#03
そうして、芽榴と風雅の昼休み勉強会が始まった。
昼休みになると風雅がF組にやってきて、芽榴の隣の席の女子が喜んで風雅に席を譲る。本来その行為は煩わしいはずなのだが、女生徒は「風雅くんの座った椅子に座れる!」と喜んで、毎日風雅に席を提供しているのだ。
「今日の補習は、数学だっけー?」
「うん! ということで、ここお願いします」
風雅は芽榴の机に自分の机をくっつけて、持ってきた付箋の多い参考書を開き、一つ目の付箋のついたページを指した。
その付箋は、前日の夜に家で勉強してきて、分からなかったところに貼ったものだ。風雅はこの時間を無駄にしないように芽榴に質問したいことを絞ってくる。それだけでも風雅が本気で勉強しようとしていることは芽榴に十分伝わった。
「ここはー……」
だからこそ芽榴もちゃんと教えてあげたくて、風雅のノートに数式を書き込んだり図を書いたり、丁寧に教える。それを聞きながら、風雅も首を傾げたり頷いたり真剣に芽榴の解説を聞いていた。
「だから、こうなるの。分かるー?」
「えっと……じゃあ、ここも……こんなかんじで、こうなる?」
「うん、そう。あ、でもここからはー……」
同じノートに書き込んでいるため、2人の距離は異常に近い。けれど芽榴が照れたりすることもなく、風雅がデレデレすることもない。それほど集中しているということだ。
2人の前の席で、野菜ジュースを飲んでいる舞子は、その様子を感心するようにして見ていた。静かに2人の勉強風景を見ている舞子のもとに滝本もやってきた。
「蓮月のやつ、がちで勉強してんのな。最初だけかと思ってたけど……意外」
「ねぇ。てっきり芽榴と一緒にいたくて言い出したんだと思ってたけど……」
風雅が本気で勉強しているのを見て、滝本は驚いたような声を上げる。すると舞子も滝本に賛同した。
芽榴と風雅が勉強している目の前で舞子と滝本は喋っている。けれども2人して舞子たちの会話に反応しない。
「こうなるから……こうなって……っ、だからこれが……ここに代入されて……あっ、できたっ!」
芽榴に教えてもらった問題の類題を解きながら、風雅は一人呟く。何度も間違いを繰り返した結果、やっと正解にたどり着けたらしく、風雅は一際大きな声をあげた。
「芽榴ちゃん!」
風雅は嬉しそうに芽榴のほうを見る。補習の範囲としてはわりと難しいレベルの問題だったため、風雅の喜びも大きい。無邪気にヘラッと笑う風雅に芽榴も微笑み返した。
「うん、できてる。じゃあ、次の付箋に移る?」
「そうしようかな……。あっ、でもあともう一問解いてみる!」
風雅はそう言って、今度は芽榴の助言なしにもう一つの類題を解き始めた。
風雅が解き終わるまで暇になった芽榴は、そこでやっと舞子と滝本の視線に気づいた。
「何ー?」
「真面目に勉強してるなぁ、って滝本と感心してたとこ」
舞子にそう言われ、芽榴は「そーだね」と薄く笑んだ。芽榴自身、風雅がここまで真剣に勉強するとは思っていなかったため、2人と同じくらい驚いてはいるのだ。
「この調子なら、次のテストで滝本くんといい勝負するんじゃないかなー?」
いつもより勉強時間も格段に増えて理解度も増している。風雅の成績が上がるであろうことは明白だ。けれどそんなふうに言われた滝本は「はぁ?」と大きな声を出した。
「さすがに俺だってワースト100位付近のやつには負けねーって」
滝本は余裕そうな顔で告げる。基本的に滝本の順位は130番台から150番台をさまよっている。一学期にとれた100位以内は彼にとっても珍しいものだった。
「あ、でも今風雅くんが解いてるとこってあんたが解けなかったとこよね。滝本」
「え?」
舞子が風雅の開いている参考書のページを見て呟く。すると滝本はみるみる焦り顔になって、ちょうどそのとき風雅は問題を解き終えてシャーペンを置いた。
「芽榴ちゃん。解き終えたんだけど……答え見てくれる?」
風雅がそう言って、芽榴に解ききった問題を見せた。数式をちゃんと並べて説明も書いてある。本当にちゃんとした解答だ。芽榴は風雅のノートを見て、目を見開いた。
「すごい。できてるよー」
「え、ほんと? やったー!」
風雅はバンザイで心の底から喜んだ。嬉しそうな風雅を見て、芽榴もつられるようにカラカラと笑う。
その目の前で滝本は「嘘だろ!」と芽榴から風雅のノートを奪った。
「うわ……できてるし。嘘だろ……」
滝本が絶望的な顔をすると、風雅は自慢げに鼻を鳴らした。
「次のテストは滝本クンにも勝つからね!」
「調子のんなよ! お前なんかに絶対負けねーし!」
風雅の宣戦布告に対し、滝本は強気に返す。けれどその表情からも声音からも焦りが見てとれた。何せ、この調子で風雅が頑張るなら、本当に滝本の順位を越すことくらいはできてしまいそうなのだ。
「楠原! テスト期間入ったら前みたいに俺にも勉強教えてくれ!」
「え?」
そして滝本までそんなことを言い出す。芽榴が困り顔で反応するが、それを遮るようにして上から風雅の声がかぶさった。
