#10
日曜日、芽榴は朝から忙しなく動いていた。家族の朝食を作った後、自分の身支度を済ませた芽榴は冷蔵庫から手作りのチョコを取り出してそれを軽くラッピングしてから鞄の中にいれる。そのチョコは昨晩芽榴が作ったものだ。
「それ、東條さんに持ってくの?」
食卓で朝食を食べている圭が芽榴に尋ねる。今日は東條グループのことで少し話をしようと、東條にオフィスに来るよう言われていたのだ。だから芽榴はお化粧をしてきちんとした服を身にまとっている。
「うん。バレンタインは明日だけど、今日くらいしか渡せないし」
芽榴はそう言って笑った。明日はバレンタインデーだ。けれど、東條には毎日会えるわけでもなく、次に会えるのはいつになるかも分からない。
「でも、なんか数多くない? 会社の人にあげるとか?」
芽榴が鞄にいれたチョコの袋は3つ。それを見て、圭が不思議そうに首を傾げた。
「……まー、そんな感じ」
芽榴は苦笑しながら答える。平たく言えばそれは嘘ではない。けれどなんとなく嘘をついた感じがして何とも言えない気持ちになった。
「圭の分は今日の夜作って、明日渡すねー」
そして芽榴は付け加えるようにして圭に言う。今日の分は普段渡せない人のために作った先行品だ。だから明日の本番に渡せる人たちの分は今日の夜作る。
味見と称して昨日も芽榴のチョコを盗み食いをした真理子は今日の夜もつまみ食いすることだろう。
「楽しみにしてる」
「あははっ、いっぱい美味しそうなチョコ持って帰ってくるくせにー」
芽榴がからかうようにしていうと、圭は「全部義理だよ」と芽榴から目をそらして半目で言った。
「芽榴姉こそ、今年は役員さんにも渡すんだろ?」
圭がすねたようにして言う。すると芽榴の動きが一瞬止まった。けれどすぐに笑顔を繕って「うん」と答えた。
「芽榴姉?」
「あ、時間やばいかも。圭も早く食べないと、部活遅れるよー」
芽榴は圭の問いかけを遮るようにして、そう伝える。実際に芽榴も圭も互いに出発予定時刻は近づいていて、芽榴は慌てたように荷物をまとめ始めた。
それから約1時間後。芽榴は東條グループの本社である高層ビルの最上階にやってきていた。東條の秘書に連れられ、芽榴は東條のいるオフィスへとやってくる。
10年前にも来た――東條に『楠原芽榴』になることを告げた場所へ。
「社長、面会の方がいらっしゃいました」
コンコン、と扉をノックして秘書がそう尋ねる。すると、中から東條の肯定の声が聞こえた。東條の返事を聞いて、秘書が芽榴を中へと通す。
「失礼します」
芽榴が中に入ると、扉はパタンと静かに音を立てて閉まった。芽榴の視界の先には東條の姿、そして――聖夜の姿もあった。
2人が向かい合うようにして革のソファーに座っている。芽榴が入ってくると、東條はそのまま視線を上向かせ、聖夜は後ろを振り返った。
「芽榴、よく来たね」
東條はそう言って、芽榴に隣に座るよう促した。優しい顔をする東條を見て、芽榴の緊張はすぐに解ける。芽榴が東條の隣に座ると、聖夜がニコリと笑った。
「お久しぶりです。楠原さん」
聖夜の丁寧な挨拶に芽榴は面を食らう。けれどここはあくまで東條もいる席、聖夜が素で話すわけがなかった。
「お久しぶり、です。琴蔵さん」
芽榴がぎこちなく返事をすると、聖夜は苦笑し、東條は芽榴の考えを悟ったようにフッと優しく笑った。
「世間話をいれるのもいいが、早速本題に入らせてもらうよ。君達もそんなに時間はないだろうから」
そんな言葉を挟んで東條が語り始める。
今日芽榴がここに来たのは、東條グループの仕組みなどを知るためだが、過去に自分が継ぎたいと思っていた家のことだ。それほど深く説明を受けずとも、だいたい芽榴は把握していた。
そして、それにプラスして東條グループと深いつながりにある琴蔵財閥に、東條グループの次期社長候補を伝えておこうということだった。
「ということで、楠原さんに私の跡を継いでもらおうと考えている」
東條はしっかりとそう言った。他の人間が相手なら、いくら麗龍の生徒会役員といえども東條グループの後継に持ってくるのは些か話が先走りすぎではないか、と言われるところ。
しかし、聖夜は芽榴が何者かを知っている。だから、東條も聖夜にははっきりそう告げたのだ。
「楠原さんの後継については、H大学の留学が成功することを条件にしていると伺っていますが」
聖夜は凛とした姿で口を開く。聖夜が留学の話を知っていた理由は簡単で、東條家総帥から話を聞いていたからだ。
