#19
「はい、これが芽榴ちゃんので、こっちが風雅くんの」
空港の待合エリアで、芽榴は風雅と一緒に座っていた。そこへ真理子が温かい飲み物を持ってやってきた。
「ありがとー」
「ありがとうございます!」
風雅は笑顔で真理子から飲み物を受け取る。その様子を見て、2人の後ろに座っている圭が目を細めた。
「つか、蓮月先輩。学校どうしたんすか?」
「もちろん、遅刻する予定!」
風雅は即答する。芽榴を送るためなら当然、とでも言いそうに自信満々な顔を向けられ、圭とその隣に座っていた重治は苦笑していた。
芽榴の旅立ちを見送るために、圭と重治もそこにはいた。東條も来るとは言っていたのだが、芽榴との関係はまだ公にはできないため、電話で「頑張れ」と言ってくれた。
東條に関しては出張でアメリカまで赴くことは珍しくないため、そのときは会おうという約束もしている。
「わざわざありがとね、蓮月くん」
芽榴が素直に感謝すると、風雅は嬉しそうに笑った。どう頑張っても芽榴への想いが伝わらないと分かった後もなお風雅は芽榴に優しくて、芽榴はその優しさに甘えていた。
「颯くんは、やっぱり来ないのかしら」
真理子はそう言って残念そうな顔をする。最後に颯と一緒に下校した時、真理子に会った颯は「式典で見送りに行けないんです」と残念そうな顔で真理子に言ったのだ。だからここにいる全員が、颯が見送りに来ないことを知っている。
芽榴が眉を下げて笑うと、重治が肩をポンポンと叩いた。
「まだ、時間はある。だから待っているんだろう?」
重治はそう言って芽榴に笑いかけた。
時間ギリギリまでゲートをくぐらずに、芽榴が待合エリアに残る理由――それは重治たちと別れるのを名残惜しく思っているのももちろんではあるのだが、待っているからだ。
「オレ、やっぱり颯クンを迎えに……」
風雅はそう言って立ち上がろうとするが、芽榴がその腕を掴んで風雅の動きを制した。
「あとは神代くんが決めることだから」
芽榴に会いに来るか、来ないかは颯に決めさせたい。風雅が迎えに行って来たところで、芽榴の言葉は颯の心に届いてないのと同じだから――。芽榴の想いが伝わったなら、颯は必ずここにきてくれるはずだから。
「気長に待つよ」
芽榴は清々しく笑っていて、風雅はその笑顔に困ったような顔をして笑った。
麗龍学園の廊下を颯が走っている。教室に戻って荷物からスマホと財布をとった颯は慌ただしい様子で教室を出ていく。颯の忙しない姿は珍しくて、通りかかる生徒たちがみんな颯を振り返って驚いた顔をしていた。
けれど颯はそれを気にしない。気にしている暇はなかった。
「神代! 理事長室はそっちじゃないぞ?」
走る颯の背後から中井先生の声が飛ぶ。颯は立ち止まって振り返った。もうすぐホームルームの時間で、先生たちが廊下に現れ始めていた。
「もうすぐ式典会場に向かう時間だろう?」
中井先生が不思議そうな顔で颯のことを見ている。何か言い訳を考えて抜けなければならない。本当は役員の誰かに代行を頼むこともしなければならない。こんなことなら最初から意地を張らずに頼んでおけばよかったと颯は後悔する。今は、言い訳を考えている暇すら惜しいのだ――。
「だから、交代するって言ったのに、意地っ張りなんだから」
立ち止まったままの颯の耳にそんな声が聞こえる。自分の隣――声のほうに目を向ければ、呆れ顔の来羅が立っていた。
「来……」
「交代? 神代、聞いてないぞ? 何が……」
中井先生は来羅の言葉を不審がる。しかし、中井先生が問い終わる前に来羅が颯の胸を押した。
「たぶんそろそろタクシーも来てる頃だから……早く行きなさいよ」
そう言って、来羅はニコリと笑う。颯は目を丸くし、すぐに来羅の意図をくんで再び走り始めた。
「神代! どこに行く! 新堂先生、神代が……っ! 」
「中井先生」
走り出した颯を中井先生が止めようとするが、そんな中井先生の前に長身の男が立ちはだかる。眼鏡を外している彼は、そのまま中井先生に向かって言葉を向けていた。
「今日は神代が体調不良で遅刻だったはずですが……違いますか?」
暗示が発動している。翔太郎の言葉を聞いた瞬間、中井先生は一気に静かになった。そして「そうだったな……」などとうつろな目で言っている。
中井先生は止まった。けれど中井先生が叫んだおかげで、颯の前には他のクラスの先生がやってきていた。
「神代、待て!」
新堂先生が颯を追いかける。けれど、颯を追いかける新堂先生は急ブレーキをかけてその場に止まった。新堂先生の前には有利が立ちはだかっていた。それも――。
「めんどくせぇな。代わりを誰かがすりゃあ問題ねぇだろうがよ?」
ブラック有利モード。片手に木刀を手にしている有利を見て、先生は唾を飲んだ。そして無条件に「全然問題ない!」と降伏した。
「有利……」
「振り向いてる場合じゃねぇだろ。走れ!」
有利が颯に向かって叫ぶ。廊下中がざわついていて、生徒たちの声が飛び交う。けれど颯はすべての後始末を3人に任せて走り続けた。「ありがとう」と呟いた颯の声を聞いて、3人は薄く笑っていた。
学園の外に出ると、来羅の言っていた通り、門の前に車が止まっていた。
