が締め付けられる。そんな感覚に陥りながら、芽榴は小さく笑った。
「それより、芽榴坊。夕食も一緒せんかの?」
「あ、いえ。今日は家で夕食をとるって言ってて、もうすぐ……」
藍堂家の門の前、公立佐山高等学校のサッカー部ジャージを着た男子がエナメルバッグを肩から下げて立っていた。
「うわぁ、でっけぇ。すごいなぁ、藍堂家」
大きな屋敷に感嘆の声をあげるのは芽榴の義弟、楠原圭だ。
夕飯の材料を買いに行くため、部活帰りに芽榴を迎えに行くよう今朝真理子に言われていたのだ。
芽榴は一人で行けると言っていたが、最近は日が落ちるのも早く、重たい荷物を芽榴一人に持たせるのは圭が嫌だった。
「芽榴姉、もう終わったかな。……なんて言えばいいんだろ。緊張するんだけど」
そんなことを呟きながら、圭は門を抜けて藍堂家の玄関口へと向かう。引き戸の前に立って深呼吸をしていると、横の方から聞き覚えのある声がとんできた。
「圭くん、ですか?」
圭が振り向くと、庭に面した廊下を、似合う和装で藍堂有利が歩いていた。憧れている藍堂家筆頭門弟の登場に、圭は目を輝かせた。
「藍堂先輩! わぁぁ、お久しぶりです!」
圭は嬉しそうな様子で、圭にお辞儀をする。有利は藍色の羽織を腕にかけたまま、圭のもとへと歩み寄った。
「もしかして、楠……芽榴さんのお迎えですか?」
「あ、はい。もう大丈夫ですかね?」
「もちろんです。……すみません、妹がお借りしてしまって」
有利が圭に申し訳なさそうに声をかけると、玄関の戸が開いた。
「お声が聞こえたのですが、誰かいらっしゃ……兄様と……?」
玄関から現れた和服の美少女に、圭は目を丸くする。圭と有利の声に反応してやってきたようだ。圭のことを見てその美少女は「どちら様ですか」と声をかける。
「あ、圭くん。僕の妹の藍堂功利です。功利、こちらは楠原さんの弟の圭くんです」
有利が仲介になって両方の紹介を済ませてくれる。有利を挟んで、圭は功利とお互いに頭を下げあった。
柊来羅に及ばずと言えど綺麗な少女。有利の顔も整っているからさすがは同じ血筋だと圭は納得する。
「僕は楠原さんを呼んできます。功利、圭くんのこと少し頼みますね」
有利はそう言って、圭と功利の前から消えた。
有利が屋敷の奥へと消えると、功利が綺麗な笑顔で圭に笑いかけてくる。
「外も寒いので上がってください。お茶でもどうぞ」
「あ、いや……大丈夫っす。先輩が連れてきたら芽榴姉をそのまま連れて帰るんで」
圭は即答する。その返事を聞いて、功利は少しだけ目を見張った。
「そんなに急いでお帰りになられなくても……お茶一杯くらいどうです?」
「あー……一応ほら、男子の家に遊びに行って遅くなると親が心配するっていうか……?」
圭は苦笑しながらそんなふうに言う。もちろん、真理子も重治も芽榴が有利の家に行ったことは知っていて、まったく何も心配などしてはいない。
心配しているのは、そんな言い訳をした当の本人だ。
「そう、ですか。じゃあ少しここで待っていてください」
「はい。てか……えっと功利さん、こそそんな格好で寒いでしょ? 中入ってていいっすよ」
「いいえ。お客様を置いて中に入ることはできませんよ」
功利は薄く笑って玄関の戸を閉める。そして、圭の隣に立ち、寒々とした様子で有利と芽榴が来るのを待った。
「なんか、すみません。やっぱり俺家に……」
「お姉さんをすぐに連れて帰りたいんでしょう? 中に入ったらなかなか帰しませんよ、私」
功利はにこりと笑って言う。
「できれば、お姉さんにはできるだけ兄様といてもらいたいんです」
「……あー」
功利のその一言で、圭は目を細める。功利が実の兄の気持ちを知っていて、彼のために動いているのだということは簡単に理解できた。
別にそのことについて圭が口出しするべきことではないが、芽榴が相手となると話は別だ。
「……あんまお節介は良くないんじゃないっすかね。男としての意見ですけど」
圭はボソッと呟く。すると功利は圭と同じように目を細め、横目で圭のことを見つめてきた。
「その言葉、そっくりお返ししますよ。女としての意見ですけど」
圭の言葉を真似て、功利は言う。
見抜くような視線に、圭は「しまった」と心の中で呟くが、芽榴と圭の関係上自分の気持ちは極度のシスコンということで留まる。圭はそう考え、少しペースを上げた鼓動を深い息で落ち着かせた。
有利が芽榴を連れてやってきたのはそれから5分後のこと。
「圭、お待たせー。功利ちゃん、ごめんね。外で待たせちゃって」
「いいえ。圭さんが外で待ってらっしゃるのですから私だけ中に入るわけには……」
そう言いながら功利は圭をチラと見る。圭は「うわぁ……」と苦笑いを表情に乗せた。功利の挑発的な態度が少し見てとれたため、有利は大きな溜息を吐く。
「……功利。すみません、圭くん。何か言われました?」
「あー、いえ何も。一緒に待ってもらって……いい妹さんっすね」
圭は両手を振って、笑顔で答える。その笑顔を保ったまま、功利のほうを向いて「ありがとう」と言った。
「じゃあ、お邪魔しましたー」
「本当に助かりました。また呼んでいいですか?」
別れの挨拶を告げる芽榴に、功利がそんなふうに尋ねる。すると有利が強い口調で彼女の名を呼び、圭がすぐに彼女へと視線を向けた。
しかし、それらの行動を気にもかけず芽榴はのんきに「いいよー」と答える。
「ありがとうございますね、楠原さん」
「……本当にすみません、楠原さん」
喜ぶ功利と謝る有利に、芽榴はひらひらと手を振って緩く笑った。
「じゃあ、藍堂くん。また明日」
「はい」
「芽榴姉、行こう」
有利に笑顔で挨拶をした芽榴は、圭に腕を引かれてそのまま門の外へと歩いていく。
「荷物貸して。持つよ」
「重くないよー」
「いいから」
微笑ましい姉弟のやり取りをしながら藍堂家を去る。そんな2人の姿を、有利は薄く笑って見送った。
「兄様、のんきに笑ってる場合じゃないですよ」
家の中に戻りながら、功利が有利へと指摘する。すると有利は「え?」と功利のほうを向いて首を傾げた。
「意外なところに刺客です」
「功利? 何を言ってるんですか」
何も分かっていない兄の姿に功利は視線を向け、そして軽く息を吐いた。
「……楠原さんが、兄様や風雅さんがそばにいてもなびかない理由が分かりました」
功利はそう言って、使用人たちが始めているであろう夕飯の支度の手伝いに足を向ける。
残された有利は困り顔で首を傾げていた。




