#11
バレンタイン当日の朝。
芽榴は朝から洗面台で顔を何度も洗っている。真冬に冷たい水で自分の顔を洗い流していた。
「……マシに、なったかな」
洗面台の鏡に映る自分の姿を見て、芽榴は小さく呟く。今朝起きてすぐに自分の顔を見たときはあまりにも酷くて言葉を失うレベルだった。
昨日家に帰ってきてなんとかチョコを作りあげた後、しばらく聖夜のことを思い出して泣いていた。泣きたくはないのに、涙は止まらなくて、おかげで目が赤くなって腫れてしまった。
水洗いのおかげか、今は起きた時よりまともな顔になっているが、それでもまだ少し目は赤い。
「みんな……すごいや」
芽榴の周りはみんな恋愛経験がある。少なくとも初恋がまだなどと言う人は芽榴くらいだ。『好き』という感情がうまく定まらなくて、それに伴ってうまくいかない気持ちがたくさん現れ、ここのところ芽榴は表情を曇らせるばかりだった。
みんな、こんな気持ちを抱えているのに、それでも笑って楽しそうに学校生活を送っている。そう思うと、芽榴は尊敬の念しか浮かばない。
「私は本当に何も知らなかったね……」
芽榴はいろんなことを知っている。けれどみんなが知っている当たり前の感情を、やっぱり芽榴は知らずにいた。
でも今の芽榴はそれを知っている。
聖夜は、この気持ちが芽榴の本心なら自分を責めるなと言ってくれた。
大切な人を傷つけて、けれどそのことで伝えられる気持ちに気づいたなら、後悔をしないだけのことをしたい。
「まだ、間に合うかな」
芽榴は目を伏せる。想いはもう決まっていた。
今日はバレンタイン。夜に圭と重治へ渡す分のチョコを冷蔵庫に残し、作ったチョコをすべて手提げ袋にいれて、芽榴は学園へと向かった。
昨年も芽榴が覚えている限り、バレンタインはすごかった。何がすごかったか、は言うまでもないのだが。
「藍堂くんにチョコ作ったんだぁ」
「柊さんにあげようと思うんだけど……」
「葛城先輩に突き返されないかな」
役員にチョコを渡そうという声がどこからともなく聞こえてくる。昨年に比べて風雅ファンが落ち着いている分、マシにはなっているのだが。
「芽ー榴、友チョコどうぞ」
周囲の会話を耳にしながら、芽榴はクラスへとやってくる。自分の席について荷物を整理していると、舞子が登校してきた。そして一番に芽榴へと可愛くラッピングされた袋を手渡してくる。それはいわゆる友チョコだ。
「ありがとー。私からもこれ」
芽榴は舞子からの友チョコを嬉しそうに受け取り、自分が作ったチョコを舞子に手渡す。すると舞子は「お昼が楽しみね」と嬉しそうに芽榴からのチョコを受け取った。
芽榴の手作りチョコとなれば味が保証されているどころか、確実に美味しい。
そしてそれを思っているのだろう、クラスメートの猿が登校するや否や、芽榴たちのところへやってきた。
「楠原ーっ、チョコくれーっ!」
滝本はそう言って芽榴の目の前に手を出す。すでに彼の中でチョコの義理も本命も関係ない。あるのは芽榴の美味しいチョコが食べたいという、その気持ちだけなのだろう。
「はい。どーぞ」
滝本の行動はなんとなく想像できていたため、芽榴はちゃんと滝本の分のチョコも用意していた。滝本は芽榴からのチョコを受け取ると「おっしゃあ!」と叫ぶ。
「よかったわねぇ。義理でも芽榴のチョコがもらえて」
舞子が呆れ顔で言うと、滝本は「うるせー」と目を細めた。
「つか、お前もチョコあるならくれよ」
そう言って滝本が照れ臭そうに舞子の前に手を差し出した。芽榴のときとは違って少し遠慮がちな態度に、芽榴は微笑を浮かべる。滝本の手を見て、舞子は少し驚きつつ、用意しておいた滝本へのチョコを渡した。
「チョコが2個も手に入るなんて、快挙なんじゃない?」
滝本がチョコを受け取ると舞子はホッとした顔をして、けれどすぐに挑発するように目を眇める。そしてその挑発にのった滝本が騒ぎ始めた。
ホームルームが近づいて、滝本が仲のいい男子たちとの会話に戻ると、芽榴と舞子はいつものように2人で話し始める。
「舞子ちゃん」
「何?」
「滝本くんにチョコあげるの、緊張した?」
芽榴が唐突にそんな質問をして、舞子は目を丸くする。そして数回瞬きした後、咳払いを挟んだ。