それはちょうど昨日の夜も颯が乗り合わせた車だ。
「タクシー……ね」
颯は少し息を切らしながら、車の方へと向かう。けれどそこで待っている人物は颯の嫌いな天下人ではない。
「おつかれさま、会長さん」
聖夜の相棒、簑原慎だ。颯が歩み寄ると、慎は車の扉を開けた。中に入るよう促され、颯は躊躇うことなく車内に乗り込む。慎もその後に続いて車内に乗り込んだ。
「まさか、本当に見送りに行ってないとはね〜。確認のために柊ちゃんに連絡してよかった」
慎はそう言ってケラケラ笑う。おそらく聖夜からいろいろ話を聞いていたのだろう。聖夜の忠告を無視して、颯が見送りに行かず学園に行ってるのではないかと危惧し、慎が来羅に連絡したらしいのだ。
そのお節介も今は心強い。
「ちなみに、この車は聖夜が出してくれたんだぜ?」
慎が言うと、颯は目を細めた。この車は聖夜のものだから、それが妥当だろう。けれど当の本人がこの車に乗っていない。
それを颯が不思議に思っていると、慎がそれを察して「聖夜からの伝言〜」と軽い口調で言った。
「お前の顔なんか見たくないから車だけ寄越してやる。お前が相手ならあいつを奪うのも簡単だから、今回は手を貸してやる……だそうだぜ?」
慎がニヤリと笑む。すると颯はフッと鼻で笑った。
「奪わせる気はないよ」
強気に言った颯は、いつもの颯だ。
颯の答えを聞いて、慎も楽しげにケラケラと笑った。2人を乗せた車は確実に制限速度をオーバーして走っている。
「聖夜が手を貸すんだから、この車は治外法権発動中。超高速であんたを空港まで送り届けるよ」
慎はそう告げると、少しだけ真剣な空気を纏った。いつも軽ノリの男だからこそ、真面目な空気になると途端に慎は異様なほどの風格を漂わせる。
「会長さん。楠原ちゃんを、幸せにしてやってね」
慎の言葉を聞いて、颯は目を丸くする。まさかこの男から言われるとは思っていなかったのだ。
驚いた颯の顔を見ても、慎は馬鹿にするような笑い声はあげない。ただ薄く笑うだけだ。
「人一倍、苦労した子だから」
慎は颯のことを見てはいない。ただ窓の外を見つめて、そう口にする。その瞳の奥に何が映っているのかは、慎にしか分からないことだ。
「もちろん。……幸せにするよ」
颯は誤魔化さずに答える。その返事を聞いて慎は満足げに目を伏せた。
聖夜の権力は偉大で、本当に早く空港に着いた。おそらくこれもバレたら権威の乱用として謹慎対象になるのだろう。
「さすがに、楠原ちゃんがどの便に乗るかは分かるだろ?」
慎が眉を下げて言うと、颯は頷いた。
「ありがとう」
颯は抵抗なく感謝の気持ちを告げていた。そこで颯が油を売っている時間はない。颯は空港の中へと急いで入っていった。
「よし……っと。簑原家まで車出してもらえる?」
慎は颯が行ったのを確認し、聖夜つきの運転手に連絡をつなぐ。すると「了解です、簑原様」と返事がきて、慎はシートに深く背を預けた。
すでに慎の耳にはスマホがあてられていた。
「もっし〜、聖夜」
通話が繋がると、慎はすぐに通話相手の名を呼ぶ。すると相手は静かな声で『送れたか?』と問い返してきた。
「ばっちり。ついでに、車借りるわ。そのまま簑原家に行くからさ?」
『ええけど……お前、芽榴に会わんの?』
聖夜はてっきり慎が芽榴の見送りに付き添うのだと思っていたらしい。すると慎は「さすがに野暮だろ」と笑った。
「つか、それを言うなら聖夜もじゃん?」
聖夜も芽榴の見送りには行かなかった。2人して理由は同じだ。
『あいつの幸せそうな顔見るんは、まだちょっと抵抗あるやろうからな』
聖夜の言葉に慎は苦笑する。
芽榴に幸せになってほしい。けれどそれは芽榴が颯の前で幸せそうに笑うということだ。それを見て、素直に喜べるほど聖夜と慎はまだ心に折り合いがついていない。
『にしても、今日くらい傷心癒す意味で……仕事詰めんでもええんちゃうか? 今日分のノルマは終わっとるんやろ?』
いつもはスパルタの聖夜が優しくて、慎は思わず笑ってしまった。本当のことを言えば、今日分どころか明後日分までのノルマは終えている。
そのせいで慎の手元には簑原家から渡されている課題がなくなっていて、新たに簑原家からもらわなければならないのだ。
「楠原ちゃんが聖夜のものになってくれてたら……俺が頑張らなくても聖夜のとこに行けば楠原ちゃんに会えたけどさ。どうもそうはいかないみたいだし?」
慎がそう言うと、聖夜は『うっさいわ』と拗ねたような声を出した。
「でも俺が頑張って上に行けば……その立場で楠原ちゃんと会えるから」
頑張る理由が少しばかり不純だとしても、それが慎のプラスに変わるなら問題などない。
「遊んでた分、詰めなきゃいけない知識はたくさんあるし。休んでらんねぇよ」
そう言って慎が笑うと、聖夜も『頑張りや』とどこか優しく言ってくれた。
そうして慎は聖夜との通話を切る。
窓に映る慎の顔は笑っていた。
本当に悲しくても笑顔が張り付いてどうしようもない。
「よかったな、楠原ちゃん」
慎は窓の外を見つめて告げる。その瞳の奥には芽榴が不服そうに「ありがとうございます」と言っている姿が浮かんでいた。
次回、颯ルート最終回です!