新年早々に東條家から見合いの話がきた。見合いの話自体は珍しいことではないけれど、相手が東條家、そして芽榴だと聞いて聖夜は驚いた。東條家の総帥はすべてを調べ上げて聖夜が芽榴の素性を知っていることまで嗅ぎつけていた。
そして聖夜が芽榴との見合いを断らないことも、おそらく察していたのだろう。
けれど聖夜が返事をする前に東條家の方から見合いの話を取り下げた。そのときに言われた理由が「楠原芽榴をH大学留学を条件に東條家の後継にする」というものだった。
だから聖夜は修学旅行のあの日、詳しくはその前には芽榴の身に起きていることをすべて知っていたのだ。
「楠原さんはまだH大学の留学前……そんなにはっきりと後継にするとおっしゃっていいのですか?」
聖夜が問いかける。それは聖夜自身の問いではなく、琴蔵家の次期会長として当然の問いだった。聖夜ならそんな質問はしない。その答えを聖夜は分かっているから。
そのことを東條も理解して、芽榴に目配せをする。
「琴蔵くんはこう聞いているが、どうかな?」
東條は芽榴に答えるよう、促す。そして芽榴は薄く笑ってその答えを口にした。
「必ず成功させて、私が東條グループを引き継ぎます」
芽榴の答えを聞いて、聖夜も東條も嬉しそうに笑った。「期待している」と、芽榴の後を押してくれる。
それからしばらく話をして、東條との会談は終わりを迎えた。
「あの、お2人にこれ……1日早いですけどバレンタインのチョコです」
芽榴はバッグの中からチョコを取り出す。今朝用意したのは東條の分と聖夜の分、そして――。
「琴蔵さん、これ……簑原さんにも渡してもらえますか?」
芽榴はそう言って聖夜に2つチョコの袋を渡す。すると聖夜の片眉が少しだけ上がった。
「……はい。承りました」
一瞬不服そうな顔を見せたものの、自分の分もちゃんとチョコがあるからか、聖夜はすぐに機嫌を直してくれた。
「チョコありがとう。美味しくいただくよ」
東條は嬉しそうに芽榴のチョコを見つめ、芽榴にお礼を言う。芽榴はそれを見て安心するように笑った。
「それじゃあ……芽榴には私の車を出そうか」
「え、私は自分で帰れま……」
「ご心配なく、社長。楠原さんは僕が責任を持って送り届けますよ」
自分で帰ると言おうとした芽榴の腕を引き、聖夜が笑顔でそう告げる。すると東條は「頼むよ」と苦笑しつつ、後を聖夜に任せた。
「遠回りですし、自分で帰れますから」
芽榴が困ったような声で言うが、聖夜は芽榴の腕を離さない。
「どうせ車なんやから遠回りも何もないやろ。疲れへんし」
聖夜はそう言って、芽榴の意見は聞かずに芽榴を車に押し込んで自分も同じ車の中に乗り込んだ。
聖夜の素早い合図で車が走り出し、芽榴はもう降りることもできない。2人きりの空間になると、途端に聖夜の気張った雰囲気が穏やかになった。
「ああ、お前の前でまで丁寧語使うん、ほんま抵抗あるわ」
聖夜は座席のシートにもたれて、大きな息を吐く。すると芽榴は苦笑した。
「私も違和感ありましたよ。この喋りに慣れちゃってますから」
「最初はこっちの喋り嫌いや言うてたけどな」
聖夜はそう言って懐かしむように笑う。出会って間もない頃は聖夜の素の喋りが嫌いというより、聖夜の極悪非道な性格が嫌いだったのだが。
「琴蔵さん、変わりましたね」
芽榴がそう言うと、聖夜はほんの少し目を見張って「アホ」と困り顔をする。
「変えたんはお前やろ」
聖夜がそう言って芽榴の頭をクシャクシャと撫でた。その手つきは、優しい。
颯もよく、芽榴の頭をこんなふうに撫でてくれた。安心させるように、優しく――。
そのことを考え始め、芽榴の意識が飛びかける。それを察して芽榴はハッと意識を戻した。
「芽榴?」
「……どーかしました?」
芽榴はニコリと笑って、ボーッとしかけた自分を誤魔化す。それを訝しげに見つめながら聖夜は「……何も」と疑問をのみ込んでくれた。
「役員に、話したんやろ? 留学の話」
聖夜に他意はないのだろう。それは聖夜が口にしてもおかしくない話題で、けれど芽榴にとって一番触れられたくない話題でもあった。
「はい。頑張れって……言ってくれました」
芽榴は笑顔を繕ってそう言う。みんな、応援してくれた。それは本当だった。あのときは、みんな応援してくれて、今でも応援してくれている。
――颯以外は。
「お前、ほんまにどないした?」
「何がですか?」
「誤魔化すなや」
嘘の笑いを浮かべようとする芽榴の手を聖夜が掴む。そして車窓に芽榴の手を押し付け、芽榴との距離を詰めた。
「別に、何も……」
「ないわけないやろ」
聖夜はそう言って、眉を寄せた。
何もないわけがない。その通りだ。でもそれを気づいてほしい相手は聖夜ではなかった。