「まあ、少しはね」
滝本にチョコを渡した舞子は平然としていて、滝本をからかうことまでできていた。好きな人に緊張せずにチョコを渡せるものなのか、と焦っていたが、舞子の返事をきいて芽榴は少し安心した。
「いきなりそんなこと聞いてどうしたわけ?」
舞子の問いかけに、芽榴はギクッと肩を揺らす。その分かりやすすぎる反応に舞子はクスリと笑った。
「とうとう、返事が決まった?」
舞子が優しく笑って問いかけてくる。芽榴は苦笑しつつ「うん」と静かに答えた。
「まだ……受け取ってくれるかな?」
芽榴は小さな声で自分の中にある一つの不安を舞子にぶつける。金曜日、芽榴は自分のわがままで彼から再び逃げてしまった。そんな芽榴からのチョコを彼はまだ受け取ってくれるのか。芽榴がそんな不安を口にすると、舞子はハハッと笑った。
「あんたにそんなこと言う日が来るなんてねぇ」
「……っ」
舞子に指摘され、芽榴は顔を赤くする。確かに、こんなふうに恋愛のことで悩んで相談するのは初めてだ。芽榴自身、柄じゃないことは分かっている。けれど舞子は「それもいい傾向よ」と言って微笑んだ。
「受け取ってもらえなかったら、受け取ってもらえるまで粘ればいいじゃない」
舞子はそう言って「あの人に限って受け取らないなんてないと思うけど」と付け加えた。それはどうか分からないが、舞子の言っていることは正しい。
「うん。頑張るよ」
芽榴が笑うと、舞子も「がんばれ」と笑ってくれた。
今日からテスト一週間前に入るため、生徒会業務もお休みだ。「頑張る」とは言ったものの、役員みんなには会いに行かなければ会えない。
けれどただ一人に関しては、絶対に会える確信が芽榴にもあった。
「え、芽榴ちゃん。チョコくれるの!?」
昼休み、恒例のように芽榴のクラスにやってきた風雅に、芽榴がチョコを渡すと風雅はそんな反応をした。
「あげないと思ってたのー?」
芽榴がそう問いかけると、風雅はハハッとぎこちない笑みを浮かべた。どうやら彼は本当に芽榴からチョコをもらえないと思っていたらしい。
「だから、余計に嬉しいや。ありがとう」
風雅は本当に嬉しそうにチョコを眺める。ただ、本当に嬉しそうなのにその顔は切なく見えた。
言葉を飲み込んでいるような風雅の姿に、芽榴は少しの罪悪感を覚える。本当は風雅にチョコをあげるのは迷った。風雅の気持ちを知っているからこそ、それはいけないことのように思えていた。
けれどきっとチョコをあげなければ、風雅はもっと悲しそうな顔をしていただろう。
芽榴がチョコを渡して少しでも風雅の笑顔が見れたのは、確かだった。
「蓮月くん……」
「みんなにも、あげるんだよね。……颯クンにも」
芽榴が言わなくても風雅はそのことにちゃんと気づいている。他の人が気づいて芽榴の一番近くにいた彼が気づかないはずがない。
「……うん」
芽榴が申し訳なさそうな顔で答えると、風雅はまるで「そんな顔しないで」と言うようにニコリと笑ってくれた。
「きっと喜ぶよ」
風雅はそれ以上芽榴に言葉を言わせない。たぶん、それが風雅なりの折り合いのつけ方だったのだろう。
それから昼休みが終わる少し前に風雅はクラスに戻る。予想に難くはなかったが、風雅はこの後バレンタイン関連でいくつか呼び出されているらしく、いつになく忙しそうだ。
風雅がクラスに帰ったことで、芽榴は急いで他の役員にチョコを渡しに行く。だいたいみんながいそうなところを思い浮かべて、芽榴は足を動かした。
来羅と有利はおそらく生徒会室。翔太郎は学年棟の空き教室で寝ているだろうから後回しだ。
颯は――。そのことを考えて芽榴は視線を落とす。
本来なら颯も来羅たちと同じように昼休みは生徒会室にいることが多い。
けれど今朝、耳にした会話には颯にチョコを渡すと言っていた女生徒が何人かいた。そしてその中には風雅のように、昼休みに呼び出して渡そうと話している声も。
きっと、颯は女子の呼び出しに応じている。
そう思うと、胸はキュッと締め付けられた。その気持ちを噛み締めて「ああ、やっぱり……」と芽榴は実感する。
生徒会室にやってくると、芽榴の予想通り、そこには来羅と有利がいた。そしてこちらも予想通りで、颯はそこにいない。
