#10
日曜日、昨日の夜作ったチョコを持って芽榴は東條グループの本社である高層ビルへと向かった。超一流企業の会社に行くのだから適当な格好ではいけない。真理子から選んでもらった清楚で大人びた雰囲気のあるワンピースに、薄い化粧を施して芽榴はそこへ赴いた。
ビルの1階、本来は社内に足を踏み入れた次には目の前の受付にて社長との連絡をとりついでもらわなければならない。しかし、芽榴と東條の事情はまだ社内でも公になっていることではなく、芽榴はあらかじめ連絡のあったとおり、1階のエレベーター近くに立っている女性――東條の秘書のもとへと歩み寄る。
「楠原様でいらっしゃいますか?」
「はい。お手数おかけして申し訳ないです」
笑顔の東條秘書に対し、芽榴は少し眉を下げて挨拶をする。今の芽榴は年齢的にも姿的にも社内で異質の存在。自然と社員の目を引いてしまうため、芽榴は秘書とともにそのままエレベーターに乗り込んだ。
さすがは一流企業の秘書。芽榴を前に聞きたいことはたくさんあるはずだが、何一つ芽榴に東條とのことを尋ねず静かに与えられた任務を遂行している。
最上階に着き、そのまま彼女の後ろをついていくと突き当たりの大きな扉の前で立ち止まった。
「水野です。楠原様をお連れしました」
数回のノックの後、扉を開けて秘書が中の人物にそう伝える。すると中から「通してくれ」という静かな東條の声が聞こえた。
秘書に促され、部屋の中へと足を踏み入れる。芽榴は中にいる人物を見て少し目を丸くした。
「よく来たね。座りなさい」
「お久しぶりです。……楠原さん」
ぎこちない標準語に慣れない呼び方。東條の向かいに聖夜が座っていた。
東條に言われたとおり、東條の隣のソファーに腰掛けると聖夜は少し不満げな顔をした。
「ちょうど琴蔵くんに後継のことを話していたところでね」
芽榴が聖夜と面識のあること、そして聖夜が芽榴と東條の関係を知っていることはすでに東條も分かっていることだ。
つまり聖夜に芽榴が後継になると伝えることは簡単。芽榴なしですでに話は済んだらしい。
「ああ、ちょっと済まないね。電話だ」
そう言って東條が席を外す。東條が奥にある自分のデスクの方へ向かうと、向かいに座る聖夜が口を開いた。
「久しぶりやな」
東條が電話をしているため、聖夜の声は小さい。
「修学旅行以来、ですね」
芽榴がそう答えると、聖夜は「せや」とやはり不満げな返事をした。
「顔出しに来い言うたのに全然会いに来へんし」
「生徒会も忙しくて」
「来る気なんてさらさらなかったやろ」
聖夜はいじけたように言う。事実聖夜の言うとおり、芽榴は2人に泣き言を言いにわざわざラ・ファウストまで行くようなことはしない。
「泣き言なら、今はみんなが聞いてくれますから」
「つくづく、学校が違うことが悔やまれるで」
聖夜はそう言って大きなため息を吐く。そんな子供っぽい反応の聖夜に苦笑しながら芽榴は持ってきたトートバッグの中からかわいくラッピングしたそれを取り出した。
聖夜と東條の話はすでに終わっているため、東條が電話を終えてこちらに戻ってくれば聖夜も帰宅することになる。その前に渡しておきたかった。
「本番は明日ですけど。バレンタインのチョコです。いつもお世話になってるので」
芽榴が笑顔でチョコを差し出すと、聖夜は「最後のセリフは余計や」と言葉を付け加えながら芽榴のチョコを受け取った。
「味が楽しみやな」
「普通のチョコですよー」
聖夜がハードルを上げるため、芽榴はそんなふうに返事した。
そして芽榴はもうひとつのチョコを取り出す。けれどそれを聖夜に渡すのは躊躇してしまった。
「それ……慎の分か?」
