#17
芽榴がマフラーを忘れて帰ったことは颯も知っていた。そのとき風雅と目があったけれど、風雅は何も言わずにそれを持って芽榴を追いかけた。
きっと、あのとき風雅を止めて自分が持っていくべきだったのだ、と颯は思っていた。けれど颯は風雅を止めることなく、生徒会室に居残った。
芽榴にマフラーを届けるために、芽榴を追いかけた風雅は目を赤くして帰ってきた。その顔で風雅に何があったかをだいたい察することはできた。
少しホッとしたというのが素直な感想で、醜い感情を抱えて「最低だな」と颯は自嘲する。
「神代くん、本当に明日楠原さんを見送りに行かないんですか?」
「ああ」
有利の問いかけに颯はなんでもない顔で答える。最後に芽榴の顔を見たい――その気持ちは確かにあった。けれど、いつもの自分で芽榴を見送れる自信なんてなかった。
「式典なら、俺たちが代わりをすると……」
「会長が出ないと不自然だろう?」
最後に見せる姿くらい、芽榴が好きだと言ってくれた凛とした自分の姿でありたいと、颯は思った。
「芽榴も、分かってくれてるよ」
本当に、悲しいくらい聞き分けがよかった。
生徒会が終わり、颯は1人で帰る。
帰り際までずっと、来羅には「見送り行きなさいよ」と言われていたが、颯は笑って全部流していた。
「明日、か……」
颯は白い息を吐いて、そう呟く。
これで本当に、自分の隣から芽榴はいなくなる。繋がりがなくても、関係が終わってもずっと芽榴は颯のそばにいてくれた。
それは芽榴が颯を信頼してくれていたから――。そして颯のことを好きになってくれたからだ。
芽榴と想いを通わせて、芽榴が「好きだ」と言ってくれた。
それが過去のことになったとしても、後悔は――。
「ない、わけないか」
颯はそう言って苦しげに笑った。
後悔は、ある。芽榴が自分以外の誰かを好きになる姿は想像もしたくない。嫉妬して拗ねた顔も「好き」だと言って照れた顔も、全部颯だけの芽榴だ。誰にも渡したくはない。
けれどその後悔も想いも全部、芽榴を縛ってしまうだけだから。そうして颯は自分の壊れそうな想いに蓋をする。
すれ違う想いは、誰にも触れられないまま――。
ゆっくりと大通りを歩く颯の耳に、車がブレーキを踏む音が聞こえる。颯の歩く歩道のすぐそばに黒い高級車が止まった。
その車は明らかに颯を意識して止まったように思えた。そして颯はその車に少なからず見覚えがある。その車にはよく芽榴が乗っていた。
車の窓が開いて、そこからは予想していた――颯の嫌いな顔が現れた。
「神代会長。お1人ですか? 珍しい」
――琴蔵聖夜。颯はその顔を見て、目を細めた。胡散臭い言葉使いに颯も同じような口調で返す。
「何か用ですか? 天下の琴蔵様」
「立ち話もなんですから、どうぞ乗ってください。……おい、ドア開けや」
聖夜が運転席との連絡をつなぐ。
颯の了解など気にすることなく、聖夜の合図を受けた運転手が聖夜のいる後部座席の戸を開けた。
颯に拒否権はない。そう悟って、颯はおとなしく車の中に入る。
聖夜と向かい合うことを避け、颯は彼の斜め前に座った。車は動き出して、聖夜は深く息を吐く。
「安心せえや。ちゃんとお前の家まで向かうよう言っとる」
知らない道に行ってポイ捨てするようなことはしない、と聖夜は颯に告げる。冗談めいた聖夜の言葉を颯は受け流す。何も言わずに、ただそこに座っている颯を聖夜はつまらなそうに見つめた。
「てっきり、芽榴と一緒におるんは……お前やと思ったんやけど」
聖夜の言葉に、颯は反応する。視線を動かした颯は見事に聖夜と視線を絡ませた。
「一緒にいたよ。……最後まで」
颯は聖夜から視線をそらした。颯が芽榴と一緒にいたことは事実だ。それは聖夜もすでに知っていることのようで、聖夜がなぜそれを知っているのかも颯は問おうとはしない。
聖夜は芽榴のことが好きだ。好きだから、芽榴の動向は把握しているのだろう。おそらく自分と芽榴が付き合い始めたことも自分のツテ、あるいは簑原慎を経由して知りえることのはずだ。
