#05
英語、数学、理科系の補習が終わり、残る補習は文系科目のみ。つまりは風雅の補習も残り2日だ。だからなのか、また別の理由があるのか、とにかく風雅はご機嫌だった。
「ふふーんふーん」
鼻歌を歌いながら古文を読んでいる風雅を芽榴は不思議そうに見つめる。風雅が問題を解いているあいだ芽榴と話をするために舞子と滝本も近くにいるのだが、2人に至っては風雅を見て半目で笑っていた。
「確かに風雅くんは変わったけど……いろいろ変わっても、単純さだけは変わらないのねぇ」
「え?」
「あと楠原大好き人間ってこともな」
舞子と滝本がご機嫌の風雅を見ながら告げる。2人の言葉からして、風雅のご機嫌の理由が彼の単純さと芽榴に関係しているらしいのだが、いまいち分からない。むしろなぜ2人がその理由を知っているのかも疑問だ。
2人が知っているのだから、当然芽榴も知ってておかしくない理由だろう。ということで芽榴は風雅の解いている問題の答えを手に取った。風雅の机の上からとったため、芽榴の動きに気づいた風雅が顔を上げた。
「オレ、何か間違ってるっぽい?」
芽榴が答えを手にしたのを見て、風雅が少しだけ不安げに問いかけてくる。風雅も今までの補習と対策で古文の活用形をある程度理解してきたらしく、その成果があってか、今解いてるところまでは解釈自体に間違いはない。細かく見れば少しずつ訂正はあるのだが。
「ううん。蓮月くんが楽しそうに読んでるから、おもしろい話なのかと思って……」
「え? あ、ああ……話はそんなに面白くないっていうか……結局何言いたいのかよく分かんない」
風雅は苦笑まじりに頬をかく。自分なりに解釈して問題は解いているけど、結論としてこの話が何を言いたいのかは分からないらしい。つまりは、この話が楽しいからご機嫌というわけではない。
「なんで今日はそんなにご機嫌なのー?」
芽榴が言うと、風雅はニタアと嬉しそうに笑った。それすらも不審で、芽榴は眉を寄せる。そばにいる舞子と滝本はより一層目を細めた。
「芽榴ちゃんとオレ、カップルみたいだって昨日滝本クンに言われたんだ」
風雅が嬉しそうに言い、滝本はハアッと大きなため息を吐く。昨日の午後の体育は男子がB組とF組で合同授業だったらしく、そのときに滝本は風雅にそんなことを言ったらしい。
「ちげーよ。『付き合ってんの?』って確認しただけだろ。見えるとは言ってねぇ」
「意味は一緒じゃん!」
「一緒じゃねーよ!」
そう言って風雅と滝本がギャーギャー言い合いを始める。いつの間にやら風雅と滝本はだいぶ仲良くなっていた。
「にしても、芽榴本人に言ってしまうところが風雅くんらしいわよねぇ」
ふつう嬉しくても好きな子に向かって「オレたちカップルみたいだって!」などと言えない。舞子と滝本の言うとおり、風雅の単純さと彼の芽榴への想いはまったく変わっていない。
昨日、芽榴は舞子に風雅との距離を感じるといったけれど、やはりそれは芽榴の気のせいなのかもしれない。風雅が芽榴に抱きつかないのも公に「好きだ」と叫ばなくなったのも確かに意識的なものだ。けれどそれだって芽榴と距離をとろうとしているからではなく、元ファンクラブの子の目を気にして、芽榴のためにそうしているだけなのだろう。
ただの気のせい――そう思うのに風雅との距離感を不安に思ってしまう。その理由は分からなかった。
「私も、昨日みんなに聞かれたよー」
心に広がるモヤモヤを振り払うように、芽榴は風雅に笑いかけた。芽榴までそう告げると、風雅は目を輝かせて「ほんと!?」と問い返してきた。
「うん。『違うよ』って否定したけど」
「……ですよね」
芽榴の返事に風雅はシュンとなる。その様子を見て滝本はフッと鼻で笑う。
「残念だったな、蓮月。カップルみたいに見えるだけで」
「うるさいよ、滝本クンは!」
風雅の想いは確かだ。それはずっと前から疑いようがない。まっすぐに伝えられてきたことだから芽榴にも分かる。だからこそ、風雅の想いが薄くなればすぐに分かってしまう。今でさえほぼないに等しい少しの距離感にも敏感に反応してしまうのだ。
「芽榴?」
先のことを考えて、少し表情を曇らせた芽榴に舞子は首をかしげる。
「あはは、みんなにはそんなふうに見えるんだなーって思って」
風雅と付き合っていると思われること自体に嫌悪感はない。だからといってこれが風雅だけの話かと言われれば違うと思う。生徒会メンバーの誰と付き合ってるように見えるといわれても、そこまで抵抗はないはずだ。