聖夜にもう一つあげるとすれば、相手はその人しか考えらえれない。聖夜に尋ねられ、芽榴はぎこちなく肯定を示すために首を縦に振った。
「……はい」
昨日慎に会って、慎に風雅との関係を指摘された。芽榴は「思わせぶり」だ、と。その自覚がなくても他人にそう思われればそれが事実になる。芽榴には否定しようがない。慎にチョコをあげても彼は受け取らない気がした。
それでも芽榴がこのチョコを日頃のお礼だと言うなら、慎には絶対渡さなければならない。
「慎と何かあったんか?」
聖夜に問われ、芽榴は首を横に振る。
「ただ少し図星を指されただけです」
苦笑いをこぼす芽榴のことを聖夜は訝しむように見つめていた。
そう時間も経たないうちに東條が芽榴と聖夜のいる席に戻ってきて、聖夜は東條と少しのあいさつを交わす。そして芽榴に口パクで「またな」と言って東條のオフィスから出ていった。
「琴蔵くんとはずいぶん親しいようだね」
「……何かとお世話になっているので」
聖夜の口パクを見ていたのであろう東條にそう言われ、芽榴は苦笑交じりにそう返した。そして芽榴は先ほど聖夜が座っていた側の席に移動し、東條と向かい合う。
「で、私が大学で読んでいた経営学の本を一応取り出しては見たんだが……」
東條はそう切り出して芽榴の前に数冊の分厚い本を出す。その中には洋書も多く含まれていた。
芽榴が今日ここに来た一番の理由は留学前に東條から経営学について学ぶため。その前に東條と聖夜がグループの後継について少し話をするということで早めにオフィスへ赴いたのだ。
「昔、書斎にあったものだから目を通しているものが多いだろう?」
「はい。これとこれはまだ目を通したことがありませんけど……だいたいは」
東條家にいるころ、書斎にあった経営学の本はほとんど目を通した。だから芽榴はすでに経営学の基礎的知識を頭にいれている。それでも芽榴は「留学前に学べることは学びたい」と東條にお願いして東條の都合があった今日、勉強しに来たのだ。
「これからH大学で最高峰の経営学を学ぶのに、私が基礎的なことで芽榴に教えられることはほとんどないと思うが」
「そんなことないです。この本を読んでたのは10歳になる前の話ですから、分からないところもありましたし、そこを教えてもらいたいなって」
芽榴はそう言ってかつて目を通したことのある本のひとつを手に取る。記憶を探り、分からなかったケースの話を探す芽榴を東條はじっと見つめていた。
「私……何か、失礼なことしてますか?」
東條の視線に気づいて、芽榴は焦り顔で問いかける。すると東條は「違うよ」と眉を下げて笑った。
「日本にいる時間も長くはないのに、勉強で時間をつぶしていいのかなと思ってね」
東條は芽榴を気遣うようにして言った。確かに、来月の今頃にはアメリカに発たなければならない。だからその前に休日遊びに行ったりしてみんなとの思い出を作ることもできる。けれど芽榴はそうしなかった。
「影響、ですかね」
「影響?」
芽榴の答えに、東條は首をかしげる。その言葉の意味を問われて芽榴は照れくさそうに頬をかいた。
「今、私が勉強を教えてる人がいるんですけど……すごく熱心で、その姿見てたら私ももっと頑張らなきゃって思ったんです」
芽榴は風雅のことを思い浮かべながら告げる。そんな芽榴の話を聞いて、東條も微笑んだ。
「私にもそういう経験があるから、その気持ちは分からなくもないよ」
そう言って、東條はどこか懐かしむような顔をした。ゆっくりと口を開いて、高校時代亡き妻である榴衣にテスト前はいつも勉強を教えていたと語った。
「お母さんって、頭よくなかったんですか?」
「成績は、悪いほうだったかな」
