#07
風雅の最後の補習の日。昼休みになり、芽榴がちょうどご飯を食べ終わった頃、風雅はいつも通りF組にやってきた。
「芽ー榴ーちゃん」
昨日の芽榴の対応などまったく気にも留めていないかのように、風雅はニコリと笑って芽榴の席まで歩み寄る。
「お、風雅くん。今日で補習も終わりなんだっけ?」
いつものように芽榴の隣の席に座る風雅に、舞子がそんなふうにして声をかける。すると風雅は「そうそう」と嬉しそうに笑った。
「でも芽榴ちゃんにテスト勉強見てもらう予定だから、オレは来週もここに居座るけど」
風雅は「ね?」と同意を求めるようにして芽榴に向かって首をかしげた。
風雅は昨日の芽榴の態度をなかったことにしようとしてくれている。
その風雅の優しさに甘えるのは簡単だ。でもそうしたら、きっと心のモヤモヤは消えない。同じことを繰り返すだけ。
「あの、蓮月くん」
翔太郎の言うとおり、思っていることがあるなら言わなければならない。
芽榴の呼びかけに風雅は笑顔で「ん?」と答える。
「えっと……今日は社会科の資料室で勉強しない?」
「え?」
風雅が不思議そうな顔をする。同じくそれを聞いていた舞子も驚いていた。
いつもF組で勉強していたのだから芽榴の提案は確かに不自然だ。さすがの風雅も動揺していて、芽榴は慌てたように言葉を重ねた。
「社会系は問題いっぱい解いたほうがいいし。資料室にはたくさんあるから……」
芽榴は今日風雅をそこに誘うと決めてからずっと考えていた理由をぶつける。時間をかけて見出した理由はもっともらしい。
「確かに。松田も補習の勉強なら鍵貸してくれるだろうしね」
舞子もそれに納得し、風雅に「いってらっしゃい」と告げる。
でもやはり風雅は芽榴のその意見が不自然だと気付いているのか、不安げな笑顔を舞子に返していた。
「松田先生、資料室の鍵貸してもらえますか?」
職員室に行き、芽榴がそう尋ねると松田先生は芽榴に鍵を渡しながら用件を尋ねてきた。普通は渡す前に聞くだろうと思って芽榴は苦笑した。
「蓮月くんの補習前の勉強で使おうと思ってるんですけど」
「ああ……なるほどな」
松田先生は芽榴の意見を聞き、半目で風雅を見る。
「蓮月、ちゃんと身を入れて勉強しろよ」
「最近はしてますよ!」
風雅は大きな声で叫ぶ。すると職員室にいた各クラスの先生がクスクスと笑った。
「確かに、補習の最終課題もよくできてたな。あれも楠原のおかげか?」
風雅の担任、新堂先生が楽しそうに尋ねてくる。すると風雅は「ですよ」とにこやかに笑顔を返した。
「その調子なら次回のテストはいい点とれるかな?」
C組の鈴木先生がニコニコ笑って聞いてくる。女教師の鈴木先生は芽榴の彼氏候補に来羅を押しているのだが、それでも風雅ほどのイケメンが笑っていたら応援したくなるようだ。
「テスト期間も芽榴ちゃんに勉強教えてもらえたら……絶対落とさないっすよ」
風雅の笑顔が少しだけ崩れたのを芽榴は見逃さない。
さっき舞子に言った時は「テスト期間も芽榴に勉強を見てもらうのだ」と断定的に言っていた。けれどここへ来て、風雅は言葉を選んだ。
芽榴の不可思議な行動が風雅を不安にさせている。まるで芽榴に拒否されるのを覚悟しているかのような言葉の響きに、芽榴の心が痛んだ。
職員室を出て、芽榴と風雅はそのまま階段をあがり、資料室へと向かう。取るに足りない話をしながら、資料室までやってきた。
「オレ、電気つけるね」
芽榴が鍵を開け、風雅が先に中に入る。風雅は入ってすぐに部屋の明かりをつけた。
「……ありがとー」
今まで翔太郎にしかできなかった配慮。知ったところですぐにはそんな気配りなどできない。それでも風雅は簡単にそれをやってのける。
風雅にとってはそれが普通。そういう気配りをできるのが風雅だ。
