#20
芽榴が搭乗する時間は刻一刻と迫っていた。そろそろ荷物を送ったり、諸々の検閲に向かわなければならない。
「タイムリミット、かな……」
芽榴は目を閉じる。その顔は少しだけ切なく歪んだけれど、それでもどこかスッキリとしていた。
荷物を持って芽榴は立ち上がる。そんな芽榴の姿を見て、重治は苦笑いをやめ、応援するようにニカッと笑顔を見せた。
「芽榴。頑張るんだぞ」
「うん」
「お前の帰る家は……ずっとここにあるからな」
重治はそう言って、芽榴の頭をクシャクシャと撫でた。嬉しいことを言ってくれる重治に、芽榴は困ったような笑みを浮かべた。
「もう……お父さん、泣かせるよーなこと言わないで」
芽榴は眉を下げて笑う。鼻の奥がツンとして、芽榴の涙腺は少し緩んでしまっていた。別れの時で、ただでさえ寂しい思いが募っているのに、切なさが膨らんだ。
「しばらく顔見せられないんだから、笑った顔を覚えていてもらいたいのに」
芽榴はそう言って懸命に涙を堪える。すると重治の隣で圭も笑っていた。
「大丈夫だよ。芽榴姉の笑ってる顔はちゃんと覚えてるから」
圭には情けない顔ばかり見せているというのに、そんなことを言ってくれる。芽榴は「ほんと優しいんだから……」と圭に今できる精いっぱいの笑顔を向けた。
「芽榴ちゃんが帰ってくるまでに、私も料理上手になるからね」
真理子が気合満々に言うが、楠原家一同半目で笑ってしまった。その反応に真理子が唇を尖らせて「ひどい」と反応する。
「レシピは書いておいたから、それ通りに作って練習してみて」
拗ねる母の姿に微笑を浮かべ、芽榴は告げる。すると真理子は薄く笑って「頑張ってね、芽榴ちゃん」と母親らしい姿で芽榴の両手を握った。
家族との別れの挨拶が済んで、芽榴は風雅に視線を向ける。芽榴と目が合うと、風雅は自然に笑顔を携えた。
「行ってらっしゃい、芽榴ちゃん」
「うん。行ってくるね」
風雅の気持ちは全部昨日聞けたから、もう伝えそびれたことは何もない。ただ一つ芽榴が言い残した「ありがとう」の言葉を告げると、風雅は「こっちこそ」と笑ってくれた。
「じゃあ、行くね」
別れの言葉は言い尽くした。
芽榴は「よしっ!」と両頬を叩くと、最後に満面の笑みをみんなに見せた。
また、1年後ここに戻ってくる。そう決めて、芽榴は踵を返す。
思い残すことはない。けれども、最後にもう一度、会いたい気持ちはあった。記憶は鮮明で、彼の顔はすぐに思い浮かぶ。それでも本物の彼に――。
忙しない足音が辺りに響いた。
「芽榴!」
芽榴がみんなに背を向けてすぐ、声が聞こえた。その声を聞いて、芽榴の足はすぐに止まる。
ずっと頭の中で思い描いていた声がして、一瞬自分の錯覚なのではないかと思った。
けれど振り向いた先には、颯がいた。それは夢でも幻想でもなく、本物。
「神代くん……」
来てほしいと思っていた。来てくれると、心のどこかで信じていた。けれど、実際に颯がそこに現れると、喜びの渦が激流となって身体中を駆け回った。
「じゃあ、俺たちは行くか」
重治は颯のことを見て、クスリと笑うと、一足先に芽榴のそばから離れる。重治の行動を見て、真理子と圭も芽榴に最後笑いかけてその後に続いた。
「颯クン」
芽榴の隣にいた風雅は、数メートル先にいる颯に歩み寄る。そして目の前で止まった。
「遅すぎ」
そう言って呆れるように笑うと、風雅は「交代」とでも言うように颯の肩を軽くグーパンチしてその場を離れた。
周囲はざわついているのに、その音は芽榴の耳に入ってこない。2人のあいだに流れる空気はとても静かで、そして愛おしかった。
「間に合った……」
颯は芽榴のそばに歩み寄ると、その手を握って、安心するように呟いた。
「うん。ギリギリまで……待ってて、よかった」
芽榴は目の前で安心している颯にそう告げる。
颯が来てくれた。それだけで、芽榴は嬉しくて笑顔は自然とこぼれていた。
「芽榴……。あのボイスレコーダーは反則だよ」
息を整えた颯はそう言って眉を下げた。
あんなふうに真っ直ぐ想いを伝えられれば、颯の完全な負けだった。芽榴にあそこまで言われて、逃げ切れるわけもない。臆病な颯の心ごと、芽榴は全部掴んだのだ。
「今度こそ、私の本当の気持ちは……届いた?」
芽榴は颯に尋ねる。
遊園地のときにも聞いた。あのとき芽榴の気持ちは半分届いて、半分届かなかった。届けることもできなかった。
