#09
芽榴が慎とバレンタインの買い出しに行っている頃、風雅は藍堂家にて勉強道具を広げていた。分からないところをすぐに聞けるように、風雅が先生として選んだのは有利だった。
ちょうど有利の朝稽古が終わったくらいの時間に風雅はやってきて、現在の昼時までずっと勉強をしているのだ。
本当は芽榴に頼みたかったが、芽榴も土日は用事が入っていて何より大切な休日まで奪うのは風雅も気が引けたのだ。それでも芽榴と一緒にいたい気持ちは変わらないため――。
「あー……芽榴ちゃん欠乏症」
そう言って風雅は参考書の上に伏した。だいぶ勉強も進んでいたため、有利は咎めることをしない。けれども風雅の発言には困り顔をしていた。
「困った病気ですね」
有利がそう言い、風雅は「だよね」と苦笑する。
「これから先、芽榴ちゃんがいないことに慣れるとか不可能……。オレ死ぬかも」
風雅は参考書に伏したまま呟く。
それは芽榴の前では言わない風雅の本音だ。きっとこれを芽榴に伝えたら彼女は今の有利みたいに困った顔をするだろう。芽榴のことを応援したいのは本当で、だから風雅は芽榴を困らせないように芽榴を引き留めるようなことを言わない。
「蓮月くんの場合は楠原さんとずっと一緒にいますから、余計に反動が大きいでしょうね」
有利はそう言って、複雑そうな顔をした。有利が芽榴と一緒にいる時間は放課後の生徒会室以外、廊下ですれ違うときくらいしかない。それでも芽榴がいなくなるという衝撃は大きいのに、風雅の衝撃など考えたくもない。
「それでも楠原さんの前で明るく笑ってる蓮月くんはえらいですよ」
有利は薄く笑う。すると部屋の前で「失礼します」という功利の声がして、部屋の障子が開いた。
「お茶、お持ちしました」
「わわっ、功利ちゃんごめんね! 功利ちゃんも勉強忙しいのに!」
功利の姿が見えるや否や風雅はそう言って功利のことを気遣う。そんなふうに芽榴相手じゃなくても誰に対しても優しいのは、やはり風雅の素の性格だ。
功利は風雅と有利のいる机の上にお茶を出しながら「お気になさらず」と冷静に答えた。
「私も今ちょうど休憩したかったところですので、そのついでです」
有利と同様に功利も頭はいい。普通に麗龍合格圏内であるが、いざとなれば有利に勉強を教えてもらうこともできる。それでも手を抜かないのはまさに藍堂家の血筋だ。
「あとお弟子さんからもらったお菓子があったので、どうぞ」
そう言って功利が風雅と有利の前にチョコレート菓子を出す。それから功利は風雅と少し話をすると、また勉強をするために部屋を出て行った。
「功利ちゃんって、本当に気遣い上手だよね」
「それを言うなら蓮月くんのほうがそうだと思いますけど」
有利にそう言われ、風雅は照れたように笑った。
そして風雅は功利の置いていったチョコレート菓子に視線を移す。チョコを見ると自然に来たる月曜日のことが頭に浮かぶ。
「月曜日、バレンタインだね」
風雅はチョコを一つとって口にいれる。ビターチョコだったらしく、ほろ苦さが口の中に広がり、風雅は少しだけ眉を下げた。
「そうですね。今年は生徒会室がチョコで溢れ返らないことを願います」
有利がお茶を飲みながらそう言い、風雅は苦笑する。去年のバレンタイン、自分のクラスに置いておくことができなくなった大量のチョコを風雅が生徒会室に保管したため、生徒会室はチョコの箱で溢れかえったのだ。
もちろん、皇帝の怒りが落ちたのは言うまでもない。
「今年は楠原さん以外からもチョコもらうつもりなんですか?」
有利の問いかけに風雅は苦笑いをこぼす。ちょうど風雅もそのことを悩んでいたところだった。
「それが今一番の悩みなんだよね」
ファンクラブとの関係は落ち着いた。けれど落ち着いたからといって、ファンクラブのメンバーが風雅のことを嫌いになったわけではない。加えてここ最近の風雅の気取らない態度や芽榴に一途なところを気に入って新たなファン層が増えているという話も有利は来羅から聞いていた。