そう、今まで思っていた。改めてそれを考え直すと、余計に風雅がすごい人に思えてくる。
「芽榴ちゃん?」
扉を閉めてボーッと風雅のことを眺めていると、風雅が心配そうに芽榴の名を呼んだ。荷物を置いた風雅が椅子に座らず、芽榴のことを見つめている。
「あ……えっと、ごめん」
芽榴はハッとして風雅から目をそらした。目をそらした後に「またやってしまった」と後悔する。
「芽榴ちゃん。……オレ、やっぱり芽榴ちゃんに何かした?」
そして、その芽榴の反応はやはり風雅を不安にさせた。
さすがの風雅でもここまで芽榴が不自然になれば気にしないはずがない。どちらかというと人に気を使う分、余計に風雅は気にするはずだった。
風雅の問いかけに芽榴は急いで首を横に振った。
「ううん。蓮月くんは……何もしてないよ」
芽榴はブレザーの裾をキュッと握った。言うべきことは分かっているのに、言葉はなかなか口から出ていかない。
「芽榴ちゃんがわざわざ場所変えたのは……オレに何か言いたいことがあるから、だよね?」
風雅は芽榴の行動の意図を分かっていた。
芽榴が風雅の問いかけに頷くと芽榴が口を開く前に風雅が言葉を続けてしまった。
「オレと一緒にいるの、嫌になった?」
風雅の質問に、芽榴は顔を上げる。やっと見れた風雅の顔は泣きそうだった。
芽榴がここに連れてきたことを、風雅はそういうふうに受け取った。だから風雅は職員室であんな言い方をしたのだ。
「嫌に、なるわけないでしょ」
風雅にそう思わせてしまったことを申し訳なく感じて、声は余計に小さくなった。
「嫌になられちゃうのは……私の方だよ」
芽榴はそう言って、息を大きく吸い込んだ。翔太郎の言葉を信じて、風雅が芽榴の言葉を受け止めてくれると信じて、ゆっくり口を開く。
「私ね、昨日蓮月くんに直接参考書の答えを返そうと思ってた。だからあのとき、クラスに蓮月くんがいるのも見て知ってたよ」
「え……」
知ってたのに、風雅を呼ばなかった。その理由は風雅には分からない。不安げな風雅の声は芽榴に答えを求めていた。
「蓮月くんは、誰の前でもちゃんと笑えるように……なったんだね」
風雅は目を見張る。芽榴の言葉で、昨日の掃除時間前に自分が誰と喋っていたかを思い出したようだ。
「えっと、その……」
「私が約束したとおり、誰の前でも蓮月くんらしくいられるようになったんだなって……思って、嬉しかった」
芽榴はそう言って自嘲ぎみに笑う。
「って、思いたかったのに……思えなかったの」
風雅の顔を見るのが怖くて、芽榴は俯いた。芽榴の言葉を聞いて、風雅は困っている。風雅の顔を見なくてもそれは分かった。
「ごめん……。芽榴ちゃんにとっては、嫌だよね。オレ、一から全部やり直そうと思って……ファンだった子ともちゃんと話していこうとしてて……」
風雅は翔太郎と同じように芽榴の言葉を受け取った。ファンの子との事件を思えば、風雅がその子たちと親しくするのは嫌だろう、と。
「全部なかったことになんて、できないのに……オレ本当無神経……」
「そうじゃないの」
自分を責めようとする風雅を、芽榴は止める。風雅の言葉に言葉を被せて、芽榴はもう一度「そうじゃないんだよ」と告げた。
「蓮月くんがあのとき話してたのが……ファンの子じゃなくても、私はやっぱり喜べないんだよ」
「え……?」
風雅は驚いた声を出す。
これから芽榴が告げるのは、芽榴のワガママな気持ち。軽蔑されても仕方がない思いだ。
「蓮月くんの中で……私の存在はどんどん小さくなってるんじゃないかって」
それでもこれが芽榴の本心だった。風雅の返答はない。芽榴のブレザーの裾を握る手は一層白くなっていた。