驚く芽榴に東條は苦笑しながら返す。常識人で運動神経もよく、もともとの頭脳的にも問題はなったのだが、中学時代に病気の母親の看病をしていて榴衣は学校を休むことが多かった。基礎の授業に参加できなかったため勉強のほうはそれほど出来なかったらしい。
「中学のときは楠原とまとめて勉強を見ていたよ」
高校に入っても榴衣は重治を勉強に誘っていたらしいが、カップルの邪魔をしたくないと言って重治は参加しなかったらしい。
違う学校に通っていたため東條と榴衣は休日しか時間があわなかったが、それでも毎週末榴衣とは会っていた。東條は芽榴にそんな懐かしい話をした。
「榴衣は成績はよくなかったけれど、周りをよく気遣える人でね。いつも笑っていて、不器用な私のそばにもいてくれた優しい女性だった」
榴衣の話は昔から芽榴の中で「聞いてはいけない話」に位置づけられていた。だからこそ今、東條から榴衣の話を聞けることが新鮮で、芽榴はとても嬉しかった。
「私が今、勉強を教えてる人もお母さんと似たような人です。いつもみんなのこと気遣って、笑ってて、みんなのために自分のこと犠牲にしちゃうようなおバカさんですけど」
芽榴の顔からは自然と笑みがこぼれる。風雅のことを考えると自然と心の中が楽しくなるのだ。
「ああ……もしかして、蓮月くんかい?」
東條の口から突然その名が出てきて、芽榴は驚いて目を丸くする。芽榴が「どうして分かったのか」と顔面で尋ねているため、東條はクスリと笑って芽榴の疑問に答えてくれた。
「イブのパーティーのとき、貴婦人への気遣いが会に慣れていない人間とは思えないくらい様になっててね」
東條も役員も全員参加したイブのパーティー。風雅は貴婦人に囲まれていて、失礼のないよう彼なりに一生懸命だったのを芽榴も覚えている。
「でも貴婦人からのホールドに耐えられなくなって『あそこに好きな子がいるんだ』と芽榴のほうを見ながら騒いでいたのが特に印象的だったかな」
東條が笑いを堪えるようにして付け加える。まさか東條の口からそんな言葉が漏れるとは思わず、芽榴は再び驚いてしまう。そして東條にまで風雅の発言を聞かれていたのだと思うと気恥ずかしくて顔を赤くしてしまった。
「イブの余興のあと、役員全員と話す機会があったけれど、彼だけは役員の中でも異質だね」
顔を赤くする芽榴を微笑ましく見つめながら、東條は風雅について彼の感じたことを芽榴に告げる。
「異質、ですか?」
まだ顔は火照るものの、芽榴は東條の言葉が気になってそんなふうに問い返す。
「他の役員は相手が東條グループの社長でも、特に緊張もせずに慣れた丁寧な言葉で会話をしてくれたんだが……。蓮月くんだけはね、とても緊張していて一生懸命丁寧な言葉を使ってるのがなんとなく愛らしかったよ」
容易に想像できる姿に、芽榴は困り顔で笑う。
「いい意味でね、普通の高校生だと思ったよ。容姿が感嘆するレベルで整っていることを除けば」
風雅の容姿は東條も認めるほどのものだ。芸能界にいると言われてもまったく驚かない、むしろいないことに驚いていると言わしめるくらいに整っている。
けれどそれ以外は気遣いに長けている普通の高校生。芽榴の周りにいる高校生は大人びて考え方も才能も高校生離れしている人が多い。芽榴自身がそうであるから特に、普通の存在は芽榴にとって大きいと東條は言った。
「現に、彼からいい影響を受けているみたいだし」
東條は優しく笑う。
今こうして芽榴と東條が自らの近況や昔話をできている、このことさえも風雅のおかげといっていいものだ。
「そう、ですね」
口にして実感する。
芽榴の中で日に日に風雅の存在は大きくなっていて、微かに揺れる気持ちを芽榴は感じていた。