だからこそ今年の風雅がもらうチョコの量も規格外であることは予想に難くない。
「芽榴ちゃんしか好きじゃないのに、他の子からもらうのはどうなのって思うし……だからって断るのもせっかく用意してくれたのにどうなのって感じで……」
風雅は大きな溜息を吐く。
「どっちにしろ、オレは最低になるしか道がない」
風雅は遠い目をしてそう呟いた。有利もその意見を堂々と否定することができないらしく、困り顔だ。
「それに、今は芽榴ちゃんがどう思うのかも分からないんだよね」
風雅はそう言って少しだけ頬を赤く染める。
――蓮月くんは私のこと忘れるんじゃないかって……それが怖くなった――
風雅は昨日の芽榴の言葉を思い返した。不安げに俯いて顔を赤くした芽榴の姿は言い表しようのないほど可愛くて、風雅の心中はいろいろ大変だった。
風雅が他の子からチョコをもらった場合、今までの芽榴なら「すごいねー」と半目で笑うだけだっただろう。
けれど今の芽榴は違う。彼女がどんな反応をするのかは推し量れない。
「オレの思い込みだって分かってるんだけどさ……」
風雅の語り出しに、有利は顔を上げる。有利に続きの言葉を促されて風雅は一層顔を赤くし、あまりの火照り具合に恥ずかしくなって顔を覆った。
「もう、どう見ても芽榴ちゃんがオレのこと好きなようにしか見えなくて大変」
照れながら風雅はそう言う。脳内お花畑の風雅の目の前で有利は半目になった。
「蓮月くん、僕と稽古でもしますか。面を3回ほど打ってあげますよ?」
「暗に『死ね』って言ってるよね!」
顔を赤くしたまま泣き目でそう叫ぶ風雅はやはり犬みたいで、有利は薄く笑った。
「でも、僕も最近思いますよ」
「え?」
有利が肯定したことに風雅は驚く。けれど有利はそのまま続けて「最近はそういう噂も流れてますし」と告げた。
噂というのは、おそらく滝本が風雅に直に聞いてきたものと同じような話だろう。
以前までは芽榴と風雅が一緒にいても、流れることのなかった噂だ。
まさか有利が納得するとは思っていなくて、有利の気持ちを知っているからこそ風雅は申し訳ない気持ちになった。
「有利ク……」
「蓮月くん」
風雅が謝りそうになる。その前に有利が言葉を重ねた。
「僕は楠原さんの好きになる人が役員の誰かなら、喜べなくとも納得はできますよ」
それだけ有利は役員全員のことを尊敬していて良き友人だと思っているのだ。
「でも特にそれが蓮月くんなら、僕の中で一番後悔がないんです」
有利の言葉に風雅は首をかしげる。
芽榴の好きな人が風雅であるなら、有利は「あのとき自分がああしていれば……」「自分もこうできたはずだ」と思わずに済む。その理由は簡単だった。
「どう頑張っても、僕は蓮月くんが楠原さんにしてきたようなことはできませんから」
風雅のように素直に「好きだ」とぶつかっていくことも、芽榴を笑顔にするためにたくさん笑ってあげることも楽しい会話を続けてあげることも有利にはできない。
それは風雅だからこそできたことだ。
あの事件でのマイナスがあっても、芽榴の想いを勝ち取れるなら、誰も風雅には勝てない。
「だからもしそうなら、僕や他の人に気を使わずに自信持って喜んでいいと思いますよ」
有利は優しくそう言った。
芽榴に好かれるだけのことを、それだけの努力を風雅がしていることをみんなが知っている。
有利の優しい言葉がくすぐったくて、風雅は困り顔で笑った。
「ありがと、有利クン」
そして風雅は再び参考書に視線を向け、勉強を再開する。
休日まで風雅が勉強するのはおそらくこれが初めてだろう。わざわざ分からないところを聞けるように有利の家に来るぐらいだからその真剣さも伝わる。
それもアメリカに行く芽榴に少しでも近づきたい一心でのことだと思うと、やはり有利は敵わないと思うのだ。
「敵ながら……応援したくなりますよ」
困ったように有利は呟く。けれど勉強に集中している風雅にはそんな有利の声も聞こえていなかった。