「蓮月くんが私のそばにいるのは、私の前でだけ自分らしくいられるからだって……そしたら蓮月くんにはもう私なんていらなくて」
「芽榴ちゃ」
「それどころか、今蓮月くんに気を使わせてるのは他でもない私で……。どんどん蓮月くんが離れていくの、分かるから」
「芽榴ちゃん、落ち着いて」
言葉を連ねる芽榴を風雅が制する。でも芽榴は止まらなかった。
今の芽榴の代わりなら誰にでもできる。そう思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。
「アメリカに行ったら、蓮月くんは私のこと忘れるんじゃないかって……それが怖くなった」
泣きそうな芽榴の声が資料室に響く。誰よりも芽榴のそばにいて、芽榴に笑いかけてくれた風雅の心から、自分が消えていくのが怖い。
震える芽榴の手に風雅の温かい手が触れた。
「芽榴ちゃん、顔あげて」
風雅に優しくそう言われ、芽榴はゆっくり顔を上げる。芽榴の前にいる風雅は照れたように笑っていた。
翔太郎が言っていたように、風雅は笑っていて、芽榴は驚きのあまり声が出ない。
「芽榴ちゃんの存在が小さくなるわけないよ。むしろその逆だから。芽榴ちゃん、オレがどれだけ芽榴ちゃんのこと好きか分かってないっしょ?」
風雅は困り顔で言う。芽榴の理解では到底足りないほどに風雅は芽榴のことを好きなのだ。
「オレが芽榴ちゃんを好きになったきっかけはそうでも、好きな理由はそれが全部じゃないよ」
風雅は自分で言葉を口にして、納得していた。芽榴の前では自分らしくいられる。それはあくまで好きになったきっかけで、芽榴と過ごした時間はどんどん風雅に芽榴を好きでいる理由を与えた。
「オレがみんなの前でも作らずにいられるようになったのは、芽榴ちゃんのおかげだよ。それなのに忘れるとかありえないでしょ」
風雅の言葉は暖かくて、芽榴は泣きそうになる。
「こんなに好きなのに忘れるとか……どうすればできると思う?」
芽榴が自分の気持ちを疑えないように、風雅は自分の想いを残らず全部伝える。
芽榴に軽蔑するどころか、自分の思いをしっかり伝えてくれた。
「方法なんか、知らない……」
「あはは、オレも知りたくない」
芽榴が恥ずかしそうに小さな声で答えると、風雅は元気に笑った。
「それに、今の聞いて嫌になるどころかもっと芽榴ちゃんのこと好きになっちゃったし……どうすんのって感じだよ」
風雅が困り顔で肩を竦める。芽榴が「え?」と不思議そうな声を出すと、風雅はニタァとだらしなく笑った。
「だって芽榴ちゃん、ヤキモチやいてくれたんでしょ。嬉しいに決まってんじゃん」
風雅にそう言われ、芽榴は目を丸くする。そして芽榴は風雅の言葉の意味を理解して、ボッと顔を赤くした。
「ち、違う!」
ヤキモチとはつまりそういうことだ。芽榴の行動からして確かにそうだが、そうではない。
「えぇ、だってオレが他の子と喋るの嫌なんでしょ?」
そう聞かれて、芽榴は耳まで赤くする。自分で言ったことだが、風雅に言われると恥ずかしすぎて消えたくなる。
「芽榴ちゃん、かわいすぎだから」
恥ずかしがる芽榴を見て、風雅は困ったように笑う。
恥ずかしさは募るけれど心のモヤモヤは消えていた。
「もう……勉強するよ」
「今ならオレなんでも解ける気がするよ」
芽榴が椅子に座ると、風雅が向かいの席に座ってそんなふうに言った。
「じゃあ、すごく難しい問題に挑戦しよーか」
「芽榴ちゃん、颯クンみたいな反応やめて……」
風雅がゲッソリした顔で告げると、芽榴は思わず笑っていた。
カラカラと笑う芽榴を見て、風雅も嬉しそうに笑う。前のように、2人で笑いあえた。
ちゃんと話してよかったと芽榴は思う。そして同時に芽榴のワガママな思いを全部受け止めてくれた風雅のことを、改めて優しい人だと思った。