「楠原さん」
「るーちゃん、どうしたの? 珍しい」
芽榴が昼休みに生徒会室にやってくることは珍しい。風雅が勉強しにきている最近ではなおさらだった。有利と来羅がほんの少し驚いた顔をするため、芽榴は照れ臭そうに笑った。
「うん。2人に渡したいものがあって」
芽榴はそう言って、持ってきた手提げ袋からチョコの袋を取り出して来羅と有利に渡す。すると2人とも風雅と同じような驚いた反応をした。
「僕にも、くれるんですか?」
有利に至っては発言すら風雅と似ていて、芽榴は苦笑する。
「うん。それは藍堂くんに、そっちは来羅ちゃんに」
芽榴がそう言って笑うと、有利も来羅もすっきりとした笑顔でそれを受け取ってくれた。そこが風雅とは違っていた。
「ありがとうございます」
「るーちゃんのだから、絶対に美味しいわね」
そんなふうに彼ららしい反応で、芽榴のチョコを受け取ってくれる。2人はただ嬉しそうに芽榴があげたチョコを眺めていた。
芽榴はそのまま慌ただしい様子で生徒会室を出て行き、学年棟に戻って各空き教室を見て回る。翔太郎のことだから、人があまり来たがらない場所で眠っているはずだ。
そう考えながら芽榴は学年棟の階段を駆け上がって、選択授業でしか使われない演習室の扉を開けた。
中は少し薄暗いため、芽榴は中に入るのを躊躇し、時計に目を向ける。今は掃除時間が始まる5分前。どうせそろそろ起きなければならない時間だ。今なら中にいる人物を起こしても問題ない。
芽榴が教室の明かりをつけると、中の一席で仮眠を取っていた人物が、慌てたように顔を上げた。
「……っ、楠原か」
翔太郎は芽榴の姿を見て、ホッとした顔をした。慌てて掛けようとした眼鏡をゆっくり掛け直し、仏頂面で「こんなところまで何の用だ」と問いかけてきた。
「チョコを渡しに……ね」
芽榴はそう言って翔太郎の席まで歩み寄る。翔太郎がこんなところで仮眠をとっているのは、習慣的なものだが今日は特に人に見つからない場所へ逃げたかったのだろうと芽榴は察していた。
だから少し、翔太郎にチョコを渡すのには抵抗がある。
「葛城くんは、こういうの嫌いそうだとは思ったんだけど……」
女嫌いの翔太郎なら、バレンタインという行事ごと嫌いそうだと芽榴は思った。実際、それは間違いではないようで、翔太郎は否定しない。
「でも貴様の義理チョコくらい、もらわないでもない」
そう言って、翔太郎は芽榴が渡すのを躊躇しているチョコの袋を自ら手を伸ばして受け取った。
その拍子に、翔太郎には芽榴の手提げ袋の中が見えてしまう。
「……残り一つは、神代の分か?」
翔太郎は手提げ袋の中に残っているたった一つのチョコの袋を見つめ、目を細めた。
芽榴は翔太郎の問いかけに苦笑する。翔太郎にまで颯とのことを心配されていたのかと思うと気恥ずかしかった。
「うん……」
「渡すのか?」
「……そのつもりだよ」
芽榴は翔太郎の問いにはっきりと答える。今の芽榴と颯の状態で、芽榴が颯にチョコを渡すのは至難だった。うまく話せるかも分からない。もう一週間以上、颯とまともに話していない。
けれど、今度こそ逃げないと決めた。断った想いの分だけ、芽榴は自分の想いをはっきりさせなければならない。
それが芽榴のケジメだ。
「久しぶりに見たな」
芽榴の顔を見て、翔太郎は薄く笑っていた。芽榴が首を傾げると、翔太郎は眼鏡を外しながら小さく口を開く。
「貴様が、迷いのない顔をしてる。久々にその顔が見られてよかった」
今の芽榴の顔は清々しい。ここ最近の芽榴は浮かない顔で、ずっと何かを考えるような仕草をしていた。今の芽榴の姿は修学旅行の最後の日ぶりに見る迷いのない決断をした顔だった。
「そんな貴様には、もう必要ないかもしれないが」
翔太郎は机の上に眼鏡を置き、芽榴の目を見つめる。芽榴が綺麗だと言った瞳で芽榴を見つめ、翔太郎は何度目か分からないおまじないを口にした。
「絶対にうまくいく」
それは翔太郎から芽榴への後押し。いつになく優しい眼をした翔太郎にそう言われ、芽榴は本当に催眠術にかかったような心地になる。
「うん。ありがと、葛城くん」
その言葉は昼休みの終わりを告げる予鈴とともに、静かに演習室に響いていた。