「ダメだよ! 芽榴ちゃんはオレに教えるので精いっぱいだから!」
「ふざけんな!」
そうやって、風雅は滝本も口論をしている。文句を言い合ってはいるものの、そこに険悪な雰囲気はない。どちらかといえば楽しげな雰囲気だ。
そんな風雅のことを芽榴はボーッと見つめる。その様子を見て、舞子が不思議そうに問いかけてきた。
「芽榴」
「んー?」
「風雅くんのこと、そんなに見つめてどうしたの?」
尋ねられた芽榴はキョトンとした顔をしていた。指摘されるほどに、風雅のことを見つめていたのかと思うと恥ずかしくなって、次の瞬間には苦笑していた。
「何も。ボーッとしてただけ」
芽榴がそう答えると、舞子は微妙に納得していない顔はしたものの、それ以上は追求しないでいてくれた。
「じゃあ、私はそろそろミーティングに行こうかな。ほら滝本、あんたもでしょ」
それからしばらくして舞子が口論中の滝本の頭をペシッと叩いた。
「うわ、だった! こんなことしてる場合じゃねー!」
今日の昼休みは各部活ミーティングがあるようで、舞子も滝本もそちらに行かなければならない。
芽榴と風雅に「がんばれー」と言い残す舞子の隣で、滝本は「絶対負けねー!」と言い残した。
2人になって、風雅との勉強会が再開する。さっきと同じように風雅は真剣に芽榴の解説に耳を傾けていた。
「あ、だからこうなるのか!」
「うん。今ので分かったー?」
「うん、ばっちり! 芽榴ちゃん、やっぱ教えるの上手」
風雅はそう言ってニッと笑う。嫌いな勉強をしているはずなのに、本当に楽しそうに風雅は笑った。
修学旅行が明けても風雅は毎日楽しそうだ。どちらかというと、修学旅行前よりも元気になっている気がする。
そのことに芽榴は少なからず疑問を覚えてしまう。
風雅が芽榴といられる時間は、長くないのに――。
「ん?」
芽榴が少しだけ表情を曇らせると、風雅が首を傾げた。風雅の不思議そうな顔を見て、芽榴は慌てて表情を取り繕おうとするが、一度顔に出してしまっては手遅れだった。
「……蓮月くん、楽しそうだから」
「え?」
問い返されて、芽榴は困り顔をする。さっきもそれをボーッと考えていて舞子に指摘されたのだ。
「私がアメリカに行くって分かって、蓮月くんは寂しがるのかなって……勝手に思ってて……」
言葉を連ねるほど恥ずかしくなって、芽榴の声はどんどん小さくなっていった。
自分がとても身勝手で自惚れたことを考えている自覚はある。
芽榴は、自分がアメリカに行くと知って風雅が寂しそうにすると思いこんでいた。けれど実際の風雅は芽榴の前で寂しさを見せることなどなく、それどころか前よりも楽しげにしている。勉強だってこんなに頑張り始めたのだ。
風雅の心境が分からなくて、芽榴はそんなことを口にする。すると、風雅は頰をかきながら困ったように笑った。
「寂しいよ。当たり前じゃん、そんなの」
芽榴の言うとおり、風雅が寂しくならないはずがないのだ。
「でもオレ、芽榴ちゃんに大丈夫だって言ったでしょ?」
「え?」
「修旅でさ……芽榴ちゃんがどんなに遠くに行っちゃってもオレがちゃんと追いかけるから、だから大丈夫だって」
風雅にそう言われ、思い返してみればそうだ。寝癖のついた風雅が笑ってそう言ってくれた。
「あのとき、オレがああ言ったから……芽榴ちゃんは迷いなくアメリカに行くって決めたのかもって……そう思ったら、オレはその意見を突き通さなきゃダメじゃん」
だから芽榴の前で寂しい顔はしないと風雅は決めた。芽榴の後押しをしたのなら最後までそうしようと、芽榴が好きだと言ってくれた笑顔をたくさん見せてあげようと。
「芽榴ちゃんと一緒にいたい。でも芽榴ちゃんの夢もちゃんと応援したいから」
そう言って風雅はまた楽しそうに笑う。
「なんて、かっこいいこと言ってみたけど……結局芽榴ちゃんと一緒にいたい気持ちが先走っちゃったんだよね」
芽榴と一緒にいたくて頭がよくなりたいと思った。できるだけそばにいたくて芽榴に勉強を教えてくれと頼んだ。全部芽榴の近くにいたいから、という不純な動機。けれど全て本気の思いだ。
「芽榴ちゃんには笑ってほしいんだ。そのためにはやっぱりオレが楽しくなきゃ笑えないじゃん」
一度本当に手放してしまいそうになった芽榴の笑顔を、風雅は望んだ。残り少ない時間で得られるものも変化も少ない。だからせめて芽榴を笑顔にできる自分になって、芽榴の笑顔を得たい。
「芽榴ちゃんを笑顔にして、頭もよくなって……そんな自分になれたら芽榴ちゃんの隣にいられるかなって」
それは、とても風雅らしい思いだった。
「そんな人になったのに、私の隣なんかじゃもったいないよー」
風雅の言葉は嬉しくて、そんなふうに言いながらも芽榴は笑っていた。芽榴の笑顔を見て、風雅も嬉しそうに笑う。
「やっと釣り合うくらいだよ。芽榴ちゃんはそれくらいすごい子だから」
「そんなことないってば……」
自信満々に言う風雅に、芽榴は困り顔で告げる。けれどもそんな会話ですら楽しくて、芽榴と風雅は顔を見合わせて笑っていた。