「明日おらんくなるやつのそばにおらんで、こないなところに座っとるくせに、よう言えたな?」
本来ならこれが芽榴と過ごす最後の日。颯は芽榴と一緒にいるだろうと思っていたのに大通りを一人で歩いている。聖夜はそれをたまたま見かけて、不審に思ったのだ。
「君には……関係ないよ」
「……余裕ってやつか? ほんま腹立つわ」
聖夜は頬杖をついて苛立ちを顔面いっぱいに表して告げた。
「こないな男、さっさとフッてしまえばええのに」
聖夜は不貞腐れた顔で言う。きっと普段の颯ならそこで「フラれるつもりもないし、フラれたところで芽榴は君にはいかないよ」などと勝ち気な発言をするはずだった。
けれど颯は聖夜の言葉に何も返さない。返せる言葉はなかった。合意の上でも、結論は聖夜の言葉の通りに近かった。
「お前……まさか」
そして、その颯の反応は聖夜を一つの推察に至らせる。けれど、そんなことあるはずがないと聖夜は動揺していた。
普通に考えて、両想いなのに別れるはずがない。聖夜がもし芽榴を捕まえたならアメリカに行くからという理由だけで芽榴を手放したりはしない。だからこそ聖夜はその考えを信じ切れなかった。
「嘘やろ……。芽榴に好きや言われとって、どないして……」
そこまで言っても颯は何も言わない。それは暗に颯が聖夜の発言をすべて肯定していることを意味していた。
芽榴と颯が別れた。それは聖夜にとって嬉しいことなのに、聖夜は切なさと怒りが入り交った感情で颯のことを睨み付けていた。
別れたけれど2人は互いにまだ想いあっていて、聖夜はそれを腹立たしいく思う。
あの日、聖夜に見せた芽榴の泣き顔が、聖夜の脳裏をよぎる。今もまた芽榴が1人であんな顔をしているのかと思うと、腹立たしくて、聖夜は颯の胸倉を掴んでいた。
「……あんま調子こいた真似しとるんちゃうぞ」
聖夜は唸るようにして颯に言った。
対する颯は聖夜を睨み返す。聖夜に言われなくても、自分が馬鹿なことをしている自覚はあるのだ。歪みかけの自分の想いが、芽榴の重たい足枷になることだけはしたくない。
「お前、自惚れとるやろ。アメリカ行っても、芽榴がお前のこと想うとってくれるって」
「そんなことは……」
「じゃあなんや? 理由もなく手放した言うんやったらただのアホやろ。お前、芽榴が向かう先がどういうところかほんまに分かっとるんか?」
聖夜は冷静に颯に現実を突きつける。それは颯への嫌味でもなんでもなく、確固たる事実だ。
「百歩譲ってお前が優秀なんは認めたる。せやけどな、世の中にはお前みたいなやつが他にもおる。逆にあいつが行く場所はそういうやつしかおらんねん」
芽榴が行く場所は麗龍とは比べ物にならない――エリートの巣窟。そんな場所には颯のような人間がたくさんいて、そんな人たちが芽榴に言い寄らない確証はない。むしろ言い寄られる確率のほうが高いのだ。
「籠から放した鳥が、元に戻ってくる確証なんてどこにもないんやぞ」
颯にぶつけた想いは聖夜の後悔のすべてだ。芽榴を無理やりにでもラ・ファウストという籠の中に閉じ込めてしまえば、芽榴は手に入ったのかもしれない。
「一回捕まえたんやったら、もう二度と手放さんくらいの意地見せえよ」
聖夜が願っても許されない権利を、颯は持っている。それを放棄するのは、ただの逃げでしかない。
「――――芽榴を、これ以上泣かせんな。クソ野郎」
聖夜はそう吐き捨てて、颯の胸から手を離した。
聖夜の言葉は痛いくらいに颯の心に突き刺さる。聖夜に諭されるのは癪なのに、颯は言い返す言葉もない。聖夜が颯に投げかけた言葉のすべてが真実だ。
沈黙だけが残る車は夜道を抜け、颯のマンションの前までたどり着く。
「お前がこのまま何もせんのやったら、誰にとられても文句ない言うことやからな」
最後に聖夜が吐き捨てるのは聖夜から颯への宣戦布告。
けれどすべては颯が決めることだ。残された時間はもう少ない。
サヨナラの明日はもう、すぐ訪れるのだ――。