できることなら、聖夜には気づいてほしくなかったのだ。
「本当に、何もない……です」
そう言ったのに、自分の声が信じられないくらい弱々しくて、芽榴は呆然とする。けれどそんな芽榴の姿を見ている聖夜のほうが呆然としていた。
「琴蔵さ、ん……?」
「あいつらに何か言われたんか?」
聖夜が真剣な顔で問いかける。聖夜の芽榴を押さえる手には力がこもっているけど、優しかった。
「何も……みんな、頑張れって……っ」
「せやったら、どないして泣いとん?」
聖夜に言われて、芽榴は自分の頬に手を当てる。芽榴の頬には涙がつたっていた。
強くなれたと、思っていた。アメリカに行くことでもっと強くなれる、と。
それなのに、今の芽榴は弱くて自分の気持ちをはっきりさせることもせずに涙を流すことしかできなくなっていた。
みんなに本当の自分を話す前よりも、もっと弱くなっている気がした。
「私だって……離れて、平気なわけ……ないのに」
――大丈夫じゃないって言ったら……君は僕のそばにいてくれる?――
「……そばにいたいって、思って……っ」
芽榴の口からもれる言葉は聖夜への想いではない。それは聖夜にも分かってしまう。芽榴が一緒にいたいと思う相手が、自分ではないのだと。
「……俺じゃ、ダメか?」
俯いて泣く芽榴に、聖夜はそう問いかける。芽榴はその意味をうまくのみこめずに、顔をあげた。
「お前の気持ちも分からんで、泣かせることしかできんやつのことなんか……忘れや」
「何、言って……」
「俺が忘れさせたる。お前のこと傷つけるようなやつより……俺のほうがお前のこと想うとるに決まってる」
そう言って聖夜が芽榴に顔を近づけてくる。
どんどん近づいて、芽榴の唇に聖夜のそれが触れかける。
「琴蔵さ……」
聖夜の顔が目の前にある。
「……好きや」
優しい聖夜の声。
けれど芽榴が瞠目した理由は聖夜とは無関係のところにあった。
――好きだよ――
芽榴の脳裏には颯の姿が過っていた。優しく笑う颯、困ったような顔をする颯、そして芽榴に口づけをした颯の姿が、芽榴の脳裏にしっかり刻み込まれて離れない。
その意味を、芽榴は自覚してしまった。
「い、や……っ」
芽榴は聖夜から顔を背ける。それは、はっきりと表された芽榴の拒絶。
「……っ」
聖夜の手に力が入ったのを、芽榴はその身で感じていた。聖夜の気持ちを知って、それを芽榴は拒絶した。
芽榴はそうしてまた大切な人を傷つけてしまう。
「ごめ、なさ……私……っ」
自分を責めようとする芽榴を、聖夜は抱きしめた。芽榴が何も言えないように、聖夜は自分の胸に芽榴の顔を押し付ける。
「それがお前の答えなら、自分を責めんなや」
聖夜は苦しげに、でも芽榴に優しくそう告げる。芽榴が自分を責めたところで芽榴の答えは変わらない。だから意味もなく自分を責めて傷ついてほしくない、と聖夜は言った。
「だって……私は、琴蔵さんにいっぱい感謝して……」
「感謝するんと、好きになるんは……ちゃうやろ?」
芽榴がどれだけ聖夜に感謝しているか、それは聖夜もわかってくれているはずだ。けれど感謝の気持ちがイコール好きにはならない。
「俺は恩返しのために好きになれなんて言わへんよ。芽榴は、俺をそないなかっこ悪い男や思うとる?」
そんなふうに思っているはずがない。芽榴が首を横に振ると、聖夜は「せやろ?」と悲しげに笑って、芽榴の腕を解放した。
聖夜の手首のミサンガは、切れることなく揺れている。
「お前を好きになったこと自体、俺の中で意味あることや。お前のこと好きになって……俺はお前に人間として好かれるくらいには変われたやろ?」
聖夜はいつも肝心な時に芽榴のことを助けてくれた。芽榴のために動いてくれた。他人のために動けるようになったことを、聖夜は自分の成長だと受け止める。
「今の俺は、好きやろ?」
聖夜の声は切ない。聖夜の問いかける、その「好き」は恋愛の意味ではなかった。人間として、友人として、好きかと問われ、芽榴の答えはひとつしかない。
「……はい」
芽榴の涙が溢れる。聖夜の想いに応えてあげたかった。けれど聖夜の想いを知って、芽榴は気づいてしまった。
自分の中に、知らず実っていた心を――。
「チョコ、おおきにな」
それでも聖夜は、優しく芽榴を抱きしめてくれる。涙が止まるまでずっと、そばにいてくれた。
芽榴が想いに応えられないと分かっても、変わらぬ態度でいてくれた聖夜は、どこまでも芽榴に甘かった。
颯くんルートなだけに他のキャラの心情が切ないです。。聖夜くん、颯くんルートでまだ出てきますが彼ルートが始まるまで応援してあげてください。