だからこそ今の芽榴の不安は、風雅への「好き」という気持ちではなく、風雅に想われているという自覚からくる我儘なのだと芽榴は分かっていた。
昼休みの終わりが近づき、風雅は自分の教室と帰る。芽榴は風雅を見送って、残りの時間で舞子と滝本と仲良く会話を弾ませていた。
「クラスのみんなに留学のことを言うのは、いつの予定なの?」
「みんなテストとかで忙しいし、とりあえずテスト終わってから伝えようって松田先生と話してるとこー」
「俺、それまで黙ってられっかなー」
滝本がそんなふうに言う。芽榴が「どーせ話すことだから隠し抜こうとしなくても大丈夫だよ」と笑った。
そんなことを話していると、芽榴は手元に自分のものではない参考書があることに気が付いた。それは風雅の読んでいた古文の問題の答えの冊子だ。
「あ……返しそびれてた」
芽榴は答えの冊子を見てそうつぶやく。時計に目をやれば、まだ掃除時間までは5分くらい時間がある。
「ごめん。私、蓮月くんにこれ返してくるねー」
「いってらっしゃい」
もしかしたら今日の補習で使うかもしれないものであるため、芽榴はそう言って席から立ち上がる。舞子と滝本に見送られて芽榴はF組から出ていった。
芽榴はB組の前にやってきて立ち止まる。芽榴がB組にやってくるのは風雅にはじめて生徒手帳を届けたとき以来だ。風雅のファンが多いB組には芽榴自身、極力近づかないようにしていたからなのだが。
いざやってくると、少し不安になって足がすくむ。
「あれ、楠原さん?」
B組の扉付近で立ち止まっていると、教室に入ろうとしているB組男子が芽榴の存在に気づいて声をかけてきた。
「蓮月に用? 入らないの?」
芽榴がB組に来る理由とすればそれしか思いつかない。B組男子にそう言われ、芽榴は苦笑した。
芽榴がB組の扉の前で止まっているのを不思議そうに見ていたその男子も、すぐにその理由に思い至ったのか「ああ……」と申し訳なさそうに苦笑していた。
「ちょい待ち。俺が呼ぶわ」
親切にもそう言って、その男子がB組の扉を開ける。すると、扉を開けてすぐに芽榴は風雅の姿を視界に入れた。一瞬で風雅の姿が目について、芽榴は咄嗟にその男子生徒の腕を引っ張った。
「え?」
男子生徒は驚いたように芽榴のほうを振り返る。けれど、芽榴はその男子が開けた扉の向こう側、風雅の姿をジッと見ていた。少し見開かれた目は動揺していた。
「楠原さん?」
男子の焦ったような声は聞こえるけれど、芽榴はそれに返さない。
芽榴の目には、B組女子と楽しそうに話している風雅の姿が映っていた。
風雅が女子の前で作り笑いをするのはいつものことだ。けれど今の風雅はその女生徒の前で楽しそうに笑ってる。それは決して作り笑いなんかではない。今まで芽榴の前でしかまともに見せなかった風雅らしい笑顔だ。
相手の女子は、芽榴と直接かかわりがあったわけではないが、元風雅ファンクラブの女子だ。はじめてB組に来たときにも風雅の机の周囲にいた女子だからよく覚えている。
風雅が他の女子、それも元ファンの前で繕っていない姿は衝撃的だった。
それは芽榴が以前風雅に望んだことで、喜ぶべきこと――。それなのに芽榴は、うまく頭が回らない。
「あ……えっと」
芽榴は言葉がでてこなくて、ぎこちなく男子生徒の腕から手を離した。
今、風雅の前でいつも通りの自分でいられる自信はなかった。
「ごめん。これ、蓮月くんに渡してもらえる?」
「え? あ、ちょっと楠原さん?」
芽榴は男子生徒の了承も聞かず、彼に風雅の参考書を託す。
B組から離れ、階段を駆け上がって、芽榴は立ち止まる。
「何やってんだろ……私」
虚しい呟きは掃除時間を知らせるチャイムの音に紛れて消えた。
芽榴の前でだけ自分らしくいられる。だから風雅は芽榴を特別に思って、芽榴を好きになった。
けれど芽榴の前でのみ特別だったそれは、みんなの前で当たり前になり始めた。
「楠原? そんなところでどうした」
上の階の空き教室で仮眠をとっていたのであろう翔太郎とそこで鉢合わせる。芽榴はものすごく情けない顔をしていて、今さら取り繕うこともできなかった。
「何かあったか?」
翔太郎が心配そうな顔で芽榴に問いかける。芽榴は苦笑しながら翔太郎に答えていた。
「いろいろ……自覚してたところかなー」
冗談めかして告げた台詞は、寂しげに響く。
芽榴の願ったとおりに、風雅の中で芽榴に特別だったことが特別ではなくなっていく。
それを今まさに芽榴は実感させられていた。
掃除時間のベルが鳴ってしまったため、そこに長居はできない。芽榴は力なく笑って踵を返した。