けれど今回は本当に芽榴の想いのすべてを颯にぶつけたのだ。
可愛らしく笑う芽榴を見て、颯は深く息を吐く。溜息にも似た深い息に、芽榴が首をかしげると、そのまま颯に腕を引かれた。
「わっ! 神代くん、ちょっと……」
芽榴は颯に抱きしめられていた。周りのざわめきが少しだけ増したのは、気のせいではないだろう。周囲の視線も、冷やかすような口笛も聞こえるのに、颯は芽榴を離そうとはしなかった。
「か、神代くん、みんな見てるから!」
「だから?」
「……っ!」
芽榴が何を言いたいか分かっているくせに、颯はわざと聞き返してくる。いつもの颯の返しに安心感があるものの、恥ずかしくて芽榴は顔を赤くした。
「芽榴の気持ちは届いたよ。だから……次は僕の番だろう?」
颯は胸の中でジタバタ動き回る芽榴に、そう囁く。耳元で囁かれ、芽榴は耳まで赤くしていた。
「僕はやっぱり芽榴にそばにいてほしい。目の届かないところに行ったら……絶対変な虫つけてくるだろうし」
「え?」
芽榴が問い返すが、颯はあえて繰り返さない。そのまま颯は言葉を続けた。
「だから僕は今度こそ……1年しか君を待たないよ」
そしてまた颯は芽榴に条件を突きつける。芽榴の心が少しだけ痛んだ。最短で帰ってくる気はあるけれど、それができなければ颯はまた芽榴のことを――。
「1年経ってもまだ向こうにいる気なら、僕もそっちに行く。何があっても芽榴のそばに行くよ」
芽榴は目を見張った。
「……ほんと?」
それはつまり、何があっても颯と離れる時間は1年だけということだった。1年過ぎれば、ずっとそばに居られる。甘く優しい颯の誓いだった。
「嬉しいよ……神代くん」
芽榴は颯の胸に顔を埋めていた。嬉しい気持ちを伝えたいから、芽榴は顔を押しつけて必死に涙を堪えた。
芽榴が颯にしがみつくと、颯は困ったように息を吐いて芽榴の頭を撫でてくれる。優しくいつものように芽榴の髪を颯の長い指が梳いた。
「ねえ芽榴、本当に分かってる?」
颯の声が降る。その声音は少し不安げで、芽榴はそれすらも颯らしいと小さく笑った。
「つまり、僕はこれから先もずっと芽榴を手放す気がないってことだからね?」
「うん」
「うんって……」
芽榴が即答すると、颯は芽榴を抱きながら「ああ……」と額を押さえた。
「だから……っ。いまさら『嫌だ』って言ってももう遅いからね。……それ、ちゃんと分かってる?」
颯が照れたようにして言った。その顔が見たくて、芽榴は颯の胸から顔を上げて、颯の顔を覗く。
少しだけ赤くなった顔は珍しくて、いつもの余裕のある颯からは想像もつかない。それは芽榴だけが知る颯の姿だ。
「分かってるよ。嫌になるわけないから」
何もかもが嬉しくて、幸せで、芽榴はふわりと笑った。
「……可愛すぎ」
その顔が愛おしくて、颯は自然と芽榴の唇に触れていた。
「……っ!」
公然で堂々とされたキスに芽榴は目を丸くする。そしてすぐさま唇を覆って颯から離れた。
「神代くん!」
「本当はもっとしたいけど、1年後までお預けだね」
悪びれもなく肩を竦めて颯は言う。さっきの照れた表情などどこにもない。最後の最後まで颯のペースにのまれてしまっている。
「神代くんのバカ」
でも、それすら今は嬉しいと思ってしまう。
ただただ、搭乗時刻の迫ることが恨めしい。けれど颯とすべてを約束できたから、思い残すことは今度こそ何もなかった。
「じゃあ……行ってくるね」
「……ああ」
颯の視線を感じながら、芽榴は前を向く。進む先は明るくて、芽榴の足取りは軽い。
「芽榴」
もう一度名を呼ばれ、芽榴は顔だけ振り返る。すると颯は爽やかに笑っていた。
「帰ってきたら、オセロでもしようか」
唐突な颯の提案に芽榴は笑って頷いた。
再びここに戻ってきたとき、新たな始まりはすべての始まりと同じ形で――。
「ドローなら賭けはなしだよ」
出会った頃、芽榴は颯にそう言った。けれど1年経った今、告げる言葉はもう一つ。
「私が勝つけどねー」
「それは僕のセリフだよ」
互いに笑い合った。それは成長した姿で再会する誓い。
遠回りした想いは巡り合って、きつく糸を結んだ。
もう緩むことも切れることもない糸は赤く染まって芽榴と颯の運命を繋ぐ。
愛おしい人との再会を胸に、2人は再び前を向いて歩き始めた。
【Route:神代颯 END】
颯ルート最終回、いかがだったでしょうか!
第2章もお楽しみに!




